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弾むようにしてベッドだから起き上がると、僕は体の前で腕を組む銀夜に向かい合って言った。
「何で銀夜がここにいるの!? それに、その格好は何!?」
「この服装でございますか?」
銀夜は背筋を伸ばした体勢のまま、フリルのついたスカートを指でめくりあげ、一回りターンしながら艶やかな銀髪をぱらぱらとなびかせた。
「うふふ、やはりメイドといえばこの姿ですから」
「いや、そういうことを聞きたいんじゃなくて……」
僕は天を仰ぎながらため息を吐いた。
銀夜が不安げに僕の顔を覗き込む。
「ご主人様? どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。それよりさあ」
僕が本当に聞きたかったのは、どうして銀夜がここにいるのかだった。昨夜戸締りは確認したはずだ。窓を叩き割りでもしない限り部屋に入れるはずがない。
「ああ、それならば無断でピッキングさせていただきました。ご就寝のお時間をお邪魔するのはためらわれまして」
銀夜は姿勢のいい立ち方を崩すことなく、事もなげに言った。
「そんなことよりも、朝食の準備が整っておりますので、お召し上がりになりますか?」
「そ、そんなこと……ね」
僕はもう一度ため息をつくと、銀夜の言う通り、着替えを済ませてリビングに向かった。
「す、すごいねこれ。どこの宮廷料理?」
「お褒めのお言葉、ありがとうございます。ご主人様」
銀夜は謙遜しながら一礼をした。しかし、白米と焼き魚と味噌汁ぐらいが通常の庶民にとって、霜降りのサーロインステーキを囲むように旬の野菜サラダ、濃厚なコンソメスープにフルーツの盛り合わせは少し重たいのではないか、と思った。
「と、思ったんだけど、おいしいねこれ。ご飯おかわりもらっていい?」
「はいな! 少々お待ちくださいませ」
銀夜はせっせと左手で白米をお椀についで渡してくる。
「あっ」
すんでの所で、銀夜が滑り落としたお椀を受け取った。
「も、申し訳ありません。ご主人様」
「そんな気を遣わないでいいよ。それより、今日は何の用件でうちに来たの?」
僕はご飯をおかずに、ジューシーに焼けたステーキを頬張りながら言った。
「…………それは」
銀夜は手をもじもじさせながら不明瞭に呟いた。ただそれだけの所作が妙に愛くるしく感じてしまう。まずい。図らずも銀夜に好意を持とうとしている。自分が押し掛け女房に弱いタイプだとは思わなかった。まあ、銀夜は奥さんではないけれども。メイドだっけか。ということは銀夜は押し掛けメイドとでも言えばいいのか。
「……私は、貴方様のメイドですから」
銀夜は天使のように穢れのない視線を僕に向けた。
「ご主人様の起床をお手伝いするのは、当然の責務にございます」
「……責務、ねえ」
「はいな! わたくしはメイドでございますから」
銀夜は僕の反応に対し、朗らかに応答した。彼女は自分がメイドであるということに、絶対のアイデンティティーを持っているようだ。整合性があるのは大変素晴らしいことだけども。
「だけどさ、やっぱりまずいって。今日はたまたま居ないけど、僕には姉さんだっているんだし。勘違いされたら困るでしょ?」
「姉さんというのは、ひょっとして、亘理朱音さまのことですか?」
「ひょっとしなくてもそうだよ」
「そうですね、お姉さまにもその内ご挨拶に伺わなければなりませんね」
「お姉さまって?」
「ご主人様の縁類ならば、わたくしにとっても主人のようなものですから」
「ま、まあ、とりあえず今挨拶に行くのは止めた方がいいと思うよ」
姉さんと銀夜を遭遇させると、どうなるのだろうか。きっと僕の想像以上の悲劇が起こるに違いない。たまたま今日家にいないことは、僥倖の賜物だったか。姉さんがもしここにいたら、間違いなく戦場となっていただろう。
「そういえばさ……」
コンソメスープを飲み下しながら言った。
「今日、たまたま夢を見て、思い出したんだ。銀夜って、昔路上で傷だらけになって倒れてて、口調はチンピラみたいに粗雑だった、あの子?」
「はいな、それがわたくしでございます!」
「……やっぱりか」
僕がため息をつきながら言った。あの夢は僕の記憶だったのだ。
銀夜は喜びと興奮が混じったような笑みを僕に向けていた。確かに僕は二年前、行き倒れになっている女の子を手当てしてあげた。今まで思い出すこともなかったのも、思い出の粗野な銀夜と今の銀夜に、全く共通性を見出せなかったためだ。決して僕の物覚えが悪いせいではない。
「あんな気まぐれで言った一言を間に受けて、僕の所にきたってわけ?」
「ご主人様が仰られたことはわたくしにとって神の言葉に等しい神聖なものです。親ですら見放していたわたくしを更正に導いて下さったのですから」
知らなかった。僕は神に等しい存在だったのか。多分、本気で言っているんだろうな。しかしあの時応急処置をしてあげたのも、メイドになるよう勧めたのも、単に傷ついた人間を放っておけなかったせいだ。そんなこと普通なら分かるはずなのに、彼女はわざわざ知り合いに尋ねて回ってまで、僕を捜し求めた。これは恩義を感じているとか、そういうレベルではないずだ。
「あの頃のわたくしは全てに反抗していました。親にも、教師にも、学校にも。大袈裟ではなく、最低の人間でございました。ですが、ご主人様のメイドとして相応しくなるべく、この二年間修練を積んでいたのです」
銀夜は射抜くような真っ直ぐな視線を僕に向けて言った。
「それは全て貴方様のためです。亘理空様」
そう言って彼女は、ステーキを一口大に切り分けると、僕の口元に運んできた。
「さあ、早く朝食を済ませてしまいまそう。はい、ご主人様。あーん」
彼女は左手で肉切れを指したフォークを僕に向けてきた。
「……あーん……って、羞恥プレイかよ。幼稚園児じゃあるまいし、一人で食べられるっての」
差し出されてしまったので、思わず食べてしまったが。本来ならこういうのは親子か恋人同士でやることのはずだ。
「ご主人様のお食事のサポートも、メイドとしての努めですわ。はい、もう一口……」
銀夜はナイフとフォークでいそいそとまたステーキを切り分け、僕の口に届けようとした。しかしそれは出来なかった。何故なら、フォークの先から肉片がテーブルの上に零れ落ちてしまったからだ。
「……銀夜?」
僕は少し怪訝に思った。食べ物を落としたことじゃない。それよりももっと、気になることがあった。
「あ、あう! 申し訳ありません! ご主人さ――」
「待って。謝らなくていいから僕の質問に答えて」
僕は彼女の謝罪を遮るように言った。
「右手。使えないの?」
「申し訳ありません……」
「謝らなくていいって言ったよね?」
「あうう……」
銀夜はあちこちに視線を泳がせ、やがて観念したのか、口を開いた。
「……二年前。ご主人様と出会ったあの時でございました。当時敵対していた不良グループとの小競り合いで、相手を殴打した際、わたくしは右手の骨を折ってしまいました。治りはしたのですが後遺障害が残っておりまして。物書き程度なら出来ますが、細かい仕事や力のいる作業は文字通り、手に余りますね。それ以来、基本動作は左手で行うようにしております。不便な体で真に申し訳ありませんでした」
「別に怒ってないよ。ただ、気になっただけだから」
頭を下げる銀夜を励ましながらも、心中では別のことを思っていた。もしかしたら、いやもしかしなくても、面倒なことに巻き込まれたのではないかと。拳の骨が折れるほど相手を殴りつけるなどと、あまり聞いたことがない。それはつまり、銀夜を怒らせると大変な眼に合うということではないのか。
「まだリハビリ中ですから。慣れるまでは辛抱してくださいませ。ご主人様」
零したステーキを片付けながら銀夜は言った。
「ああ、まあ、しょうがないことだからね」
僕はそう答えながら、朝食の残りを食べ終えることに専念しようとした。
「さあ、早く食べて学校に行こうか」