90 桜の樹の下で
男の人の声がした。
ひどく眠い。例えば、午後のプールの授業の後のような。暖かくて、ちょっと髪の毛が湿っていて、国語の教科書を読み上げる先生の声が遠くに聞こえるお昼過ぎのあの時間。
その人はもちろん「ごんぎつね」を読んでいたりしないし、短歌だってうたわない。
けれどその音の羅列は、どこまでも優しくて。
まるで子守唄のように私をまどろみの中へと誘った。
赤ん坊をあやす母親のように額を撫でられる。眉にかかった前髪をそっと退けられて、まぶたの裏が明るくなった。
「そろそろ起きる時間だ」
「まだ、眠いよ……お母さん……」
どうしてそんなことを言ってしまったのだろう。絶対に、そんなわけは無いのに。
母親の声には似ても似つかない低い男の人がくすくすと笑った声が聞こえて、寝惚けていた私の意識が段々とはっきりしていく。
「あ、あれ……?」
「私はそなたの母ではない」
和やかな空気とは裏腹に、全身がぐったりと重く瞬きをするだけでも骨が折れた。
疲労を押しやって見上げると、視線の先に長い蒼髪の誰かが見えた。
「善、くん……?」
「おお。温かい」
思わず手を伸ばして頬に触れる。
逆光が眩しくて表情が窺えないけれど、擽ったそうに笑い声を上げたその人は私の手を拒まなかった。
頭の裏まで温かい。ごつごつとした感触はベッドでもないし地面でも無い。
「善だと思うのならそれでよい。ここなら誰も、そなたを傷つけたりなどしない」
「……善くん、時代劇みたいな話し方になったね」
「うむ、難しいな。善処しよう」
ふにふにと頬を伸ばしたり、髪の毛に触れる私の頭を撫でて、善くんはなにやらぶつぶつと呟く。
「少しずらすぞ」と言って足を組みかえたらしい善くんの言葉に、今どのような体勢なのかを理解する。
(善くんの膝枕だったんだ)
どうりでちょっと硬い。
相当幸せな夢でも見てるんだなぁと思った私は、夢の中なのをいいことに温かい善くんに擦り寄る。
嫌がらずに受け入れてくれる夢の中の善くんは、イメージと違うけどそれでもやっぱり少しだけ嬉しくて、虚しい。
「私……何してたんだっけ。あ……」
辺りを見渡そうとした私の鼻先に、ちょんと何かがくっつく。
善くんに触れていた右手でそれをつまみあげると、ハートの形をした薄紅色の花びらだった。
「花びら……?」
「桜だ。私はこれがいっとう好きだ」
「そうだったんだ。桜、私も好きだよ……善くん」
「そうか。そうか」
意外としっかりした体つきをしている善くんでよく見えなかったが、体を反らせると善くんの向こうに大きな桜の木が見えた。
そよ風に揺られて数え切れないほどの花弁を散らす桜はちょうど見頃らしい。
善くんは落ちてくる花弁をそっと手に閉じ込めた。閉じ込めては集め、掴んでは閉じ込める。
何をしているのか疑問に思って起き上がろうとした私に待ったをかけると、拳を私の頭上に掲げる。
──まるで魔法のようだった。
善くんはその手を開いて、もう一度花を散らせた。桃色の視界の中で笑っている善くんとその髪の青のコントラストが眩しい。
たとえ夢の中であろうと、必ずこの瞬間を覚えていようと誓うくらい、それは美して儚い姿だった。
「わぁ!」
「綺麗だろう?」
「うん!凄いすごい!」
「はは……」
子供のようにはしゃぐ私の手を取って、善くんが何かを握らせた。
(冷たい。金属……?)
じゃらりと音が鳴って初めて、私と善くん。それから風の音以外何も無かったのだと気付く。
ゆっくりと体を起こすと、私の手には金色の古そうなネックレス──というにはあまりにも大きくて重い装粧品──があった。
それを胸に抱いて、少しだけ目を瞑る。
目を閉じると、桜の木の息遣いが聞こえるようだった。
善くんとただ二人で微睡んでいるここに、ずっといたい。
なにか燻るような違和感を無視していたかった。
「善くん?」
「振り向かない方がいい」
背後から抱きすくめられて、私の夢の貪欲さに恥ずかしさが募る。
ふわふわとした善くんの毛先がうなじに触れるとくすぐったくてしょうがない。
「すまない」
初々しい恋人同士のような馴れ合いの中で、善くんは私に謝罪の言葉を投げた。
「どうしたの?泣いてるの?」
「輪廻に巻き込んでしまった。終わりを迎えるまで、誰も逃れられない」
難しい言葉だ。
「私が犯した過ちのせいで、皆を不幸にさせてしまった。夢幻も、憂麒も……善い友だったというのに。私が殺したのだ」
「ム、ゲン……」
首筋に熱い雫が落ちて、善くんが泣いているのだと思った。
心配で振り返ろうとする私を止めると、懺悔するように善くんは喉を鳴らす。
その善くんが呟いた名に呼び起こされるように、胸を貫く焼け付くような痛みが私を襲った。
──お前には青より赤の方が似合うよ。
人の命をなんとも思っていないように軽んじるあの視線。突き立てられた短剣の冷たさと傷口からとめどなく溢れた私の一部。
ゾッとするような悪夢が現実だったのだとは、思いたくはない。
けれどこんなにも幸せなここが夢ならば、あの世なら。私は恐らく。
「……ハ──ッ!ハ──ッ!ハッ……」
「大丈夫」
「ンンッ」
後ろから口元を覆われ、肩が跳ねる。
それが善くんのものだったとしても、今は全てが怖かった。
パニックに陥ったのか、呼吸が乱れる。
「傷はもう無い。痛みも、もう無いはずだ。ただ、そこにあるのは記憶だけだ」
じわじわと蘇る赤色を覆い隠された。
ゆっくりと諭すように、背中を大きな手がゆっくりと撫でてくれる。
「どうして……善くん。ムゲンを知ってるの?」
吸って、吐いてと指示に従いながら深呼吸を繰り返すと、ようやく悪夢のような痛みが引いていく。体を見下ろしても、赤い跡は見当たらない。まるで初めからそこに傷なんてなかったように。
あの日々がなかったように制服を着た私の体があるだけだ。
「夢幻が堕ちたのは、私のせいなのだ。そしてまた、夢幻がそなたを傷つけたのも私を呼ぶ為だ」
「夢幻……?」
「ゆめまぼろしのような風変わりな子だった。名がないというから、私が与えた。世界を渡っていけるようにと。この小さな国に縛り付けられぬようにと」
ムゲン、夢幻──……。すんなりと、その言葉が胸に落ちる。
パズルのピースが嵌っていくように、記憶が整理されていく。
「じゃあ私、その夢幻に殺されて死んじゃったの……?」
「死は終わりではない。私たちに死など無いのだよ。ただそこに横たえる長い海を渡るだけ。鳥が空を恐れるかい?魚は水を嫌うかい?」
「……」
「まだ分からないだろう。無理もない……じきに天啓を受ける日が必ず来る。そなたはまだ幼い。天命を理解するにも、覆すにもまだ足りない」
「夢幻は……天命に、抗うって。その為にあんな、ことをしたって」
「──ああ。夢幻はあくまで天命に抗うつもりなのだな。地に落ちてその身に罪を喰らおうとも、まだ夢を捨てきれないのだな」
可哀想なものを見つめるように、彼はここにはいない夢幻の輪郭をなぞるように花びらを掴もうと手を伸ばす。
けれど花びらはその手をすり抜け地面へと落ちていった。
(夢幻と善くんはどういう関係なの?)
善くんの姿をしていた夢幻は、妖怪だったのだろうか。すぐに塞がった傷口といい、人とは思えない。
「夢幻が夜明けってどういう意味?貴方とはどんな関係なの?」
堪えきれずに問いかけた私に、彼は口を噤む。
「そなたは愛おしい。神の子だ。私は守らねばならない」
「善くんを嫌いだって言った。夢幻に何を言われたの?」
「夢幻とそなたはよく似ているがとても違う。器はその中身をよく写す」
「器……?なんの話?」
善くんは首を振って、桜の幹に触れた。
「私を許せとは言わない。ただ、置いてきてしまった友を救ってやって欲しい……あれはとても孤独なのだ」
「善くんは、どうなったの?ここはどこ……?」
「ここは港のような場所だ。永くは留まれまい。ミコはそうして王を探すようにと造られた」
「ミコ?」
「天が──そうした。夢幻は己の記憶を消滅させたつもりだろうが、私がそうはさせない。少し眠るだけだ。またその時が来ればそなたは思い出す。……絶対に忘れない。忘れてはならない。そうだろう?」
支離滅裂だ。
善くん──あるいは、誰か。
その人の言うことはめちゃくちゃで、でも何故か否定できない芯を持っていた。
「貴方のことも忘れるの?」
「帰してやろう。そなたのあるべき場所へ。生きるときへ」
答えはなかった。
浮世離れした物言いは、善くんに似ていない。
どうして善くんだと勘違いしてしまったのだろう。
ここは夢のようで夢ではない場所だ。
「善くん……いや、貴方は」
「私はそなただ。そなたの一部だ」
私の背をそっと押すと、その人はうんと遠くへ離れてしまう。たった少しの力のはずなのに、瞬間移動でもしたみたいに遠くに見えた。
桜の木の下から離れずにこちらに背を向けた彼は、亡霊のように立っている。
そこから動けずにいるみたいで、それが私には悲しいことに見えた。
「神子よ、新たな王を選ぶのだ。さすれば道は開けよう」
大きな川に阻まれるように、なにか底知れぬ深い壁を感じながら。
私をその人を思い出せなかった。
もう何の影も見えなくなった場所で、立ち尽くしたまま泣きじゃくる。
心に空洞ができたみたいに寂しい。怖い。
(死んだなら、これからどうすればいいの)
死ぬのだと思った瞬間に襲った不安が、また足元から這って登ってくる。
どこへもいけない。
「うわああああん」
子供のように声を上げて泣いていた私の肩に触れたのは、知らない人だった。
「泣くな」
「……ひっく、……ひっく。……誰?」
しゃくり上げる私の背を撫で、さっきの彼のように慰められる。それにしては、あまりに不器用な手つきで。
その人に触れられた瞬間に、世界が一瞬で塗り替えられたように広く、澄み渡っていく。
真っ白で途方も無く広い空間は終わりを告げ、足元がすくわれそうなほどの波が私たちを襲った。
「……お前だけの味方だ」
いつの間にそばにいたのか、紫色の長い髪を結った男の人が立っている。
困ったように片側しか見えない眉を下げて、その人は名乗らずにそう誤魔化した。
「海……」
「ここから向かえ」
「港?」
「……そうだ。よく知っていたな」
不思議と冷たくはない。
濡れる感触はあるが、私もその人も波にさらわれることは無かった。
歩を進めていく背の高いその人に置いて行かれたくなくて、懸命に足を動かす。
「待って……ッ」
「引き渡すのは惜しいが、共にあるためにはそうする他ない……心無い獣は、お前を傷付けるだろうが、いちいち気にするな」
急に立ち止まった背中にぶつかる。
ひりひりと痛む鼻に、目頭が熱くなる。
痛みを、感じることが出来る。
温度だけではない。
音が、色が、先程以上に鮮明に体に染み渡る。
海の中に不釣り合いな扉を指さして、その男の人は頷いた。
「このまま進めば、ここから、出られるの?」
「ああ。もう一度、やり直すんだ。お前には、そのための力がある。首飾りが」
私が手にしたままの首飾りに触れると、その人は泣きそうな顔で呟いた。
「お前は死んだ。分かるな?」
「……うん。多分」
「新たな王を選べ。今からお前はミコだ。四獣を従えて、天蓬山へ来い」




