89 赫
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「善くんが好きなのは、ミコだ!ユウなんて偽物じゃない」
自分の言葉が、重く胸にのしかかった。
あの時、善くんが求めていたのは紛れもなくミコだった。
私ではなかった。
それを思い知った今、誰かも分からない偽物に揺れ動かされるわけが無い。
一番許せない嘘をついたその人を睨みつける。
「ユウ、俺は……」
「来ないで!それ以上、その声で……私の名前を呼ばないで……」
戸惑うように手を伸ばしていた善くんは、立ち止まる。
ずっと望んでいたはずの光景だ。それでも気持ちの伴わない行為や言葉ほど虚しいものはなかった。
顔を伏せて後ずさると、突然続いているはずの床が無くなった。
浮遊感に、ひゅっと喉から声が漏れる。
「あっ……」
緊張のあまり、背後に気を取られ階段を踏み外した私に、善くんは地面を蹴って近付くと、彼に突きつけていた短剣を握り締めて私を受け止めた。
「善く──」
「バカが」
ほんの少しの違和感に気付く余裕が私には無かった。
切っ先が、善くんの胸に突き刺さっている。
初めてこの手で、人を傷付けてしまった。
あくまで護身用として持ち歩いていた剣は、相手を威嚇して逃げる隙を作るためのものだ。
そう教わった。まさか本当にこの人を刺すつもりではなかった。
震える手に、冷たい手が重なる。
「つまらないな。どうした、先程までの威勢はどこへ行った?」
「……私、わざとじゃ」
「俺を見ろ、俺だけを」
顔を覗き込むように抱き寄せられ、恐怖で抵抗する。
それでも構わないと言いたげな笑みを浮かべて血の滴る手も厭わずに男が吐き捨てた。
受け止める際に誤って彼を刺した刀身ごと握りしめると、力の入らなくなった私の手からそれを抜き取る。
傷口を中心に血塗れとなった服を破り捨てると、肌の上に走るタトゥーが姿を現す。それがまるで生き物のように這いずる姿を見て、ゾッと悪寒が走った。
その青い髪が血を滲ませ、色を変えていく。
瞳までもが赤に染まると、知った顔が姿を現した。
「ムゲン……!」
「その名で呼ぶな」
冷たい声だった。
善くんの男性らしい声よりも僅かに幼くて、苛立ちを抑えるつもりがないのか、舌を鳴らすと不機嫌そうに見下ろされる。
この世界に来るきっかけとなった男。私と同じ世界にいた、あの赤い目の怪しい人だ。
あの世界で見た時とまったく同じ姿だ。
生き物のような形のタトゥーが傷口に近寄る。
ムゲンがその上から傷口に手を添えると、みるみるうちに深い穴が塞がり、綺麗な状態へと変化していく。
わけも分からずに離れようと暴れる私を押さえ込み、ムゲンは反対側へと突き飛ばした。
「うっ」
「あーあ。せーっかく大嫌いな顔までつけたのに、どうしてすぐに見破るわけ?空気読めないだろ?お前」
「…今の、…傷は?ううん、それよりも。どうして善くんの姿を利用してここに来たの?貴方もここに連れてこられたの?」
先程の傷が無かったかのような振る舞いに、そう問いかけるが、洋服を捲りあげて無傷の腹筋を晒すとムゲンは首を横に振る。
「違う違ーう。俺は探し物をしにあっちに渡ったの。そしたら麒麟が一足先に見つけちゃったみたいで盗まれてさァ……」
「探し物?」
「そ、お前」
「私?」
いつの間に取り上げたのか、短剣をくるくると回してその血を舐めとったムゲンが、私を指さす。
(私が、探し物……?)
「まあでも、間違えた時代に飛ばされたみたいで安心したわ。ここならまだ間に合う。復讐もできるし」
「何がしたいの、貴方」
「だァから。復讐。それだけ。あと面白いこと?」
チッチッと舌を鳴らして短剣を放り投げると、手を取られる。
音を立てて転がったそれに目を取られているうちに、きつく両手が握り締められた。
「ミコ、俺と手を組もう。そうするしか、お前が帰る道は無いんだ」
「だから、私はミコじゃないって……」
「あれ、そっちはまだ気付いてないのか?お前だよ、お前。ミコはお前なんだ」
「え?」
「ここで生きていたミコは数年後──はたまた数十年後か途方もなく未来のお前。その体にあの世界から連れてこられたお前が入ってしまった。なぜなら同じ人物だから。魂魄が適合したんだ」
「何を言って……」
「お前だってそう思ってアイツにそう言っただろ?忘れたのか」
ムゲンにこめかみを押され、ハッとする。
記憶の糸を手繰り寄せるように、この世界に来た日の言葉がよみがえった。
──でも、その人は私じゃない。例えば、そう!漫画みたいにこの人の体に私の意識だけが乗り移っちゃった……みたいなことって、有り得る?
私自身が確かに善くんにそう言ったのだ。
戸惑う私に畳み掛けるように、ムゲンは続ける。
「麒麟が与えた名では不十分だったんだろう。世界を渡るには名がいる。だから俺と渡るべきだったのに……まぁ自業自得だな」
「さっきから言ってる麒麟って」
「いただろ。これくらいの。ちっこい白いヤツ」
ムゲンが腰元くらいに手をかざす。それはあの時の少年の背丈と同じだった。
「あれが、神獣……?」
「成長する前に姿を消したから幼いままなんだ。その方が俺は助かるけどな」
「貴方、何がしたいの」
「天命に抗う。この世をめちゃくちゃにしてやりたい。俺の願いを叶える。それには神子と王が必要だ。願いを叶えてくれればお前を元の世界に返してやる。悪い話じゃないだろ?むしろお前にはメリットしかない」
この男の話を信じるならば、ミコは未来の私だという。そして手を貸せば元の世界に帰れるとも。
悩む私の背を押すように、ムゲンは笑う。
「お前の大好きな善も救えるぞォ?」
「善、くん……」
「おーおー。未来で死にかけてる。助けてやれるのはお前だけだと思うぜ」
「どうすれば、いいの。今の善くんは!?」
「慌てるなって。今なら心配ない。結果的に、未来のお前が会えるんだから」
「……善くんは、長生きするんだよね?」
「そうそう。ずーっと長生き。日記にも書いてだろ?」
「ミコの、日記……」
そうだ。白善西という人が、延という国にいると書かれていた。
そして延は、善くんが作ろうとしていた国だ。
(でも……)
私がムゲンの手を取れば、何が起きるのだろう。善くんが救われればそれはもちろん嬉しい。
けれどミコの言う通りだとすれば、私が関わらなくとも善くんは無事に生き延びられるはずなのに。
「どうしてそんなこと知ってるの?貴方は何者なの」
「俺は夜明けだ。世界は俺を悪だと言うし善だと言う。勝手に言ってろ、俺は俺なんだから」
「夜明け?」
「それを知って何になる?お前は俺に手を貸すのか?」
「……」
「少なくとも、お前を取り囲むヤツらよりもこの世界を知ってる。未来を知ってる。今言えるのはそれだけだ」
頷けない私に、ムゲンは口を噤んだ。
それ以上、教えるつもりは無いらしい。
(こんな怪しい人の、手を取ってもいいの……?)
全て嘘かもしれない。でも、彼が示した可能性の全てを否定できる根拠も無い。
信じたいとすら思ってしまう自分がいる。
もしそうなったら善くんは無事でいられる。私も、ずっと先の未来になったとしても、彼に会える。彼に、会いたいと願ってもらえる人になれる。
「さァ」
答えを急かすように、ムゲンが空を指していた手を下ろして、私の方へ歩み寄ってくる。
爛々と弧を描いた両目が、私の姿を反射していた。
赤い中に、想像していたよりもずっと冷静な顔の私が写りこんでいる。
髪を結って簪を差したその姿は、初めてこの世界へ来たあの頃とは違っていた。
もう私は、この世界に生きているのだ。
(考えるまでも無かった)
急速に、怯えや戸惑いといった感情が引き波のように消えていく。
視界の端に、踏み潰された耳飾りの破片があった。
何より単純なことだった。
「……断る。私は、貴方に手を貸さない」
「は?」
手を払いのけると、笑顔だったムゲンが真顔になる。
私が約束したのは善くんだ。
私の剣はムゲンじゃない。
元の世界へ帰してくれるのなら、善くんがいい。
「復讐なんて間違えてる。少なくとも、あなたは信頼に値しない。善くんとは違う。悪い人でしょ」
「あーあ」
うなじを掻いて、ムゲンがため息をつく。
落ちるようなトーンが、殊更不気味だった。
「ホントお前、ムカつくわ。ずっと変わらないんだ。だから殺したくなる」
「ひっ……」
「だから……」
その目に宿っているのは、殺意だった。
その視線を真っ直ぐに浴びると、ピリピリと肌が粟立った。
「いいよ、もう。お前なんかいらない。善もお前も俺を拒絶して、最悪だよ」
「ムゲン……?」
「未来で後悔すればいい、地獄でアイツとね」
先程は嫌がっていたはずの名で呼んでも、反応が無い。怒りに任せて喚き散らすムゲンには無意味だ。
恐る恐る目を合わせると、途端に体が凍りつくような寒さに襲われた。
床から冷気が上ってくるような感覚に襲われたかと思うと、次第に指の先や唇まで、自分の意思で動かすことが出来なくなる。
「じゃあね、ミコ。憂麒によろしく」
(──……憂麒?)
それが誰なのか聞く前に、その機会が摘み取られる。
ムゲンは足で短剣を蹴り上げ手に取ると、躊躇すること無く私の中心を貫いた。
瞬きも出来ない私の目に、生暖かい血が飛び込んだ。
じんわりと滲むのは生理的な涙だ。
(痛い……!痛い!熱い!)
眼球だけをなんとか動かして下を見ると、柄まで通った短剣が胸に刺さっていた。刺さると言うより、無理やり入り込んだという方が近い。
例えようがない痛みに思考が遮断される。
こんな時にも、思い浮かぶのは善くんの顔だった。直接言葉を交わしたのはたった一日だけだったとしても、私にとっては忘れられない時間だった。この世界に来た私を拾い上げてくれた人だ。
極端に優しくされることは無かった。けれど見捨てられもしなかった。
(私、このまま何も出来ずに死ぬの?)
まだ、何も出来ていない。
劉先生の頼みも成し遂げることは出来なかったし、來くんに上着だって返せていない。
舜くんにはもうずっと会えていないし、善くんには──。
善くんにはまだ、伝えたい言葉が沢山あったのに。
悔しさに、胸が震える。
「……ぁ……」
口から息が漏れた。聞いたことがないくらい、情けない響きだった。
声を出したというよりも、肺から押し出された空気に近い。
私の震える唇に、指先で取った返り血を塗り広げると、ようやくにっこりとムゲンは笑った。
キィィンと耳鳴りがして、世界の音が遠くなる。
うっすらとピントが合わなくなっていく視界の中で、ムゲンだけが鮮明に見えた。
「…い…ユウ、お前には青より赤の方が似合うよ」
痛い、痛い、痛い。痛くて堪らない。
これがミコの言っていた死の瞬間なのか。彼女は何度もこんな仕打ちを受けてきたのか。
身動きも取れずに、助けてと言葉も発せぬまま、ただ早くこの痛みが終わりますようにと願い続ける。
自分で私を殺そうとしているはずのムゲンが、眉根を下ろして両手で優しく頬に触れる。
それは何かを懺悔するような響きだった。
その言葉だけがはっきりと鼓膜を震わせる。
「俺を忘れたら、何度だって呪ってやるから」
額にその唇が触れると、視界が真っ白に染まった。




