7
まどろみの空間の中、僕は夢の世界に迷い込んでいた。
これは確かに夢だ。現実ではない。なぜなら僕は中学の頃の制服を着てる。
舞台は人気のない路地裏だ。登場人物は僕と怪我を負った少女が一人。
少女は僕と同年代ぐらい、紺色のセーラー服に赤色のスカーフを巻いている。髪は最初白髪かと思ったが、よく見ると色素が薄いだけで、潤いのある綺麗な銀髪だった。体中に生々しい手傷がある。
手傷と言えば過剰に聞こえるかもしれないが、擦り傷や切り傷、引っ掻き傷や殴られた痕がいっぱいだった。女の子の手にも人を殴打した痕跡がある所を見ると、喧嘩した帰りだろうか。
んだよ、てめえ。
僕がじっと見てると少女が言った。思ったより澄んだ声だった。
「美宝中学三年の亘理空。道端で倒れてる女の子がいるので気になった次第。お加減はいかがかな? お嬢さん」
少し慇懃な言い方をしてしまった。昔からつい売り言葉に買い言葉をしてしまう。損な性格だと自分でも思う。
うぜえな。失せろ。
少女は苛々したように言った。本当に立ち去ってほしそうな言い方だった。僕は首を横に振った。
「怪我の具合はどうだと聞いてるんだけど。それを聞かないことには立ち去らない」
具合……? 知るか、んなもん。
「じゃあ、自分でもわからないほど酷いケガってことで、勝手に手当てさせてもらうよ」
いらねえよ。余計なお世話だ。
「そのままにしとくと化膿するよ。傷口からばい菌が入って、夜には痛みで悲鳴を上げて叫ぶだろうねえ」
僕は脅かすように言った。
……ちっ。勝手にしろや。
僕は彼女の言葉通り、勝手にハンカチで出血の酷い部分を拭いてあげた。白のハンカチがたちまち赤色に変わる。半分ほど朱に染まったところで、持っていた滅菌ガーゼを患部に貼ると、僕は立ち上がった。
「これでよし。だけど、病院にはかかった方がいいね。家はここから近いの?」
期待はしてなかったが聞いてみた。回りくどい言い方をしてもこういうタイプには効き目がないと判断したためだ。
近くねえよ。
少女は頬に貼られたガーゼを上から触りながら言った。
あんな家……ずっと前から遠く離れちまったよ。
「遠く離れた、ていうのは?」
あの家には私の居場所なんかねえんだよ。なくなっちまったんだよ。
「わかった。それじゃ――」
僕は会話を終わらせ、彼女を担ぎおんぶをしてやった。
おい……なにすんだ、どこ触ってんだよ。
「怪我人は文句言わない。近くの病院まで連れてってやるから」
思ったよりも少女は軽かった。落ちないように体制を整えると、僕は通路に歩き出した。少女は何も言わずに体重を預けていたが、やがておもむろに僕の肩に手を乗せた。
――礼なんて言わねえぞ。
少女が照れくさそうに言った。
「別にお礼なんて要求してないけど?」
僕は飄々と答えた。反論の声は上がらなかった。
おまえ、私が不良だと分かってんだろ? どうして助けた?
しばらく進むと少女は言った。僕はちらりと後ろを向くと、
「気まぐれ、かな」
と言った。
はあ?
少女が怪訝そうに聞き返した。
「別に理由なんてない。僕がそうしたかっただけだよ」
僕はそれだけ答えると、前を向き先を急いだ。
「そういえばさ」
後ろの少女に向かって声をかけた。
「君さ、中学生ぐらい、だよね?」
そうだけど。
少女は肯定した。
だから、何? 中坊には見えないって?
銀髪の少女は噛み付くように言った。僕は気にせずに会話を続ける。
「いや、そんなことないけど」
僕は軽く息をついた。そんなに重くないとはいえ、人一人をおぶるというのは流石にきつい。
「たださ、その話し方。どうにかならない?」
少女は答えた。
どうにかって、どういうことだよ。
「いや……何というかさ。女の子らしくないんだよね。勿体無いよ。折角の美人なのに」
本心からの言葉で、お世辞を言ったつもりはなかった。
な、なななな何を言ってんだよ、てめえ。
少女はジタバタと暴れた。
私は、このしゃべり方でいいんだよ。今更女言葉なんて喋れるか。大体、おまえの言う女らしい話し方ってどういうやつだよ。
「うーん……」
僕は返事に窮した。「女性らしい話し方」とはなんだ。
姉さんは? いや、あれは少し違う。
「そうだな。メイドさん……とかかな?」
メ、メイド?
「うん。いっそのこと、メイドになって言葉遣い勉強したら?」
誰のメイドになれっていうんだよ。
少女は肩にまわす手に力を込めながら言った。
「別に仕えたい主人のところでいいんじゃない? メイドにしても家政婦さんにしても、大事なのは人を気遣う心だと思うし」
それは本気で思うところだった。半端な気持ちで言えば、少女の一生をいたずらに変えてしまうような気がしたから。事実、少女は笑ったりせず、真剣に僕の言葉を聞いていた。
「なんだったら、僕の家のメイドにでもなる? 姉さんが家事とか色々教えてくれると思うよ」
ねえ、さん……?
少女がポツリと言葉をこぼした。僕はかまわず歩き続けた。
時間にして二、三十分程。随分歩き回った気もするが人を負ぶっていたせいだろう。少しは体を鍛えておくべきだった。
やがて病院の前までつくと、少女を地面に降ろしてやった。感謝の言葉はなかったが。
「じゃあね。もう喧嘩しちゃだめだよ」
……うるせ。
少女は俯きながら答えた。
「はは。それだけ言えれば大丈夫だね」
なあ。
「ん? どうしたの?」
おまえ、上品な女が好きなのか?
「まあ、乱暴な子よりはね」
僕がそう言うと、心なしか少女の眼が嬉しそうに輝いたように見えた。
さっきの話、考えといてやるよ。私は、私はついさっき死んだ。死んで生き返ってお前に助けてもらった。そういうことにする。
それだけ言い残すと、少女は病院の入り口へと消えていった。
一人取り残された僕は、はっと気がつくと同時につぶやいた。
「そういえば名前、聞き忘れたな……。まっいっか。あの調子ならいずれ更正するだろうし」
そう呟いたところで、聞き覚えのある声が世界に割り込んできた。
空間が、ぐにゃりと歪む。
どうやら夢が覚めたようだ。僕は少しほっとした思いで、眼を開けた。
「――ご主人様」
肩をゆさゆさと揺さぶられながら、愛らしい声をかけられていた。いくら起きなければいけない時間とはいえ、ここまで念入りにやらなくてもいいだろう。朝のまどろみが何よりも好きな僕としては抵抗したかった。
「ご主人様」
二度目は少し大きな声で呼びかけれたが、意識が覚醒するには至らなかった。ああ、誰か呼んでるよ、ぐらいにしか思わなかった。
すると、声の主は大きく息をつき、
「ご主人様ー! 朝ですよーー!!」
「うわっ!?」
僕はようやく眼を覚ました。というより跳ね起きた、というほうが正解に近いだろう。耳がきーんとして、鼓膜が破れたかと思うほどの大きな声だった。瞳をうっすらと開け、声の主を見据える。
「ぎ、銀夜?」
僕は心底仰天していた。
銀夜は黒のロングスカートに白のエプロンを身につけている。透き通る銀髪の上にカチューシャを上品につけ、どこからどうみても本物のメイドにしか見えない。ましてこれだけ整った容姿をしているのだから。こんなわけのわからない状況で、よく似合っているなと場違いにも思ってしまったほどだ。
「銀夜……だよね?」
僕が尋ねると、
「はいな!」
彼女は嬉々として頷いた。
「おはようございます。ご主人様、お目覚めはいかがでございますか?」