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両足を開いて的を睨みつけているうちに、和子はそろそろ時間だと着替えに行ったらしかった。もう登校しなければならなかった。脚のふくらはぎが張っていた。僕は弓を構え、こうするようにと言われた正しい足の開き方で、まだ早いと持たせてもらえなかった矢の形と握りを想像した右手を必死に持ち上げつづけていた。和子の声を聞き漏らすまいと、耳を傾けていた。そのうち後ろから制止の合図がかかるはずだったのだ。しかしどれだけ待っても合図はなかった。的場に陽のつくる影の変化を追い、そろそろ五分か、いや十分かとあたりをつけて、どうしてかそればかりが気になった。はっと気がつくと姿勢はぎこちなく乱れていた。両足で均一に支えられなかった体重が、どちらかの足に鈍く負担をかけていた。右足で支えていた重みを左足に預けると、ふっと支えがはずれて、身体が軽くなり、このままずっと片足で耐えられそうに感じる。それなのに、的を見つめ、また時間のことを考えだしている。そのうちすぐ足が悲鳴をあげる。言われたままの格好で立ち続けることの難しさを僕は知った。和子に教えてもらった正しい姿勢がもうわからなくなっている。こんな厳しいことをお前もやったのか、章二?

「やったな、一ヶ月はこれだった」

と、章二は言った。

「見ているほうは楽でいいなと思ったもんだ。後ろでなにをやってるんだか知れたものじゃなかったからな。だがこうしてみると辛いもんさ。音はたてちゃなんねえ。動いてもなんねえ。見てるっていうことを忘れさせなきゃいけないんだと」

動いてないのに身体は暑く、汗をじんわりかいていた。僕にタオルを投げてよこした章二は、

「おい、先にいってるぞ」

「日直か」

「あいつはいつも遅いからな」

 というので一人待っていたが、和子はすぐにきた。そして僕が何かいう前には、あいつ置いていったなと怒った。

 それで機嫌を悪くしたわけではなかったろうが、町に向かって坂を下りていく和子の足はやたら速いのだ。翌日の筋肉痛の予感をひっきりなしに伝えてくる重い足をなんとか引きずって歩く僕のことを、今度は和子が置きざりにしていく。かと思うと、時々振り返って、僕の遅れをその眼で認めると、その場で落ち着きなく待っている。じっとしてらんない、早く早くというように。そして僕がちょっと足に無理をいわせて速度をあげると、追いつくかどうかのところで、和子はまたすごい速さですっとんでいく。その繰り返しだ。和子はなにを考えているのか。僕にはわかりそうにない。

「もう雄一、やっぱり体力なくなった」

 と坂の途中で仲間とはぐれた獣のようにうろうろしながら和子は唸るが、僕に体力があった頃などない。僕の記憶の中の和子と章二は、いつも背を向けている。

「そんな速くないよ、章二はついてくるもん」

「君らみたいな体力馬鹿と一緒にするなよ」

「馬鹿っていった!」

 和子はわざわざ引き返して息も絶え絶えな僕の胸を小突きにくるのだ。よろけることはない。その力は限りなく女性的なそれだ。弱々しくはないが、痛みがじんわり温かい、心地よいと感じる程度だ。

 腰もいれていない、腕の勢いだけで振られた拳だ。僕は胸にあてられた和子の小さな拳を見ていた。痛くない和子の拳はやはり握られていなかった。拳は傷ひとつついていない綺麗なものだ。拳は空気を握りこんでいるみたいに緩く開かれていた。拳は・・・当然だったはずの和子の制服を僕が直視できなくなったのはいつからだったろう? 夏の薄い生地を下から押し上げかける胸の膨らみが僕にはまったく直視できない。いや、直視することはできるが、それをして、僕たちの幼馴染としての関係はどうなるだろう? 少なくともその身体つきは、それを直視することの正確な意味は、子どものときのそれとはまるで違うはずなのだ。昔、山で駆け回って土まみれにした身体を、風呂で流しあった時の幼少の和子の全裸の姿を僕はぜんぜん覚えていない。いないが、今のように和子の背中を見つめていると、覚えていない和子の日焼けした素肌を、後ろから(後ろから!)撫でさすってやったときの水に溶けた土のざらついた感触まで蘇ってきそうなのだ。いや、あれはそういう意図ではなかった。焼けた素肌の薄皮を剥がそうと、くすぐったがる和子の身体を抑えつけていただけだ。

「章二が日直だって?」

 和子は歩きながら道に伸びていた枝を乱暴に払った。枝先に溜まっていた水滴のきれいな露が頬に跳ねた。彼女の横顔は透明な一筋に濡れていた。

「そうだよ、和子の着替えは時間がかかるってさ」

「先週だったじゃん」

「ふうん?」

「雄一も知ってたじゃん、章二、日記つけてなくて、なっちゃん先生に叱られてた」

 あたりの薄くなってきた針葉樹林の隙間には、町のまわりを囲む海の景色があった。本土とを往来する貨物船が白波を引いていた。汽笛がぼぉっと長く鳴った。

「雄一のいうとおりだね! すぐ嘘をつく!」

「はは、そーだろ」

「だってさ、章二、子どもの時、わたしと雄一で自転車乗ってた時さ、章二がきて、まだ補助輪つけてんのかよってばかにして、じゃあ乗れんのかってきいたら乗れるっていうから乗せたらぜんぜん乗れずにすっ転んで泣いてた」

「そんなこともあったな」

という僕の記憶の中にはそんなことはないのだ。本当に記憶を攫ってみても、僕はそれについて何一つとして思い返せない。

「雄一は上手だったね、すぐ乗れた」

「あれは僕の誕生日がいちばん早かったからさ。そうだ、思い出した。ほら、みんな、誕生日のお祝いにもらっただろ。僕のは赤で、和子のは反射した光が眩しいぐらいのメタリック・ブルーだった。和子の後ろを走ると目がチカチカしてさ、前方不注意になったんだ」

 それだから転ぶんだ、と僕はつづけた。町の大通りから赤坂の遊歩道にかけての国道の路肩にタイヤをこすらせて、横転したことが何度もある。そのたびに和子にからかわれた。乗れるようになるのは早かったけど、ぜんぜん下手だねと笑われた。

 そんなひどいことしたかな、と和子は首を傾げる。

「それは雄一じゃなくて章二じゃない?」

 僕は唖然として、足元にばかり完全な注意を払いながら、

「そんなことない! あれは間違いなく僕だったと思うよ・・・。転倒する身体を僕は左腕ひとつで、力強く支え上げていたんだ。自転車はそのまま走っていって、曲がりかけた道の先の崖下にぶつかった。車輪はひしゃげていて、二度と使い物にならなかった」

 坂道を降りる度に舗装された灰色の道が土の中に見え隠れするようになるが、それがかえって危険なのだ。ひょっとすると足をとられそうになってしまう。ほら、今もそうだったろ? 朝露に濡れた薄い土の表面が、溶けかけた雪のようだったじゃないか。

 そのようなこともあり、僕は、視線をおそるおそる戻すと、和子は立ち止まってじっとこっちを見つめている。どうしてこっちを見つめている? 僕はさっぱりわからなくて、よたよたとくたびれた足取りで歩き続けようとするが、獲物を転ばそうと土からせり上がっている樹木の太枝、疲労した足にじゃれついてくるべとついた葉の一枚がうっとうしい。濃い緑と黄緑のグラデーションが毒々しいその粘着質な葉っぱは靴の側面に張り付いてあり、僕が一歩を踏み出す度に足首に触れており、これでもかと存在を主張する。足元を見ろ! 足元を! だから僕は和子が心配そうな顔で、短髪を気まずげに弄りながら立ち止まっていたことには絶対に気がつかず、知らないうちに横を追い抜いてしまうのだ。

 疲れた、雄一? そう背後から声をかける和子の姿が僕の目に浮かぶようなのだ。その姿は想定上の三國和子の裸体よりもよほど真実味がある。

「練習、厳しすぎたね」

「そうじゃないさ、びしびしやってくれよ。章二にはそうしたんだろ」

「あいつのことなんて、どうでもいいじゃん」

 和子はそういって、前を歩く僕に必死についてくるらしいが、今の雄一とかいうのは、それにしても、なんと惨めな奴なのだろう。そうじゃないか、僕?・・・そうだろうな、だから雄一は弓道をはじめて、体力をつけねばならないのだ。そういや町が見えている。


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