プロローグ
神津島は、本土から百七十キロ南方に浮かぶ離島である。
標高六百メートルの天上山が北部を占める。南部には秩父山、その左手に空港が小さく見える。北南の山脈の間隙、前浜に沿ったところが村落だった。人口二千の村落である。
生業は観光業だった。島には年間三万人の観光客が訪れる。とりわけ五月から七月、夏場にかけては遊泳がさかんに楽しまれる。海面の色は、離島の澄みわたった青である。伝統を重んじる島人の慣習と、恵まれた眺望の美しさが、多くの名所を残存させた。
名所は二つある。一つは、明治中期に建てられた蒼古な弓道場で、これは黒島登山道に到る、鉄砲場と呼ばれる番地にあった。建立から百年あまりの年月、子どもの下校時刻に通り掛かると、今なお静謐に、弓の鳴らす音がこだました。
もう一つの名所は、島の北端から西に下がった場所にある、赤崎の遊歩道だった。遊歩道は、西の海岸に迫出す岩場に掛けられた木道で、晴れた払暁には、夜漁から戻ってきた船舶を彼方に、赤く光った海岸がうっとり眺められるのだった。
いま、その赤崎遊歩道につづく海岸沿いの細道を、村落から歩いてくる三人の姿があった。いずれも日に焼けた肌をもち、西から吹きつける海風にも揺るがない風体は、島の若者と見える。少女一人がどんどん先立ち、急ぎ足で追うのが少年たちという愛らしい力関係は、その集団における各々の役割を、壊さぬよう忠実に守っているように見える。二人の少年は、その少女に引っ張られて、連れまわされるのが心底好きだったのだ。
まだ十五ないし十六だから、島内の高等学校に通っている生徒である。高校の生徒数は今年になって三十三人。島の子どもの少なさが、彼らの友愛を育んだ。たまたま隣家に生まれた些細な由来は、物心のついたときに、互いにとっての欠かせない存在として結実した。
今のように風の強い日には、たなびく波の飛沫をうけて、しっとり濡れた純白の制服が背中の肌に張りついた。そこで少年たちからは、少女のいくらか小麦色の素肌が透けて見えていた。そのことに少女は気づいていたのだろうか? 恥じらったのはむしろ少年たちの方なのだ。少年たちは、少女のぶんぶん両手を振りながら歩く背中に女としての成長を感じ、にわかに恥じらったのである。
「おい、上着を着ろよ」
「暑いんだもん」
風のような女か、と笑い交わしたこともあった。
言うと聞かないし、言わないと不貞腐れる。もっと構えと噛みつく。風よりは猫か、と少年の一人が言うと、やはり風だと、相方の少年は返した。猫なら檻がある、よほど苦労しないさ。
少年たちは、そのことを思い出して微笑みあった。
「ほら頑張ってよ。もう着くよ」
少女は前から叫んだ。もう距離があった。
「こんなのでへばるなよ。それでも男か!」
「さすがに毎日だから」
「雄一は、もうちょっと鍛えたほうがいいんだ」
学校からの帰途に赤崎まで歩く習慣は、この雄一と呼ばれた少年が高校に進学してからはじまった。もう一か月も経った。道のりは長く、西海岸をずっと北上していく。六キロはある。これは神津島全周のおよそ四分の一である。途中の道は舗装されていたが、海から横薙ぎに寄せてくる夏の風がきつかった。
三人は歩きつづけた。ときおり子どもらしくはしゃいだ。海には本土からのフェリー船が見えていた。