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黒岩から変わらない山の中腹を見上げながら僕は、鉄砲町の入り口の、古い弓道場の前に立った。延々と坂道を登ってきた気がする。大通りから民家を抜けて細道に入ると、緑のにおいのかたまりが木々の陰りからたちこめて、混じり合った自然の生々しい酸っぱさを潮か森かと感じるうちに、丈の高くなってきた植物が完全に黒く、深い山の景色になっている。海がかなり遠のき、子どもの頃のぼんやりした記憶の中みたいで、波の音が籠もりだす。トゲトゲした楕円形の葉が服の生地をつらぬいて腰のあたりを突っつくようになったころ、つらい坂道がはじまる。坂道は島外れの登山道に続くが、起伏があり、景色のひらけた天上の尾根のようになっている。それがずうっと続くのだ。
坂道を登り降りしながら僕は、弓道場の建物のことを考えるのに没頭していたが、昔は通い慣れたはずのそこをそうさせるのは、衰えた体力による疲労だったと思う。陽射しを受けて、白く透けるようだった弓道場の建物は、森の坂道の途中から目に入っていたが、僕はその先に、透明なあかりのただ中に、きっと和子がいるだろうと期待していた。しかし、いなかった。迷うはずのない慣れた道だし、目をつむっていてもたどり着けるでしょ。そんな彼女の元気な声がずっと向こうから遠く近く寄せてくるようで、つまり、和子が僕のことを待っているわけがないのはそういうわけだ。
僕はさほどの落胆も見せなかった。雄一はとにかく扉をあけて、早く弓の練習の準備をしなければと思っていた。そんな態度だったが、軋んだ扉は思うように開かないのだ。扉の前に立ちつくしていた僕は、その引き戸を凝視しているばかりだが、表面には背くらべに彫られたみたいな傷跡が、いたずらげに横に走っている。僕たちはそんなことをした覚えはない。ないが、なにしろ子どもだったので許してほしい。
扉の向こうから音がするが、僕はどうするべきだろう? 扉は幼い真珠を守ろうとする貝のように、頑なに閉め切られている。どうやっても僕はこの扉を開けられそうにない。近づいてくる体重の乗り切らない足音は和子のそれだろうが、僕に開けられない扉を、和子に開けられる道理があるだろうか。
だが、開く。扉は開くのだ。和子はそれを難なく開けるだろうと予見する僕の手は、和子の明るい気配を敏感に感じ取っている。手と手の熱い繋がりの感覚を記憶の底から引っ張りだしているのは、僕ではなく、この身体なのだと僕は思った。
「ごめん遅れた」
と、冷静な僕は言った。
「なんでそんなに息切らしてんの」
「疲れた、入れて」
体力落ちたね、と和子は言い、和子は袴姿なのだった。僕は久しぶりに見る和子の袴姿にはかなり驚かされてはいないが、声ぐらいは上擦ったかもしれない。
縦にだだっ広い弓道場には島の神社の鳥居を抜けた時に感じる上に引っ張られそうな寒気と同質の静謐がある。道場の真ん中の手作りっぽいこじんまりとした神棚にもその感じがあるが、大した作りでもない神棚はそれがそうであるというだけで、僕たちの心中に、ある動かしがたい従順さをもたらす。和子はつっかけていたスニーカーを脱ぎ散らかして、白い靴下を裾の先から覗かせながら跳ねるように歩いた。彼女のちょうど真上で止まった神棚が彼女の真上で止まっていた。僕は袴姿の和子の隣に立っており、和子がぺこりぺこりと袖を振りながら礼拝するのに倣うのだ。いや、雄一はちゃんと下を向いていた。礼拝のために床を見、眼をつむり、瞳の内側の暗闇を見つめ、僕を見つめていた。僕にとって和子の袴姿はどれほど久しぶりだろう、そんなことを僕は一片たりとも考えていた時間があったろうか?
練習用の弦をとってくると僕のそばから離れていく和子の凛とした後ろ姿が昨日の和子と重ならない。なにをはしゃいでいるんだよ、また転んで泣くぞ。そう後ろから乱暴に声をかけた章二に向かって頬をぷっくりと膨らませていた彼女の身に、なにを宿らせているのかわからない。少なくとも僕はただ、和子の下手な説明をきいて、神棚にそうするのと同じく曖昧に頷きかえすばかりだ。
「ねえ、きいてる?」
そういって弦から顔をあげた和子の眼が僕とかちあう。見つめ合う形になっているはずが、彼女の眼は山の深くに群青する樹木のように艶やかで黒く、そこには熱心に耳を傾けており、赤く火照った僕の顔が映るのだ。
聞いているよ、と雄一は言った。
「ここが末うらで、こっちのが本うらね。弓を握るのにはここを持つの。本うら」
「どっちだっていいだろ」
「ばか、章二みたいなこと言う、ばか」
「章二がなんだって?」
「早く撃たせろ」
射るっていうんだよ、と和子は得意げに言っている。和子は袖の捲れ上がった左の脇の窪みを陽に(陽に!)さらして弦を中空に突き出している。和子の右手には架空の矢が構えられているのだろう。その先は弓道場の屋根の合間の吸い込まれそうな夏の晴空じゃないか。弓道場にこだまする蝉の途切れ途切れの鳴き声が、耳を澄ましている僕にはちゃんと聴こえている。
そうだ、僕がこの耳でちゃんと聴こえてみれば和子の説明はぜんぜん下手ではなかった。和子のちんぷんかんぷんな説明は何か一生懸命で快い気持ちになる。結構なことじゃないか。あいつは感覚でやってるから人にものを教えるのがてんでダメだって?そうだろうか、章二?
そうだ、お前も一度は教えてもらえよとあのとき章二は口を大きくあけて笑ってみせたものだった。和子はな、弓を射るのに狙うなって言うんだぜ。的を狙うなってさ。信じられるかよ、と白いシャツの袖で額の汗をごしごし拭っていた。厳しい残暑のなか、首筋から制服のシャツにかけて流れる汗のべたつきに悩まされながら、三年前の僕たちはどうして依怙地に学校の屋上などにいすわっていたのだろう? 夏休みの閑散とした校庭を、乾いた口笛を吹きながら見下ろしていた僕たちの、そっと凭れた手摺が熱かった。
章二が和子の父親の誘いを受けて三ヶ月が経っていた。章二がまじめに弓を始めるなんてことを、一体誰に想像できたか。ましてや教えようというのが和子だなんてことを!章二はこんなように僕に愚痴をこぼしてばかりいるが、屋上の階段口の日影には紫の布巾で覆われた弓道の練習道具が丁寧に立てかけられていたのだ。それに時間を気にかけていた章二の視線は左腕に光る時計の文字盤にやられていたりした。
これが弓道の極意なんだとさ、と章二は理屈っぽく言っていた。
「極めるには反復練習が最適なのにな。的との距離と弓を引く動作の関係を身体に覚えさせれば済む話じゃないか。立ち位置が同じなら、当たった所作を完璧に反復すれば当たる理屈だろ」
「へえ、で和子は?」
「さっぱりって顔をされたよ」
そう言って隣で同じように空を仰ぐ僕の肩に、章二は一回りもでかい身体のコブのような肩をぶつけてきたのだ。章二の影にすっぽり隠れるほどの体格で、両のポケットにだらしなく手を突っこんでいた姿勢の僕は、すっとんで情けなく横転したんじゃなかったっけ?いや、そうではなかった。あまりに細部な記憶を僕は本当に持ってはいないが、軽く押し返すことで同意の意を示したことはまちがいない。そして僕は、
「章二、おまえが弓の誘いを受けたのは、なぜなんだ」
と、夏の蒸し暑い空に向かって息を切らしながら言ったのだ。
僕の短すぎる両腕には扱いきれない弓を後ろから和子に支えてもらっている瘦せぎすの僕にとって、あの時章二には答えられなかった疑問に明確な答えを出すのがたやすい。それが何のためであろうとも、僕は体力をつけねばならなかった。そうだ、思うに僕は、瘦せぎすで、そのことを引け目に感じていた。章二がずっと朝早くから弓道場で和子と二人きりで練習に励むのを、絶対に勝てない眠気に堪えきれず膝をきつく抱えて眠りこけるしかなかった。
「章二、またあいつ遅刻!」
と、僕の肩越しに両の踝を浮かせて扉の方を見ようとする和子のバランスはあやうく、倒れそうで、僕とほとんど変わらない背丈のそれなのに柔らかすぎる身体が前のめりに近づいてくる。僕は和子の身体の二番目に硬いはずの柔らかい肩甲骨を両手で押し戻していくが、森の酸っぱいにおいがするが、ぜんぜん未練じゃない。幼馴染同士のありがちなじゃれつきだ。僕に突然押された和子は章二にそうするのと同じく頬の片方に空気をいっぱいまで満たし、ぎゅーっと唇を結んで蓋をする。そして僕をしっかりと捕らえて離さない和子の黒すぎる眼が、はっきりと親しみを感じさせるかたちに細められていく。
「章二が来るって?」
「かも」
「なんだよそれ」
「雄一がくるんだったら、顔ぐらいだしてやるかもって」
「じゃあこないのさ」
切り揃えられた前髪の先端がまつ毛の上に乗った和子の眼と眼をあわせることは自然すぎることなので、幼馴染の僕は、和子の眼を見つめながら大袈裟に笑った。
「章二の"かも"とか"たぶん"が本当になったためしがある?」
「似たようなことを章二も言ってたよ」
「なんだって?そりゃ可笑しい」
「ちがうし」
と、和子は僕の腕をはたいて言った。和子の赤ん坊のような手に握られた弦の、なんといったか、忘れたが、ある部位が当たって痛い。
「章二はさ、雄一に言ったの。おまえは毛並みのいい猫だって。天邪鬼なんだって」
そうだろうか。僕はそうではないと思う。
「そんなことは、」
「そんなわけないって雄一は言うだろうってさ」
口を開きかけた姿勢で突っ立っている男はだいたい間抜けに見えるものだろうか? 和子は唇の端をぴくぴく動かしている僕のまわりをぐるぐる回ってやたらと楽しそうなのだ。彼女の姿を追っている僕はまったく苛立ってなどいない。視界に入る和子の、たなびく袴の裾の色を、忙しなく動かした眼球で左から右に追っている。
「あ、ほら雄一、章二!」
そういって和子が走っていく扉の向こうには、言われてみれば人の気配がかすかにあるが、それが章二のものだということなどは絶対にわからない。僕にわかるのは、和子がとにかく元気になるのは、いまだ感覚では捉えきれない章二が僕たちの側に来る兆候だということだけだ。和子はその予感を外したことがない。
「おい、章二、このやろ」
と、扉を開け放った和子の頭をガシガシ引っ掻くようにしている章二は、岩みたいに骨ばった顔をはっきりこちらに向けて、
「おう、雄一。はりきってんな」
「きみらみたいな立派な袴なんてないんだよ」
僕は自分の着ている学校指定の体操着を見下ろしながら言った。顔が熱いのは、開け放たれた扉から吹きこむ夏の暑さのせいだろう? 半袖の脇から腕にかけて、つつーっとぬるい汗が流れつたってくる。
「おい、雄一のは?」
「家にあるの探したけど、ちびすぎて合わなそうだった」
と、和子は大声で言うのだ。
「ほれ、お前のじゃだめなの」
「やめろよ、みっともないだろ」
章二は和子にそうしたのと同じように、いきり立つ僕の頭に手をやろうとするが、それができるのは、隣に立つ僕の背が頭一つ分低いからだ。
「雄一、なんか撃ってみろよ。なあ和子」
「だめ雄一、こんなバカの言うこといちいちきいてたら、バカになるからさ!」
しかし和子は弓道場の裏手に駆けていってしまう。先端に布のついた練習用の矢を抱えて戻ってきた和子に訊けば、考えてみたら雄一もバカじゃん、とのこと。ばか、お前もバカじゃねえか、和子。
「危なかったらすぐ止めるからね」
そういって和子は細い腕を胸の前で緩く組んだ。そして手のひらを庇にして、射場に並ぶ遠くの的を眩しそうに見つめていた。素人の僕にとってそれは、オレンジの光のかたまりとしてしか知覚できない。
「あれが的だ。わかるだろ。あれに向かって真っ直ぐに撃つのさ。ぐっと腕の後ろの筋肉に力をこめて、きばらせて、真っ直ぐにな」
「どうせ当たらないよ」
「はは、そんな泣き言聞きたくないな」
そして僕は、矢をつがえて思い切り引っ張るのだ。和子と章二が僕のそんなぎこちない所作を微笑して見守っている。放たれる僕の矢は地上に向かって真っ逆さまに落ちるのだろうか? もしかしたらすぅっとあの夏の空を飛行機のように切り裂いて、白い雲の軌跡を残して飛んでいく。いや、僕の矢は本当にそうなった。そして僕たち三人は、空に豆粒のように小さくなった矢を見つめつづけていた。いつまでもそうしていたと僕は思う。