不機嫌の意味
接近格闘術の体得はバトラーにとって重要な要素の一つである。主の身が危険にさらされた時、それから守って差し上げるのが従者の役目。本日も朝から多くの男子生徒が燕尾服に身を包み、向き合って稽古をしていた。バトラークラスの必修科目である。着替えをしないのは、日常生活で起きた場合の事を想定していた。
その多くの男子生徒の中で、幸助と東花はお互いの顔を真剣に見つめ合って対峙している。緊張もあってか、お互い少し汗ばんで顔も若干ながら紅潮していた。東花の利き手である左手には木製のナイフ。敵の武器を奪って、それを使い相手をおとなしくさせる、という本日のお題に沿った訓練の最中であったが、幸助は中々動けずにいた。
ジルの言っていた噂の件が上から下に流れたのか、周りの視線が痛い。それだけではなく、女性である東花に少々遠慮してしまっているのもあった。無論東花は遠慮はいらないと言っていたが、それでも少しやりづらいのには変わりない。
しかし、動けない一番の理由は東花に隙がない事だった。
「九条君、こういうのはあんまりにらみ合いすぎても意味がないと思うんだけど」
「いや、わかってる。わかってるけど……」
本来ならば、このペアになる事は避けるべきだった。だが、噂を聞いた他の生徒が二人から少し距離を置いたのだ。雅に至っては東花をからかっている。
「あ、ついでだから訊きたいんだけど、このまま聞いてもらってもいいかな?」
「小悪党を前にそんな提案する執事なんて聞いたことないよ? あと教官の目も光ってるし、そっちが動かないなら私から――」
「でやっ!」
東花が言い終わる前に不意を突き、幸助は掌で彼女の手の甲を叩いた。完全に気を緩めていた手から木製ナイフはあっさりと抜け落ち、幸助の手中に収まる。拾う動作と合わせて間合いを詰め、彼女の顎先に躊躇なくナイフを突きたてた。
その動きは妙に整っていて、なめらかであった。
はたき落としは、幸助が一カ月で叩き込まれた体術で、最も回数こなして訓練したものだからだ。
「ず、ずるいぞ!」
「気を抜いてた方がわるい」
「ぐぅ……。この鬼畜!」
動きにくいなら、動きやすいように状況を持っていけ。そう教わって、実践したに過ぎない。
「鬼畜でも変態でも結構。主を守れれば問題ないさ。少なくとも俺はそう思う」
ナイフを持つ側は相手に武器を奪われない訓練として、その位置に立たされている。勝負は一本ではなく、取る側が挑戦する限り、時間内なら何度でも可能。一方とられた側は一本取られれば敗けだ。それで教官が、誰が取ったか、取られたかをチェックして回る。授業時間の半分で攻守交代。終わった者は雑談をしていても良い事になっていた。最も、その半数以上は先ほどまで幸助と東花を凝視していたわけだが。
その後の後半戦で、幸助はあっさりと東花にナイフを取られてしまった。
「まぁ、君よりはキャリアあるから。それなりの差は出ても仕方ないんじゃないかな」
と、御情けは頂いたものの、幸助はどうにもスッキリしない。
二人は邪魔にならないように広い部屋の壁際に捌ける。
暑いのか、東花は蝶ネクタイを緩めた。首筋が妙に艶かしい。幸助は意識してしまい、咄嗟に視線を逸らして別の事を考えた。
スッキリしないといえば、宗次から電話を受けた次の日からのジルの態度もそうである。あれからもう二日も経っているというのに、その原因はわからず、彼女の態度も変わらない。あからさまに変わったわけではないが、その前とはどこか違う。
理由を佐奈に訊こうとしても、はぐらかされてはっきりしない。もしかして父親の宗次が嫌いなのかとも考えたが、前に父親の事を話題にした時はそんなに嫌悪していなかった。
「なぁ、女の子が不機嫌になる理由って何かある? お嬢様が一昨日から不機嫌でな……」
宗次の電話から二日目になるが、引き続きジルはどこか不機嫌に見えた。
原因がわからない幸助は小さな声で東花に問いかける。
「その口ぶりだと、何か失態をしたわけじゃないんだよね? うーん、そうだなぁ。例えば贈り物が手に入らなかったとか、学園で何かあったとか。男子はどうか知らないけど、女の子は見えないところで結構根に持ったりするからね。それが滲み出てるのかも」
「……そうか、でもそうなると本人に訊かないとわからないよな」
「そうだね。そこまで気にかかるなら訊いてみるといいじゃないか」
休憩している二人の元に、小柄で童顔の男が一人寄ってきた。住井雅だ。
「やー、お二人ともお疲れさま。何かお困りの御様子で」
「はははやだなー雅君。君の流した噂のせいで困ってるのは明確じゃないか」
東花は口の端を吊り上げる。雅は危険を感じ取ったのか、言われる前には幸助の後ろに隠れていた。
そう、九条幸助及び藤宮東花同性愛者疑惑の噂の原因はこれだった。ただ、雅自身そういう事がしたかったわけではなかった。主とその友人お嬢様たちに半強制的に吐かされたらしいのだ。それで、幸助は責めるに責められなかった。
そんな流れで、現在、幸助も雅と気さくに話す関係になっている。
「いや、本当に反省してるよ。うん。反省してまーす」
その眼には全く誠意が感じられない。それどころか、完全に東花を煽っていた。
「あんまりしてやるなよ……」
「ちぇ、九条君は藤宮君の味方かー。いやでもね、彼が乱れる事なんて今までなかったから、とっても面白いんだよねぇ」
雅は小悪党の様にケラケラと笑った。こうして見ていると到底従者には見えない。
「それで、何に困ってたんだい? もしかして、九条ジル様が不機嫌なこと?」
さりげなく、そして的確に彼は幸助の悩みを当てて見せた。
「そんなに他人の目に見えて分かるほど機嫌がわるいのか?」
幸助の疑問に、東花も少し付け足す。
「私も今朝拝見したけど、そこまで不機嫌そうには見えなかったよ?」
「あー、いや、うちのお嬢様が……ね」
種明かしをすれば、九条家のジルと住井家のお嬢様とは結構仲が良いらしく、主からジルの話を頻繁にされるため雅にそういう情報が入ってきているらしい。
それを聞いて、幸助は少し安堵した。ジルの性格をはっきりわかっているわけではない。だが、あの風貌でありながら、その上どこかで外部との壁を作っているため、友人がいないのではと危惧していたのだ。
「それで、理由は分かったのか?」
「いやー、それがさー『だって訊くの怖いもの~』って言われちゃってさ。度々似たようなことはあるらしいんだけど、今回はいつもよりまして不機嫌らしいよ」
「となると、やっぱり本人に訊かないとだめだね」
東花がそう言ったとき、授業終了の鐘が鳴った。
昼食時、幸助は流れる人とは逆方向に足を進めていた。片手には弁当。本来ならば、穴場である中庭で東花や雅とともに弁当を囲うのだが、今日はジルの事が気になった。言うなれば仕事の一環だ。
クラスの場所は此処に来る前に佐奈に訊いて確認していた。大きな校舎だが、構造自体は単純であるため、特に迷う事もなく無事到着。とはいえ、まだ教室内には多くの生徒が残っており雑談をしていた。聞き耳を立てればどこの企業の株がどうだとか、あそこの国に支部を建てるのはどうかだとか、なにやら大きな話をしているようだった。
しかし、今の幸助はジルの事で頭がいっぱいであり、委縮する暇もなくジルを探す。目立つ容姿であるためすぐ見つかった。長く白い髪に碧眼。間違いなく、それは九条ジルだった……のだが、それを把握するまでに幸助には幾らか要した。
何故なら、彼女が満面の笑みでクラスメイトと会話をしていたからだ。それも、上辺だけの中身のない笑みで。
それが幸助には気持ち悪くてたまらなかった。ジルは表情のない表情を他人に信じ込ませるだけの技量を持っている。上流階級という世界を生き延びるために習得した術。
こういった光景自体は一般的にも見られる、あまり特別なものではない。だが、家でのジルとは差が大きすぎた。ほぼ常時発生させていると思っていた威圧感もそこにはない。そこにあるのは使い古された仮面とその裏にある押し殺された素顔だ。
ジルが幸助に気が付くのにそこまで時間はかからなかった。周りに申し訳なさそうにして席を立つと、無言で幸助の元までやってくる。そして、暇を与えず腕を掴んで引っ張って場所を変えた。人気のない廊下の端まで来ると、その顔の鍍金ははがれる。
「何しに来たの?」
先ほどまで笑っていた口は気が付けばへの字になっている。やはり不機嫌だった。
もしジルが家で度々笑顔を見せていれば、幸助も気味悪がることはなかった。彼女があまり負の表情以外を創らず、多くは無表情であるから笑っているのはより際立って奇妙だったのだ。それは、ジル本人もわかっているようで、目で訴えてきていたのだが、身長と距離の関係で上目使いになり、幸助は少しどきっとする。
「す、すみません。でも、一つハッキリさせておきたいことがあったもので」
「仕事熱心なものね」
「恐縮です」
「皮肉よ、馬鹿」
呆れてジルは眉を潜ませる。髪を耳にかける仕草が優美だ。幸助が緊張とはまた別の胸の高鳴りを感じるのは、やはり彼女自身が美人であるからだろう。
グラマーなわけではない。胸は佐奈より小さいし、背も低い。だが、彼女にはそういうものとは違った魅力があった。勿論異質な髪や大きくて綺麗な瞳もあるが、何よりもその脆さが際立っていた。身体的なものではなく、精神的な脆さである。
「それで、知りたいことって何? 私も昼食があるのだけど」
どういいまわすか少し悩んだが、率直に言ってみることにした。
「電話があった後から不機嫌なご様子ですが、何かあったんですか?」
「あぁ、そう、そのこと。態々訊きに来たのね。それで、貴方はどう思ったの?」
ジルは視線を下げて小さく呟いた。幸助は試されていた。だが、どう答えるべきか皆目見当もつかない。どう思うかなんて、話の流れからすると、宗次の事が原因だと幸助が思っていることはほぼ予測できるだろう。それなのに何故かジルはどう思ったのか? と訊いてきた。深読みしすぎなのかもしれない。だが、そのほかに思い当たる節もない。
知らないところで自分がミスをした可能性も考えて、当日の事を良く思い出すがやはりわからない。結局、思っていた事をそのままいう形となった。
「失礼を言わせていただきますが、宗次様とお嬢様の関係があまりよろしくないのかと」
幸助の回答を聞いた瞬間、ジルは拳を強く握りしめた。
結局、こいつも同じか。
即席で作り上げられた彼ら。そして、宗次に救われその恩を返そうとやってきた彼らには、難しい事なのかと奥歯を噛みしめた。
ジルは敢えて編入試験に合格できる程度の実力しかつかない一カ月しか講習を設けさせず、そして、宗次が救った孤児に限定して幸助らを家に招いてきた。玄人でなく素人であるのに一つの意味があり、そして、誰かに恩を感じている者だからこその壁が存在することを分かってそうしていた。
「何もわかってないのね。少しだけ期待していたのだけど」
冷たく言い放つ。初日に自分を叩いた幸助は、素人であることの良さを出していた。だからこそ期待をしてしまっていたのである。
「原因がわかっていいない以上、貴方にボーイを任せるわけにはいかないわね。明日までに分からない様なら即解雇にさせてもらうわ」
「なっ……」
そう吐き捨てて、ジルは去って行く。
顔は下げたままだったが、声が少し震えていた。後姿もどこか逃げるように見える。
幸助はもう一度当日の事を考え直した。ジルが従者に対して何かの拘りを持っているのは明らかだ。問題は何がその拘りを生んだのか。その原因を知る必要があるように思えた。
そこで、雅から聞いた九条家の従者の話が頭を過ぎる。ここ一年間ないくらいで、変わりすぎているという話だ。
幸助は急いで中庭へと向かった。
あたりは薄暗く、天気はあまりいいとは言えない。予報では曇るだけで雨にはならないということだった。東花と雅が中庭で昼食をとっているのは、食堂の空気が苦手だからという理由である。もっとも雅の方は東花に張り付いているという状態にも見られたが。
「あー、これ言っていいのかな。ちょっと僕には判断しづらいんだけど」
雅は中庭でお昼のサンドイッチを口いっぱいに頬張っていた。何となく、ハムスターが口にヒマワリの種を溜めこんでいる様子に似ている。
「相手は九条の人間だしいいんじゃないかな? 君こういう時しか役に立たないんだし」
東花の目は冷たかった。雅といるときは大抵少し冷めた目をしている。東花自身、心底警戒していると幸助に告げていた。それと同時に雅の前だけではぼろを出さないでくれと。
「相変わらず藤宮君は僕にきついね。なんでそんなに嫌ってるの」
「人の秘密探ろうとする人を嫌いにならない人なんているんですかね……」
逸れていきそうな話を元に戻そうと、幸助は改めて問い直す。
「それで、やっぱり九条の従者の事で何かあるんだな?」
「……まぁ、藤宮君の言う通り、九条家の人間に話すのは悪くないだろうし」
腕組みをして、それでも言いづらそうにはしていたが、雅は話し始めた。
「九条のお嬢様。中学の時からうちのお嬢様とは同じ学校なんだけど、その時は神取隼人っていう従者が付いていたそうだよ。勿論彼女や僕らと同い年くらいのね」
最近は御付きのメイドや従者は同い年の者を付け、同時に育成するというのが上流階級の流行りのようなものであるらしい。この学園はそれを古くから実施している学校でもある。その流行りの元は、上流階級でもさらに一流の家の教育方針であるようだ。
「それで、去年のちょうどこの時期くらいだったかな……」
何時もへらへらしている雅は、いつになく真剣な顔つきになっていた。
若干の空白に幸助と東花は思わず生唾を飲みこんだ。
「亡くなったんだよ。お嬢様、九条ジルを銃弾から守ってね」
幸助は思い出した。相談された時、宗次が命の危険もある、と言っていた事を。だからこそ、重みがあると解釈し、これを引き受けたのであるが。
「誘拐事件か何かに巻き込まれそうになったのか? 少なくとも俺は初耳なんだが」
「多分そうだと思うけど……。なんにせよ、そういうのはもみ消されるのが基本だからね。世の中のセレブっていうのは命の危険が多い。それの多くが本人に届かないのは、僕たちが暗躍しているからさ。執事ってのはある意味裏稼業とさして変わらないよ」
雅は静かに自嘲の笑みを浮かべる。元一般人の幸助と東花にはその笑みが胸に刺さった。
「現場に九条ジルもいたらしくてね。発砲した犯人はメイドさんの方が取り押さえたみたいだよ。メイドも怖い時代になったもんだね。相手は大の男だったらしいんけど」
場の雰囲気が暗くなっているのを気にしているのか、雅は軽いジョークを挟んで苦笑する。気を配ってくれたのに気が付いて、幸助は息を吐く。それを確認したように、雅は幸助が落ち着いてから、話を続けた。
「僕もお嬢様に聞いただけだから何とも言えないんだけど。彼女はその神取隼人を大層気に入っていたらしくてね。話す時はまるで恋人の事を話すかのようだったって聞いたよ。そんな人の死ぬ瞬間を目の前でみたら、そりゃショックを受けるだろうね。それから一週間後、彼女はいつもと変わらぬ顔で学園に来たみたいだけど、うちのお嬢様からすると」
雅は少し溜めて、重々しく述べた。
「――まるで別人みたいだった、だそうだよ」
帰宅中の車内。ジルも、幸助も、そして悟ったかのように佐奈も、一言も言葉を発することはない。ぽつぽつと静かに雨は降り出す。
幸助は足元を見ていた。聞いた話は自分に関係のない話ではない。それに、今回の解雇の一件は神取にあるものがないから、おそらくジルは認めないのだろうと思った。
ならば期待していたのはどこなのか。それもわからなかった。
考えれば考えるほど一人では、知識が足りないように思えてくる。
ちらりと外を見ると、雨脚は強くなり、雨粒は激しく窓を打ち叩いていた。