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お風呂から上がりリビングに入ると、テーブルの上には麻婆豆腐を始め、春雨サラダや焼売、卵とわかめのスープが湯気を立てていた。
ソファに腰掛けると、姉さんが茶碗に盛った白米を渡しながら言った。
「空、いっぱい食べてね。なんならお姉ちゃんも食べちゃっていいよ」
「食べない食べない」
僕は両手で茶碗を受け取りながら答えた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
手を合わせると、姉さんはニッコリ笑った。
「温かいうちに食べちゃってね。お代わりは沢山あるから」
「ありがと。うん、相変わらず姉さんの料理は美味しそうだね」
言いながら僕は麻婆豆腐を口にくわえると、感歎の声を漏らした。
「うん……姉さん、これお店出せるレベルだよ」
「私の手料理を食べていいのは空だけだよ。ね、これも食べて」
姉さんが僕の前の小皿に焼売を取り分ける。
僕はそれを箸で掴むと口に入れた。
「うん、美味しい」
もちもちして、中身はジューシー。好みの味だ。
「きゃ~っ、空にそう言ってもらえるのが何より嬉しいよお」
姉さんは頬を緩ませながら言った。
「うちの大学の連中なんてさ、馬鹿ばっかりだから。容姿だけ見て言い寄ってきてさ。私は空の物なのにね。空が成人する頃には嫁入りする予定なのにね」
「勝手に婚礼の予定を決められても困るけどね。姉さんがモテるのはほら、入試成績トップで入学式の挨拶をしたからじゃないかな?」
姉さんこう見えても県内で一番の大学にトップで合格、運動神経はプロのスポーツ選手並、容貌はモデル顔負けなほど端麗、となれば当然キャンパス内でも絶大な人気を誇っている。望めば芸能界入りも夢じゃないし、彼氏の十人や二十人、軽々と作れるはずだった。
しかし姉さんは、そうした声をあえて断り、頑なに特定の男と付き合おうとはしなかった。その代わり僕は姉さんからの愛を一身に受け、風呂が沸けば一生に入ろう――夜は一緒の寝床で――豪勢な料理をこしらえては口移しで――などと迫られているのだった。
「いいじゃない、どうせ空には決まった相手はいないんでしょ? 私なんて、いきなり呼び出されて『結婚を前提に付き合ってください』とか、そんなのよ? 高校卒業して空と一緒にいれる時間も少しは増えるかなとか思ってたらこれよ、次から次へと告白の嵐よ。その上十把一絡な連中ばっかりだしー」
「……僕も似たようなものだと思うけどね」
サラダを頬張りながら僕は呟いた。姉さんが僕のことを地球上の誰より愛してくれてることや、僕以外の人間は目にも映っていないことを知りながら。
「空は特別。恋は盲目っていうけど、好きになりすぎて周りが見えなくなるくらいおかしくなっちゃって、自分でもコントロールできなくなるの……」
「そんなに僕のことを?」
「好きなんてありきたりな気持ちじゃないの。空に抱いているのは……情愛っていうか、独り占めしたい欲求っていうか、とにかく、一言で言い表せるようなものじゃないのよお」
姉さんは舌なめずりすらしそうな勢いで言う。大学の同期生たちは、姉さんのこんな姿を見たらどう思うのだろうか。
「また新婚さんごっこの続きでもしようっていうの?」
僕はからかうつもりで言った。
「あら、いいわね。でもままごとじゃなくて実際に結婚してみるってのはどう? うんうん、善は急げ、思い立ったが吉日というわ」
「急いてはことをし損じる、とも言うよ」
僕がそう言うと、
「がちょーん……」
と、姉さんは昭和なリアクションでガックリ肩を落とした。その落胆ぶりを見ると本当に縁付くつもりだったのか。まさかな。いや、僕がうんと言えば、どこからともなく即婚姻届けを取り出して、無理やり手形を押させることもいとわないだろう。
「いや、そんなにがっかりした顔されてもどうにも出来ないよ。というか容易く結婚結婚て言うものじゃないよ」
「空は、私に死ねって言うの?」
「何で生き死にに繋がるのか理解に苦しむんだけど?」
「だ、だって、私……まだ未経験だから……、初めての相手は空と挙式を上げる時って決めてるから……」
「姉さんの予定調和には僕の意思は含まれてないみたいだね。でもさ、初体験は挙式を向かえた後、て決めてるなら、今は僕の体に手は出さないってことでいいんだよね?」
「あ、いや、それは……」
「ね・え・さ・ん?」
僕はジト目で姉さんを問い詰めた。姉さんは眼を白黒させ動揺した。分かり易いことこの上なしだ。
「う…うわーん! い、いいもん。結婚したら、空といっぱいエッチなことするんだもん。エロティックな新婚生活を向かえるんだもーーん!」
「ね、姉さん、声大きい」
わんわん泣き叫ぶ姉さんに僕はなだめるように言った。
「わーん! 空が苛める、からかう、小突き回すー! DVだ、家庭内暴力だー! わーんわーん!」
「ごめん、僕が悪かったって」
僕は慌てて姉さんの頭を撫でた。
「あはっ」
すると、コロッと姉さんの機嫌がよくなる。
やれやれ、女心は秋の空ってやつか……。
「じゃあ、私そろそろ寝るね。明日は早く起きてレポートを提出しないといけないの。もう、大学に通うようになったら忙しくてさ。とりわけ勉強が厳しい所に入っちゃったから骨が折れるわ」
「そうなの? じゃあ僕の分の朝食はいらないよ」
僕がそう言うと、姉さんはむくれながら、
「そうはいかないわ。空のご飯だけは、大学中退してでも作るわよ」
「本当に無理しなくていいから。学校の宿題を優先させてよ。僕だって何も出来ない子供じゃないんだから」
「そ、そう……? で、でも……」
姉さんは尚も食い下がろうとした。
「姉さんの気持ちだけ受け取っておくよ。受け取ったから、姉さんは姉さんで勉強を頑張ってよ」
僕がそう言うと、姉さんはニッコリ微笑んだ。
「ありがとうね。こんないい弟をもって、お姉ちゃん幸せ者だよ」
夕飯を済ませ部屋に戻ると、僕は携帯電話を手に取った。
登録帳を開く。「ま」行の一番上には美月銀夜の名前があった。
メールボックスを見て、あんぐりと口を開ける。さ、三百通……? 差出人は全て銀夜。おいおい、流石に多すぎだろう、と思いつつ幾つか開いてみる。
ご主人様。ご自宅にはちゃんとお帰りになられましたか?
ご主人様。夕飯はもうお食べになられましたか?
ご主人様。最後に分かれてから三時間五十五分経過されましたが、如何お過ごしでしょうか。わたくしはすこぶる健康です。そうそう、健康と言えば……。
パタン、と携帯を閉じた。
これ以上は見るのも億劫だ。
僕は立ち上がると、机の上に置いてある鉄製の小さな箱を手にした。
「なんだか、また厄介なことに巻き込まれそうだよ。親父」
それは、親父が最後に残したオルゴール。
僕が血のつながり以上に堅い絆を知ることが出来たきっかけ。
「ま、いつものことなんだけどね」
これからの前途を思い、僕は空元気に呟いた。