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92 善

※人によっては不愉快となる表現が含まれます。

流血や生物を殺める描写が苦手な方はブラウザバックを推奨いたします。予めご了承ください。

名前を呼ばれた気がして、振り返った。

私はいつの間に横たわっていたのか、桜の木の下で、うたた寝をしていたようだ。


「変なの、どうしてこんな……」

「ミコ」

「……?どなた、でしょう」


木の影に、それは絢爛(けんらん)な上衣を身につけた男性が立っている。

その人は控えめに私の名を呼んだと思うと、また半身をその影に隠してしまった。


「あの……?」

「私のことを、覚えているか?」

「いいえ。ごめんなさい……存じ上げません」

「そうか」


淋しそうに笑ったその人に、思わず手を伸ばす。

それをやんわりと避けられた。


「時が来たようだ」

「時?」

「辛い記憶だろう。だが、それを持たねばならぬ」

「……」


何やら事情があるらしい。

彼は服の下から首飾りを外すと、そっと私の首にかけた。


「託す。そなたを造り上げる全ての愛に、応えろとは言わない。けれどどうか、そなた自身の声を殺さないで欲しい」

「これ……」


懐かしいものだった。

後宮へ来て以来、身につけたことなどなかった。無くしてしまったと思っていたから。

心の拠り所だったそれに耳を近付けると、微かに息遣いが聞こえるような気がした。


「私、州王に殺されたんですか?」

「いいや」


池の付近を通り過ぎた際に、背後から突き落とされたところまでしか確かな記憶が無い。

水飛沫の中で見えた姿は、州王のように見えた。


「では、何故こんな場所に」

「それは憂麒(ゆうご)の役目だ。私ではない」


空を映して冷たい色の瞳に、私が反射していた。


「輪廻にお帰り、ミコ」



















「……ぁ……」


ずんと重力を感じて、息が漏れる。

先程までの天国のように穏やかな場所とは打って変わって、地獄のように凄惨な場に引きずり落とされた。


不思議と痛みは無い。

ただそこにあるのは、身を引き裂かれそうなほどの悲痛さだった。


ユウだった時の記憶が、私の中にある。

彼が託すと言っていたのは、これだったのだ。


(ぜん)……?」



随分と逞しく成長した彼の姿を目に焼きつけると、胸がわけもなく震えた。


その目を大きく見開いて、唇を微かに揺らした善にここはどこだと問いかけようとして、口から血が漏れる。


ごぽと嫌な音を立てて吐き出してしまい、思わず眉根が寄った。


「善……私」

「ミ、コ……」


宝物の入った箱を、慎重に開くような声色だった。

それを音にしてしまうことを、恐れているような。


途方もないといえば大袈裟になるだろう。けれど一人の人に歩ませるにはあまりに長い時を、独りにさせてしまった。

まだあんなに幼くて、壊れてしまいそうだったのに。


私の名を口にした善に近寄ろうとして、私達を阻むものにようやく気がつく。


「え……?」

「なんだ、今更気付いたわけ?お前ら、俺を無視するなよ」

「貴様──」


夢幻(むげん)だ。

ユウを、私を刺し殺したあの夢幻がここにいる。

剣に貫かれ身動きが取れない背を無理矢理引き寄せられ、痛覚に関わらず声が漏れる。

部屋は地獄の釜の中のように蒸し暑く、轟々と音を立てては終わりを示す。

それに被せるように夢幻が怒声を上げた。


「お前たちに復讐出来る日をずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずーっと待ってたんだよ!俺は!厄災を与えられておきながら俺を裏切ったコイツに!俺の手を取らなかったお前も!みんなみんな大っ嫌いだ!」


(厄災……?)


善を嫌っていると夢幻が匂わせていたことには気が付いていた。私を憎んでいるらしいことも。

けれどそれがどうして、こんな酷いことをさせるまでに繋がるのか。


「黙れ」

「飢え苦しむのはどうだった?空腹に喘ぐ日々は辛かっただろう?俺を求めないからそうなるんだよ。白虎だけじゃあ収まらなくなったんだろう?青龍の目を盗んで抑えたつもりだろうが、そう長くは持たない……おまけに青龍からは詛いまで貰っちゃって。ホント笑える」


堪えられたのはそこまでだ。


「──夢幻」

「おい、お前」

「夢幻、貴方の名前は夢幻。それ以上善を侮辱することは許さない」


人ならざるものにとって、真名は時に毒となる。

夢幻にとって、それが引き金となるなら。

賭けだろうと構わない。

私が流した血の量では、逃げるにはもう遅すぎることを悟る。

それでも、私に出来ることはこれしか無かった。


(付け焼き刃だろうと、構わない)


私たちに近付いていた夢幻の手をとると、逃げられないようにその名を呼ぶ。怯える子供のような目をして、夢幻は私を見た。

私が触れた場所から焼けるような音を出しながら、夢幻が後ろへ退こうとする。


させはしない。


「私が、名付けた名を、忘れないで」

「お前ッお前!それをどこでェ……!」

「汝の名を夢幻、泰曄(たいゆう)が夜明け、真名を握られし者。天命によって、その身を落とさん」


言葉が、考えるより先に滑り出た。その言の葉が紡がれるのと同時に、私の()が、しっかりと結ばれて強くなっていくのを感じる。


「やめろ……ッ」


瞳孔の開いた目が、私を中央に見据えた。

その手が、爪先が鋭利な刃物のように尖って私の目の前へと近付く。


瞬きをしてはならない。

そう言われた。

たとえ恐ろしくても、これから顔を逸らしてはならない。覚悟を持って夢幻を睨みつけ、口上を述べる。


「このっ──」

「飢えた獣を忘れるな、害獣」


善の手の平を、鋭い刃が貫いた。

ほとんど人の形を失いかけた夢幻の手を受止め、それ以上こちらに距離を詰められることがないようにと、もう片方の手で、それをへし折る。

善の方が痛みも負傷も上回っているだろうに、それでも尚この人は私を守ってくれていた。


(この機会を、無駄にはしない)


折れた片腕を庇うように背を丸め、善の手に噛み付いた夢幻の名をもう一度貫くように叫ぶ。


「夢幻ッ!」

「貴様は」


善が吐き捨てた。


「厄災は、この国にいらない」

「ああああああああッッ!!!」


赤い瞳から、光が差した。

両目を覆った夢幻が、「嫌だ嫌だ」と駄々をこねる子供のように弱々しい声を上げる。


「絶対に、許さない。何度だって、苦しめてやる……」


肩で息をする私に触れようとした夢幻の指先が、綻びる。


「一番苦しい方法で、(のろ)ってやる……!お前、が、……を忘れたんだ……!」


まるで灰のように崩れ落ちていく夢幻に、触れることは叶わない。


「泰曄」


何故だか、名を呼ばれたように感じた。

驚いて手を伸ばした私が触れるより先に、悲痛な顔で固まった夢幻が一瞬で散った。

辺りに赤い光の粒子が飛び散る。


「……夢幻……」


私も頭に血が上っていたようだ。

何が何だか分からない状況で、よくこんなことが出来たと息をつく。


(呪いって……?忘れたってどういうこと?)


安心すると、途端に肺が押し潰されたように傷んだ。咳き込むと、聞いたことも無いような声色で、名を呼ばれる。

私を何度も殺めたその人に、まるで恋人が相手を呼ぶような、そんな声で呼ばれる日が来るなんて。


「……手柄を取られたな」

「善を侮辱するから、つい。善がいなかったら、駄目だったかもしれないよ」


まるで昨日ぶりに会ったみたいに、すんなりと会話が出来たことに内心驚きながら。微笑む善に私もそう答える。


「今、剣を抜くから……善は逃げて。このままじゃ貴方まで燃えてしまう」

「──それは無理だ。青龍の為に拵えた部屋と術だ。この剣も、抜けないように細工してある」

「え……?」

「剣が、盾を貫くことになろうとは」


血にまみれた善が、自嘲気味にそう呟くので、私は彼に真剣に向き合わなければならないのだと悟った。


「善、これが……貴方のしたかった事?」

「……」


燃え盛る炎の真ん中で、善は答えずに一瞬だけ目を伏せた。

メルルの気配は無い。

恐らくもう、彼はどこにもいないのだろう。

そばにある死体は、ここへ共に来た狼杏(ろうあん)さんなのだろうか。


「……」


正面で、十字架に繋がれた罪人のように私を見据える善は、本当にここに生きていた白善西(はくぜんし)だった。


あんなに恐ろしかった延王が、ずっとそばで見守っていたあの善くんの未来だったなんて。弟のように思っていたのが嘘のようだ。

もう本当に年上でしかないのだろうけれど。


「本当に、延をつくったんだね」

「約束は守る」

「覚えてるって言った私の方が忘れてごめん」

「お前のせいではない。ずっと……覚えの無い影を追っていた」


最後に会ったあの時、善に覚えていると言った私が善のことを忘れていた。

そして善も私の記憶を無くし、私の命を奪ったことだってある。

記憶でしか繋がれないものなのだ。たった少し道を誤るだけで他人になるような、そういう巡りの中にある。


「よく寝てよく食べて静かに暮らしてはいなかったみたいだね」

「……ミコ」


なんてことない事を話し続ける私を善が遮った。

私の向こう側にある炎の揺らめきを写す硝子玉のような瞳に、見とれる。

善の瞳の中に、泣いている私がいた。


「……あ、あれ。違うの、そんなつもりじゃなくて」

「泣くな。もう、拭ってやる腕はない」

「……そんな事言わなくていいよ」


言葉通り、善は私に触れなかった。

それは負傷したからというより、自らそれを選ばなかった善の選択に聞こえた。


「お前と出会わなければ、私は直ぐに死ぬ運命だった。野を走る心地良さを知らずにいた。それを教えてくれたのは、お前だろう」

「……っ。私、未来を変える」

「そうか」

「もう一度、やり直すから、大丈夫。今は、苦しいかもしれないけど、善も、この国も必ず救うから……だから、今だけは、許して」


涙が頬を伝って落ちた。

身を焦がす炎の弾ける音がする。

何度間違えようと、必ず戻ってくる。

私の歩む道が、歴史となるのだから。


「これは己が欲望の為にした事だ。全て私の首で始末をつけよう」

「善は昔から嘘つきだね」


きょとんと丸まった目に、かつての幼い少年の名残を見る。

一つの剣で繋がっていて、こんな炎の中にいても、ここだけがあの夜の中みたいで、なんだか間抜けなほどに笑えてきた。


私たちは、遠回りをしすぎた。

それはこんなにも近くにあったというのに。


「話を聞いていたか?(ざる)。……私は嘘が嫌いだ」

「笊じゃないよ、ミコだよ。それに、嘘が嫌いなくせに、嘘を重ねてきたのは貴方でしょう?」


私の言葉に、善は誤魔化すように笑った。


「……善は愛されていたし、王の器だった。ここに来るまで、きっと、私の知らない悪事も重ねてきたかもしれないけど。それでも、私一人から見た白善西は、私にとっては善人だった」


ぐっと、はじめて肩に大きな手が触れた。


僅かに震えた手に私の手を重ねると、瞼を下ろす。

本当は、話しているのも億劫なくらいに眠たい。


「俺は、人ではない。人であった男は、死んだ」

「人じゃなきゃ悪いの?」

「皆が望んだ()き人も、王もまやかしだった」

「まさか。昔はそりゃあ、嫌いだったけど──……延王は確かに愛されてたよ」


私に与えられたチャンスは、ほんの少しのようだ。

私は善の行く末を見守る為に過去に飛んだ。王の器だったから。

天命だったから。


「だからね」

「ミコ……?」


善に、伝えたいことは沢山あったのに。

本当はもっと傍で守ってあげたかった。実の親に虐げられ、命を狙われるような場所にいて欲しくはなかった。

孤独にならないように、言葉をかけて育てたかった。

ごめんねも、ありがとうとも違う。

言葉とは、こんなにもどかしく、重いものだっただろうか。


「私にとって」

「……」


息を飲む音がした。

背後で大きなものが倒れた音がする。

暗闇の中で、王となった白善西という人の輪郭が浮かんでいた。


これは、愛だった。


「白善西は、善い人で、愛おしかったよ」


ぽたりと音がして、私の意識は閉じた。

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