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 銀夜は折り目正しく、床につきそうなほど深く頭を下げていた。ぴしっとした姿勢は、まるで嫁入り前の挨拶にも見える。だが、ここは学び舎で僕らはまだ学生だ。いつまでも土下座させたままでは体裁によくない。人の眼もあるし。せめて恭子が残っていてくれれば、と残念に思う。


「……えっと、とりあえずいいかな」


 彼女は顔をあげた。


「はい、ご主人様」


「そのご主人様っていうの、やめてくれない?」


「どうしてですか」


「ご主人様じゃないから」


「は!?」


 銀夜は勢いよく立ち上がった。僕の言葉がそんなに気にさわったのだろうか。しかしこちらとしても、彼女の言っていることは許容しかねるが。


「は!? ……って言われても。そもそも何で僕がご主人様なのさ」


「あなたが亘理空さまだからです」


「うん、だから」


「ですから、メイドとしてお側に置いてください」


「いや、メイドとしてって……」


「わたくしではお嫌ですか?」


 銀夜は捨てられた子犬のように眼を潤ませる。


「わたくしには、魅力がありませんか?」


「そ、そんなことはないけど……」


 僕は頭を抱えた。


「君がどういうつもりでこんなことを申し出るのかは判らないけどさ。僕は平々凡々なただの高校生なんだ。とてもメイドなんて雇う暇なんかないんだよ」


「いいえ、そうではありません」


 銀夜は首をふるふる横に振った。


「わたくしはあくまで、心からご主人様に奉公したいためにやってきたのです。ですから無償で結構でございます。いえ、是非とも労を尽くさせてください」


「本当に無償で?」


「はい!」


 銀夜は頷いた。どうやら決意は固いようだ。


「でもね、僕は君に奉仕される覚えはどこにもないんだけど」


 僕がそう言うと、彼女はやるせなさそうに眉をひそめた。


「やはり、覚えてらっしゃらないのですね」


 彼女は軽く息をついた。


「無理もありません。あの時の私は途方もない愚者でしたから。しかしご主人様のお力により救われ、自らの進むべき道を決することができたのです」


「僕が? 君を救った?」


「はい」


「いつ?」


「一年前、わたくしが怪我をして路上に倒れた時でございます。そのままでいたら、命の危険も感じるほどの手傷でございました。付近には人の影もなく、文字通り万策尽き果てたとき、偶然通りかかったご主人様に助けられたのです」


「怪我? 僕が助けた?」


「さようでございます。温かく介抱して頂きました」


 はて、そんなことしたっけ?


「そうだとしても、どうして僕がこの学校にいると判ったの?」


「戸塚先輩からお聞きしました」


「恭子に……?」


 あの恭子とこの子に、どんな接点があるんだ?


「あの方とは、直接の交友はございませんが、家柄の関係上一度だけお会いしたことがあるのです。といっても数分のことですから、恭子先輩も忘却してると思いますが」


「家柄って、君もしかして、お金持ち?」


「自慢に聞こえるかもしれませんが」


 彼女は少し言いにくそうに、

「わたくしは所謂名家の娘なのです。古くから続く由緒正しい家系で、親は国務に従事しております」


「……あらら」


 そう言えば。僕は思い出した。

 それと同時に、判りやすいほど呆気にとられた。

 

 美月家といえば、今時珍しい華族だと聞いたことがある。男は代々政治家か官僚に就いていて、古くから日本を支え、功績も資産も権力も甚大、美月家の名前を出せば警察も手が出せないと言われるほどだ。二年前に長女が亡くなったことでこの町ではちょっとしたニュースになった。


「すみません。わたくし自体は大した人間ではないので、どうかお気になさらないでくださいまし」


 彼女は心底申し訳なさそうに言った。


「いやでも、君みたいな子が仕えるほど、僕は上等な人間じゃないよ」

 僕の言葉を、彼女は過剰に否定した。


「いいえ! ご主人様は、他に類を見ないほど立派なお方でございます。わたくしは心の底からご主人様を恋慕っております! ああ! 今こうしているだけでも胸がはち切れそうです! 決して誇張などではございません。むしろ過小評価にございます。後生ですから、わたくしをメイドとして仕えさせてくださいまし!」


 銀夜はほとばしる想いを込めて言った。

 熱い。火傷しそうなほどの熱意だ。


「……もし、駄目だと言ったら?」


 彼女は、答えなかった。

 ただ無言のまま僕を見つめている。

 そして、眼からどんどん輝きが失せていった。


「……お知りになりたいですか?」


「な、なに? どうするの?」


 僕は逃げ出したくなるのを懸命に堪えた。


「ご主人様!」


「は、はい」


 銀夜は勢いよく立ち上がった。その拍子に椅子が倒れる。

 

 まずい、銀夜を怒らせるということは、美月家を敵に回すということだ。まずい、実にまずい。人生終了のファンファーレまで聞こえた気がする。


 てっきり殴られると思ったが、彼女は手を上げず、窓際まで駆け出した。

 そして、衝撃的なことを言い出した。


「今ここで、窓から飛び降りて死にます」


「はあ!?」


「止めないでくださいまし。ご主人様のメイドになれないなら、いっそのこと…………………………………………」


「ちょ、ちょっと待って!」


 僕は慌てて止める。


「では、メイドにしていただけますか?」


「いや、それは……」


「死にます」


 銀夜は窓枠に左手をかけ身を乗り出した。


「待って!」


「さようなら……わたくしのご主人様……」


「わかった! わかったよ!!」


「?」

 

 自殺を図ろうとする銀夜を、僕は懸命に思いとどまらせようとした。どうやら彼女は、本気で僕のメイドになろうとしているようだ。これ以上拒絶すると、本当に死にかねない。


 まあ、いいのか? 別にメイドにしたところで減るもんじゃないというか、据え膳食わぬは男の恥って言うし。いや、これはちょっと違うか。とにかく、やっと切望していた部員が手に入ったことだし、ならば無理に突っぱねることもない。銀夜自身も眼を見張るほどの美人だし。


「ご主人様?」


「……学業に支障が出ない、生活に障害が出ない、部活動に差し障りがないことが条件だ」


「と、いいますと!?」


「まあ、いいんじゃないの? おっけー、かな?」


「ご主人様ああああああああああああああああああああ」


 銀夜は勢い激しく飛びついてきた。

 僕は避ける暇もなく押し倒される。


「ご主人様! 好きです! 愛しています!」


 彼女はそう言うと、僕の首筋をペロペロと舐めまわした。


「ちょっと!?」


「大好きです! ずっと、お慕い申しあげておりました!」


 逃げようとするが、銀夜の舌は生き物のように僕の体をのたう。


 僕は彼女を突き飛ばそうとしたが、まるでブロンズ像のようにびくともしない。やばい。銀夜はひとしきり首筋を舐め終えると、舌先を顎まで這わせた。


「銀夜さん! 頼む! 離れてくれ!」


「あふぅ。ごしゅじんひゃまの匂いでしゅぅ……。と、とまりません。美味しすぎて、わたくしとまらないですぅぅぅぅ」


 あ、こりゃ聞いてないな。


「……口付けを……」


 そう言うと、銀夜は唇を近づけた。

「ご主人様、キスしましょう? わたくしと熱くて淫らで体中が蕩けそうなほどの激しい接吻で、主従の契約を、交わしましょう……?」

 銀夜の唇がほんの数センチのところまで迫る。


「や、やめて! こんなところ、恭子に見られたら――」


「私に見られたら、何なのだ?」

 

 すぐ横で声が聞こえた。

 僕は声のした方を向く。

 失神しなかったのを自分で褒め讃えたかったくらいだ。それぐらい恭子は憤怒に満ちた表情で立ち尽くしていたのだから。


「き、恭子……」


「遅いと思って様子を見に来てみれば……」


 震えた声で、恭子が言った。


「あら、恭子先輩ではございませんか。どうかなさりました?」


 銀夜は僕から体を離すと、恭子に向き直った。


「……どうか、なさったかだと……?」


 恭子は低いトーンで言った。まずい、完全に激怒してる。


「じゃ、じゃあ、僕はこれで」


 僕はどさくさに紛れて、部室を出ようとした。素早く動いたつもりだったが、それを上回る機敏さで、恭子は僕の肩を掴んだ。


「逃亡するつもりか?」


 よほど怒っているらしい。掴まれた部位がズキズキと痛む。


「空、お前は残れ? よいな?」


「……はい」


 イエス、と答えるしかなかった。


「それと、美月銀夜」


 恭子は銀夜をキッと睨むと言った。


「はい」


「お主にも訊きたいことが……」


「はい。なんでございましょう?」


 対する銀夜は、落ち着き払った口調を返す。


「…………いや、今日はもうよい。本格的な部活動は明日からということにする。もう帰るがよい」


「そうですの。では、お言葉に甘えさせていただきますわ」


 銀夜は歩き出した。


「指導は厳しくいくからな。それだけは覚悟してまいれ」


「はい。こちらこそよろしくお願い致しますわ」


 ペコリと頭を下げながら、銀夜は上品な足取りで入り口に向かう。

 そのときだった。


「……ご主人様、またあとで」


「え?」


 僕の前を通り過ぎる際、銀夜は僕にだけ聞こえるように小声で呟く。


 暴風だけを起こして、彼女は左手で優雅にドアを開け部室を出て行った。


 二人きりになった所を見計らい、恭子は口を開いた。


「さて。空、話を聞かせてもらおうか」


「え? 話って言われても。時間も遅いし、僕たちも帰らない?」


 見逃してください、というメッセージを込めて僕は言った。


「駄目だ」


 恭子はバッサリと切り捨てた。


「帰りたいと言うのなら、お前の家までついていって、明け方まで問いただしてやってもよいぞ? どちらにする?」


「……話します」


 僕は倒れた椅子を戻しながら言った。情けないことに、全身からは冷や汗が流れている。まったく、どうしてこうなるんだ? 僕は心の中で愚痴をこぼした。

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