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白塊

作者: 矢口 陽次

 緩い上り坂が終わって、下り坂に差し掛かった。坂の下は平地になっていて、いくつか屋根が見える。どれも少々枯葉をかぶっていて、雨樋が詰まっているようだった。屋根の群れは少し先で切れていて、平地の向こうの端では、青白い塊がドーム状に盛り上がっている。

遠山から聞いた通りの場所にあの塊は位置していた。ただ予想より少々大きい。ここに来るまでの間に更に大きくなったようだ。

風が冷たい。乾燥していて指の先がぱっくりと割れそうだ。

はじめ景観を損ねていたかに見えた塊は案外調和を取り、こちら側とグラデーションをなしている。

 坂を下りだすと、古びた看板が点滅しながら発光した。旧式の感応式看板らしく、男二人がやってきたことを感知してポルノ画像を流し始めた。時を止めるだの、人が壁にはまって抜け出せなくなるだの、およそありもしないような状況を利用して強姦するという馬鹿げた画像だ。

「いまだにこんなものがあったんだな」

「町の外れではよく見る。特段珍しくない」

旧式だからか通行人が倒錯した趣味の持ち主かどうかは考慮してくれないらしい。

 家の表札の文字は薄くなっていた。文字はかき消えているというより白い粒状のものが表札に付着しているようだった。

 車線を区切る白線が溶け出して周囲に広がり、道路に白玉模様が出来ていた。雪のような色だがすでに固着していて、踏んでみても何ともなかった。

 

二週間前、遠山と窓際の席でお茶を飲みながら過ごした。

「侵食されている。丘一つ越えた川の向こうはもうダメかもしれない。それなのに皆認めようとしないんだ。あの塊が丘を越えて目に見えるところまで迫って来てから大騒ぎするつもりらしい。呆れる」

 窓の外は渋滞など知らぬといった風にスイスイと車が右から左へ流れていった。反対車線も同様で左から右へと車は流れていった。渋滞もなければ信号待ちに溜まる車の数も少なく、詳しく観察するのは不可能だった。もっとも二人ともそのつもりはなく、考え事をしながら見ていただけだった。

 彼が口の開いた封筒をひっくり返して写真を机の上に投下した。砂が積もるように写真が机一面になだらかな山をなして広がった。

 川をはさんで大きな白塊をうつした画像ばかりだった。周囲の家々は取り込まれ、辺りの木々は立ち枯れていた。白塊に近い木々は皆白樺のように色を失っていた。

彼は山の中から一枚の写真を出してきて見せた。行き先を示す道路看板の文字が溶け出して、元字のあったところから垂れ下がり、奇妙なフォントを形成していた。

「なあ、今度もっと近くに見に行ってみないか。何なら入ってみないか。友達に入ってきて戻ってきたやつがいるんだ」

「そいつはこの辺に住んでるのか」

「昔は住んでいたが今はいない」

「どうして」

「またあっちに戻ったからさ。一度入ると病みつきらしい。なんでも落ち着けるみたいで。こっちの生活には落ち着きが感じられないらしい」

「そいつ向こうで薬かなんか決めてんじゃねえのか」

「人の友達を悪く言うなよ。そんなわけないだろ。それにお前暇だろ」

「僕が暇かどうかは関係ないだろ。一人でいけよ」


途中川を渡る橋が崩落していた。崩れた橋がダムをなし、流路が変えられていた。増水している様子はなかったが流れは黒く底が見えない。辺りを見回して浅いところを探していると側壁の目盛りが目に入った。今立っているところまででおよそ一メートルほど。

「深さは大したことないんじゃないか」

 岸から黒い流れを見下ろしながら言う。

「底なしかもしれない」

 遠山は側壁についている足場伝いに流れに向かって降り始めた。水際までいくと、手を付けてはひっこめた。

「とても冷たい。凍ってしまうよ」

 急に怖くなったのか急いで上がってきた彼の右手は白くなっていて、血の気を失っていたが、不思議と湿ってはいなかった。

 楽しそうにしていた遠山はどうもここで渡河するのをあきらめた。

 上流に行くと流れは浅くなり、依然水底は見えないまでも小石が流れの間からところどころ突き出ていた。向こう岸には水道管から流れ落ちる黒い滝が見えた。滝は川の流れと合わさってしぶきをあげている。

 川に足を入れ、川を渡ったが一時靴が冷たくなったものの靴下が湿る不快な感触はなかった。渡り終わって側壁を上ると、先ほどの滝の上流側ではアスファルトや地面は見られず、水道管が剥き出しになっていて、管の上半分もなかった。滝に注ぎ込む流れを直接見ることができた。流れはあの塊の方から流れてきているようだったので、下半分しか残っていない水道管に沿って遡ることにした。緩やかな坂が塊までずっと続いていた。


塊の外周は白い木々が茂っていたが隙間があって、遠山は簡単に入っていった。躊躇していると振り向いて手招きしてきた。

「大丈夫なのか」

「入って帰ってきた奴もいるんだ。中もどんな感じかわかってるから。ついてこい」

中に入っても白木が左右に並んでいて、獣道を進むようだった。道がところどころ広くなると金属のような光沢を持った板が浮いているのが目に入った。


 遠山は慣れた様子で板を触っていた。彼は塊の中に入ったのは初めてで当然ながら触ったことなどないはずだった。手あたり次第とは言わないまでもいくつか選び出して触っていて、慣れた手つきと相まって、通人の雰囲気を出そうという意図がうかがわれた。彼が触れるたび辺りに声が聞こえた。最初の声は雇用統計の中間報告を伝えるもので、次は漫画の配信日程の告知だった。声はどこかに原稿でもあるのか、ひとしきり内容を伝えると止み、板は移動し始めた。休暇中の交通渋滞の話や家畜の感染症の話が続いた。隣の通人ぶった男はその実、板をでたらめに触れていたのだ。それでいて本人は得意そうだから不思議だ。

ふと気になってきいてみた。

「なあ、渋滞渋滞って一体どこが渋滞してるんだ。ここに来るまでどこも渋滞なんかしてなかったぞ。それどころか車一台人一人見なかったじゃないか」

「そりゃ、俺たちの町は、渋滞とは無縁だよ。他所の話だろ」

「他所ってどこだよ」

「それは知らねえよ。でも他所だろう。さっきのとこまで戻ってもう一回聞いてくれば」

 戻ろうとしたが数分歩いたところで諦めた。今まで遠山の触った板の数が十ぐらいしかないとはいえ、特徴のない板から該当する板を見つけ出すのは難しそうだった。何せ板は動くのだ。加えて辺りは霧が下りたように白くなって視界がだんだんと小さくなってきていた。


視界が悪くなってなったので遠山の方へ走って戻ると、彼は相変わらず並木の中で通人を演じ続けていた。でたらめな順序で互いに何ら関係のない声があたりに流れる。しかしどうも先ほどと声が違う。近くにある別の板を触ってみた。予想通り先ほど遠山の触れた板とは声質が違う。風邪をひいた者の鼻声だ。鼻声でデートDVについて語っている。


「なあ、この板、一つ一つ声質が違うぞ」

「本当か」

遠山は疑うように語尾を高くして言った。

先ほどの鼻声の板を引っ張ってきて遠山にきかせてやった。

「特に違いは感じないぞ」

ちょっと戸惑って近くの他の板にも触れてみたが結果は同じだった。

「気のせいじゃないか」

しかし実際さっきのは鼻声で今のは金切り声に聞こえた。二人の間に沈黙が流れて遠山はしばらく困った顔をしていたが、付き合うのに疲れたのか、また通人演者の仕事に戻っていった。


白い並木が終わって道が開けると、浮鉄板の数が増えた。ぽつりと一人だけ人が座っている。遠山と顔を見合わせて人の方に向かった。その人物は年をとった女性で、浮鉄板を触っては板から響く音に耳を傾けていた。


息を吐く音とともに女性は板から素早く右手を引いた。どうも板が熱かったようだ。女性は火傷を和らげたいとでも言いたげに右手を大きく振り、一方左手で次々と板を触っていた。まぶたにしわを寄せていたが、先ほどから一度も目を開けていなかったので、表情の変化はそれほど劇的ではなかった。冷たい板でも見つけたのか、板を右手でぎゅっと握った。落ち着いたのか右手で板を握ったまま自分の後ろにあった板の集まりにもたれた。顔には数々のしわが刻まれていた。

「大丈夫ですか」

話しかけると顔がこちらを向く。目は空いているのかいないのかよくわからない。

「ああ、そんな心配をしてくれるの。こんなのはいつものことなのに

「別にあんたをばかにしてるわけじゃないよ。ただ、あんたみたいな外からの人がちょっと珍しかっただけ」

「そうですか。あの」

そこで遠山は息継ぎをした。言おうか言うまいか迷っているようだ。

「あの、ききづらいんですが目をどうかされたんですか」

「いや別に。今も見えてるよ。あまり遠くは見えないけど」

「以前はどうだったんですか」

「昔か。昔はね、もっと遠くまで見てたよ。

「近頃手元も怪しいけどお医者さんが老眼じゃないって。目で物を見るのは疲れるんだよ」

「ここにいる他の人はどうなんですか」

「そうでもないと思う。最近の若い人にも私みたいに遠くの見えない人が多いって聞くよ。若い人も疲れてるらしいね。確か、その辺に一人女の子がいたはずだよ」

白い木がまばらに生えていているだけで人の姿は見あたらなかった。

「いただろう」

「いましたね」

見当たらないのに話を合わせてしまったが、やがて板の声が近くから聞こえ、続いて板に触れる音まで聞こえた。音しか聞こえていなかったが、優しい手つきだとわかった。

「それじゃあ音だけの生活なんですか」

「馬鹿言っちゃいけないよ。鼻だって使ってるよ。浮鉄板からにおいが漂ってくるでしょ」

「そうですか。何も感じないのですが」

「あんたたち鼻が弱いんじゃないか。それとね、さっきから思ってたんだけど、あんたたち臭いがきついよ。アスファルトの臭いだね、これは。久々だから懐かしいけどさ、これだけ強い臭いだとちょっとね」

「そう言われましても。我々自覚のないもので」

「そりゃそうでしょうよ。あんたたちは自覚無いでしょうよ。それでも臭いもんは臭いの」

言い終わるなり別のもっと高い声が聞こえた。

「さっきからひどい臭いだけどなんか変なもの焚いてるの」

「いいや、外の人が二人ほど来てるんだよ」

「ほんとう。大分ゴムっぽい臭いのする人たちなんだね」

先程の優しい手つきの主だろう高い声は笑い声を上げ、笑いはあたりに反射した。

「臭くてすみません。自覚はないんですが」

遠山はどれぐらい遠いのかわからないので大きな声を出してしまった。

彼女は息継ぎをして再び笑い声が続いた。

「臭いだなんて言ってないよ。香ばしくてこれはこれでいいんじゃない」

言い切る前からまた笑い出している。

「笑いとまんないや。ちょっとこっち来なよ。遠いと聞こえるように声出すの疲れるわ」

「十分声通ってますよ」

「だ、か、ら、疲れるんだって」

遠山と二人彼女の声に向かって歩き出した。先程の老女が背中から遠ざかる。おいとまの言葉を忘れた。

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