3
昼休みになったから屋上にいったら章二が寝ている。めったに掃除されない屋上の床には校庭から吹いた緑の葉、陽に焼けて黄ばんだ25点の数学のテスト用紙、頭の下で腕を組んで寝ている章二がある。屋上を囲むのは鉄の格子の柵だがこれは低く、なまぐさい潮風にのってこっから海に飛びこめる。嘘だ、そんなバカなことはない。海は遠い。町は眼下にない。屋上に出る階段口から見て正面の、町にいちばん近い柵からこんなふうに身を乗り出してやっと見える。すぐ下には切り立った崖がある。青い波が寄せて、しぶきが立つ。
「おい、なんとか言えよ」
しっかり町を見ていた僕を章二が呼ぶのだ。今日の天気はいい。晴れだから。
「なあ、飯買ってきたか?」
章二は身を起こして、髪についた塵を払っている。肩につきそうな長すぎる髪だ。
「日直は」
と、僕は言い、学校の食堂にある売店で買ってきたおにぎりの入った袋をぶんぶん回す。町の惣菜屋のおばちゃんが昼休みになると毎日やってきて、昆布とか鮭とか、朝漁でとれた魚を具にした手作りのおにぎりを売っている。魚はいつでも食べられるのであんまし混まない。丸かったり四角っぽかったりするおにぎりのなかで、僕はいつも一番体積のありそうなのを二つ選ぶ。袋の回転をちらちら神経質に見ている章二の眼に宿っていたのが、あまり僕たちには見せない、普段のまなざしだということには気付いていながら。
「和子が怒っていたよ、先に行ったってさ。あいつ機嫌悪くってさ、参った」
「お前のためにやった」
「もういいからさ、ふつーにやろうよ。あいつバカだからさ、言われないとわからないよ」
「じゃ早くそうしろ」
僕の振っていた袋を素早く奪い取って、おにぎりを、あれは鮭のおにぎりを頬張る章二が、次には飲むものをくれといいだすことはわかっているが、僕はそんな気の利いた奴じゃない。僕にできるのは、すごく楽しみにしていたその、具のおにぎりを奪われたことに対する怒りを素直に表現することだけだ。飯を食いながら仰向けに寝そべっている章二の足を蹴りつけた僕は泣き言をいった。おい、足がいてえ、ってな感じで。
「なら、どーすんだ。あれは東京に行くってほざいてんだぞ。いいか? 東京ってのはな、最悪だ。物価は高え、人は冷てえ、頼れるもんは何もねえぞ。生きるためだけに生きなきゃなんねえ」
「なら。ここと同じだ。朝からきつい漁に出て行ったり、本土のポテトチップス売って小銭稼いで生活してる。変わんないだろ。僕たちがどれだけそこを知っているかって、結局その程度の差じゃないか」
すると章二がムキになって、島の南方の、キャンプ場近くにある売春宿のことを話しだすのはいつものことだ。宿で働く商売女たちの多くは島に出稼ぎにきた東京者で、夏になると、竹芝桟橋から出航するフェリーに大勢で乗りこんで、片道10時間の距離をはるばる越えてくる。伊勢大島をとりまく荒波は、長い航海中、絶え間なく船を左右に傾けつづけるものも、熟練した商売女たちは苦しい顔のひとつもみせず、酩酊し、雑魚寝する客たちに声をかけてまわるのだという。
年に一度の夏祭りの、神社まで延びるあの坂道を照らす赤灯が、祭りで高揚した客の手を引く商売女の派手な着物をぼんやり照らしていたことを、僕はなんとなく覚えている。危なっかしい足取りでふらふらと森の闇に連れこまれていく客の背中と、坂道につっ立っている僕の子どもの視線に気づいて微笑し、掌を振る商売女。彼女たちはその後なにをおっぱじめたというのか? そのことを考える僕の頭にひらめくのは、本当に不意に、子どもの和子の裸体のことなのだ。
「おまえはあのバカがそうなってもいいと思うのか」
「ならないよ」
「あの女どもが、やりたくてやっていると思ってんのか? のっぴきならねえ事情があんのにきまってる」
「章二は仕事ってやつをわかってないな。やりたいことをやれるやつが、世の中どれほどいるというんだよ。時間を売るのも、身を売るのと同じことさ」
すると章二は立ち上がっておにぎりの包み紙をくしゃくしゃに握りつぶし、床に打ちつけた。銃声のような危険な音がして、眉をひそめている僕は転がっていく包み紙を見送るが、眼を戻した時には、章二に一瞬、あの、一人でいるときの拒絶の眼つきで睨まれていることに気づくのだ。僕は別に動じてないが、章二はすぐにふいっと顔を背けた。
「おまえがそんなつもりだから、俺が困るんだろ」
「だったらさ、今考えたアイディアだけどさ、章二がやりゃいいんだよ。僕のことは無関係にさ」
章二はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。無理だ。そう言った気がしたが、本当はわからない。なにしろ僕はそのとき町の景色をうっとり見ていたからだ。