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その日の午後、僕はカバン一つ持って、時間どおり病院に着いた。
市内で一番大きな病院だけあって、玄関口やロビーには沢山の入院患者がいた。母さんが入院している病室は、病棟の中でも一際豪華な特別室だった。
室内に入ると、ベッドに横たわる母がいた。大分痩せていて、血色も悪い。細い腕には点滴が刺さっていた。母は僕の姿を見ても何の反応もしなかった。かなみの話によると、ここ数ヶ月で記憶障害を患い、過去の出来事も家族の顔も、忘れてしまっているのだという。
「母さん……」
僕は言葉を紡いだ。
「僕は、あなたを恨んでいるよ。母さんとは二度と会いたくないと思ってた。事実、今日だって来る気はなかったんだ。今日はけじめをつけにきたんだ。この間姉さんがね、言ってたんだ。
『家族はたった一人しかいないんだから、力になってやりなさい』ってね。
僕は、あなたに二度殺されそうになった。凄く嫌な思いをした。だから、全てを忘れるように生きてきたんだ。それがお互いのためにも良いと思ってた。
だけど、今は違う」
母は、僕の言葉を聞いてるのかどうかまったく分からなかった。
でも、そんなことは関係ない。僕は話を続けた。
「どんなに酷い奴でも、家族は家族だ」
「…………」
「でも、一回間違ってしまったことは、また正せばいい」
「…………」
「だから、元気になってよ。母さん……」
「……!」
母は首を傾けると、視線を僕に向けた。しかし瞳は虚ろだ。認識してるかの前に、僕のことが見えてるかどうかも分からない。
しかし、そこまでは想定の範囲内だった。
僕は持ってきたカバンの中から中身を取り出し、介護用のサイドテーブルの上に置いた。それは、古びたオルゴールだった。
「あ、あ……!」
母は、驚嘆したように目を見開きながら、僕の手中のオルゴールを覗きこんだ。
「お医者さんの許可は取ってあるから、鳴らすよ」
母の返事も待たずに、僕は側面のスイッチを押した。演奏が始まると、暖かく澄んだ音が室内に響き渡った。曲名は「トロイ・メライ」だ。
「覚えてる? 学生時代、あなたが父さん――亘理功治と交換し合ったオルゴールだ」
「功治、さん……」
母さんは呟くように言った。
「父さんはこのオルゴールを、生涯大事に持っていた。死ぬまでね。口下手な人だから言わなかったけど、父さんはあなたのことをずっと愛してたんだと思う」
「そ、ら……」
母さんは起き上がり、オルゴールを抱きしめたまま泣いた。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
彼女の手の中で流れる曲は、とても優しい気がした。
その後も、母は泣き続けた。
しばらくしてから手を離すと、「トロイ・メライ」は止まっていた。
「ありがとう……空。ありがとう……」
母は、涙を流しながら笑った。
「どういたしまして」
僕も、微笑みを返した。