離郷距離
「役者になる為に上京した彼氏が、昨日、戻ってきたの」
激しい喧噪が展開される休み時間、後席の女子生徒達がそんな話を切り出したので、僕は何気なく留意した。
「それまでは殆ど連絡を取らなかったし、こっちに戻ってくる事も無かったから、別れたようなものだったけれど」
頬杖を付いていた僕は、窓の外を眺める素振りで、話の続きを待った。
話し手の彼女の声は、妙に落ち着いていて、大人びていた。
僕たちはあと一月で、高校生になる。
「オーディションに落ちて、意気消沈して、帰ってきたの。お前と島で一生を過ごすんだって」
間の抜けた含み笑いが聞き手から呼応される。耳に障られた僕は、少し苛々している。
「私もさ、正直、彼に対して嫌悪感を覚えたのだけれどね。――何だか、こう、それ以上に良い気分になったせいか――私自身はそんなに悪い気はしなかったんだ」
彼女は少し唸って何かを思考した後、授業開始のチャイムと共に、このように話を締めた。
「ざまあみろ、とも違う、別の優越感。支配欲とは異種でありながら、その延長であるようなもの、かな――」
高校入試の試験会場で、彼は堂々と起立していた。
その眼差しは、彼のカンニングという不正を指摘する試験官には向けられず、ただ一点を、刺すように見つめていた。
僕は彼から目を反らし、得意教科の数学に取り直そうとした。
しかし僕の指先は不覚にも大きく震え、記号を綴ることすらままならなかった。
胸の高鳴りが止まない。
僕の動揺が他の人達に伝播するのではないかと、不安に拍車がかかった。
彼の、鉛筆を模したシャープペンシルが机から転がり落ち、タイルの上で乾いた音を立てる。
幾重にも折り畳まれた紙片が、試験官の手によって彼の前に突き出された。更に注目が集まる。
試験官の鬼気迫った質問に何も答えず、彼は僕を見て疲れた顔で微笑んだ。
僕は再び彼から目を反らして、額から流れ落ちる汗を袖で拭った。
試験の帰り道、彼は頭を垂れながら、吐き出すように呟いた。
「学力でしか出られない島っていうのは、本当」
僕は躊躇いがちに頷く。
「でも、俺は、島を出るよ」
僕は手で鳥の形を作った。
「グライダー」
快晴の青空の下、三機の小型戦闘機が通過する。
並木道に立つ銀杏の上で囀る鳥たちの唄が、不自由な翼達の轟音で掻き消される。
「失敗したら、消えるだけさ」
その言葉は胸が痛くなるほど明瞭で、悲しく響いた。彼は空を見上げる。
きっかけはハンググライダーの雑誌だった。
帰宅路の途中にある書店で、彼は雑誌を眩しそうに見つめながら、確信したのだ。
「不可能ではない。上昇気流に乗れば、どこまでも行けるんだ」
本来なら、学習、訓練を重ねた上で免許を取得し、飛行が可能になるという。
日本の最長飛行記録は約200km。本土までの距離は15kmで、島の最標高は535m。
「親父が趣味でやっていて、分かるんだ。かなりの距離を飛べる」
彼は目を輝かせて、僕に説明を続けた後、額に手を当てた。
「今の今まで忘れてた。こんな脱出方法があったんだ」
僕は急いでクルージングの雑誌を探し、彼に見せた。
「連絡船には親の同意がなきゃ乗れないし、積荷に隠れるなんて、こそこそしたことはしたくない。それに、船を造るなんてのはナシだよ。本末転倒だから」
そして彼は決心したように、胸に手を当てて、力強く宣言した。
「俺は空を舞って、この島を出るんだ。鳥って、自由の象徴だろ?」
不安な僕を説得するように、彼は続ける。
「確かに自殺行為に見えるかも知れないけど、安心しろって。途中で駄目だと思ったら帰ってくるし、海に落ちても、ライフジャケットがあるから大丈夫。携帯も防水袋に入れておいて、何かあった時はそれで連絡する。不安ないだろう?だから、泣くなよ」
僕は手に持った雑誌に目を落とし、結局、彼の確信に最後まで相槌を打てなかった。
卒業間近の、開放的でありながら寂しさの漂う教室の隅で、彼はハンググライダーの教則本を開いていた。
進路が決まった生徒が大半を占める中で、高校へ進学せず、就職しないのは彼だけだった。
僕は、ブレザーの袖を掴んで伸ばした両手を石油ストーブにかざしながら、その姿を見守っていた。卑しい噂話の中で、彼は孤立を恐れていなかった。
授業が終わると、彼は離陸練習をするために自転車で山を登る。
整地された斜面の草原は、美しい毛並みを持った動物の腹部のようで、時折、風に撫でられてはくすぐったそうに隆起する。僕はその波を一望できる平らな岩の上に座って、彼の練習を見守った。本土の進学校への推薦入学が決まっていた僕に与えられた大量の時間は、惜しみなくその日課に注がれた。
彼の見つめる先には、蜃気楼に揺れる本土があり、夕暮れで点火し炎上するそれは、この世の果てを彷彿させた。
赤く溶解する太陽に走り込んでいく彼を見て、僕は一つの神話を思い出した。
蝋の翼で牢から脱出する男。
男は父の警告を無視して空高く飛んだ。そして、太陽に近づいて蝋の翼を溶かされ、海へ墜落した。
僕には警告する抑止力も無く、太陽の熱に溶けない翼を与えることもできない。
そしてまた、一緒に飛び立つ勇気すらもないのだ。
一心不乱に太陽に手を伸ばす彼を見て、僕は深い無力感を覚えた。
しかしその一方で、一つの行動を思いついていた。
それは、難しい事ではなく、今の僕にも十分にできることだった。
卒業式を終えた夜、僕たちは滑走の丘に集まった。
彼がお酒を持ってくる。
ビールに缶チューハイ。おつまみもある。
「買ってきた、と言いたいところだけど、やっぱ厳しいや。家から持ってきたよ。悪いな。親父とお袋が飲んでるやつなんだ」
そう言って、僕にグレープルフーツサワーを渡す。
ビールを一気に喉に流し込んだ彼は、軽いげっぷを出して、話を切り出した。
「本当は親父の跡を継いで、この島で造船しようと思ってた。だけど俺、頭悪いし、親父嫌いだし、それに、興味も全く無いって、分かってたんだ」
人差し指でプルトップを弄りながら、彼の目は静かな光を忍ばせていた。
「それが誰のせいでもないんだって分かってる。もちろん、自分のせいでもない。今だから、そんな覚悟ができるんだと思う」
僕はみじろ身動いだ。
触れたい。
触れていたい。
今にも飛翔し、空に昇華されようとしているその魂に、触りたい。
そう思うのに、手が動かず、届かない。
指先が空気を引っ掻いて、僕は只只、この身を震えさせている。
「寒いの?」
僕は首を横に振った。言葉も出てこない。言葉なんて、もとより頼りにならない。
こんな時、彼から触れてくれればいいのに、と切実に思う。同時に、そんな自分を卑しくを感じるのに、欲望に歯止めが利かない。自制ができない自分が恐ろしく、憎らしい。
彼は黙って、僕に毛布を重ねる。
「世間から見れば、俺はまだ子供だし、俺自身も子供だと思ってる。分からない事とか、知りたい事、たくさんあるしさ」
彼が絶好だと言っていた風は止まない。ひっきりなしに僕たちの体を吹いては、容赦なく体温を奪う。
「だから、これは言い訳かもしれないけど、お前の事、正直、まだよく分からないんだ。一緒にいて心地良いし、大切にしたいと思ってる。嬉しいんだ。でも、ただ、その、自分の気持ちが良く分からないせいか、お前の事も、はっきりしない」
僕は夜の向こうの本土を意識して、彼に目配せをした。
「島を出れば、それが分かるような気がする。それまで待っていて欲しい。待っていて欲しいんだ。その時まで、何があっても、俺は諦めない」
彼は巌の下に咲いていたスミレを摘んで、僕の髪に飾った。
「雨が降ろうと、風が吹こうと、俺は俯かないし、お前を見失ったりしない」
花のように。僕はそう付け足そうとして、喉のところでこら堪えた。
「ちょっと行ってくるよ」
そう云って、彼は立ち上がり、夜明けと共に離陸した。
僕は山を下りながら、携帯電話の液晶パネルを注視していた。
出発直前、僕はハーネスの中に彼の携帯電話を隠していた。
携帯電話について何も言わなかった彼は、僕の気持ちを知っていたのかも知れない。
GPS機能で彼の着陸地点を確認して、僕は息をつ吐いた。
風向きが変わったのだろうか。高度が足りなかったのだろうか。
もしかしたら空中でスパイラルスピンを起こしたのかもしれないし、分解という可能性もある。
彼の父親が所持していた旧式のハンググライダーは、明らかに破棄されるべき故障品だった。
位置以外をモニターできないのは、どうにももどかしい。
次はカメラでもつけておこうか。ハンググライダーの構造上、隠す場所は限定されるが、小型なものなら出回っている。フレームへの装着も可能かも知れない。
彼の携帯電話に電話をかけてみたが、僕の着信は誰も受け取れなかった。
僕は彼の離郷距離を記録して、折り畳み式の携帯電話を閉じた。
海岸に到着する。
潮の流れから、彼が打ち上げられるのはこの海岸だろう。
新設されたテトラポットの上で毛布をまとい、僕は朝日を待った。
海と空の境界線が太陽で溶け始めた頃、墜ちて朽ち果てた翼が白波の岸に打ち上がる。
その翼に絡まった彼は、橙色に焼ける砂浜に青白い頬を擦らせていた。
僕は立ち上がって、朝焼けの光に全身を照らされながら、焦げた風で口元に入ってきた髪を静かにそっと払った。
軽い眠気を覚える。その直後、小さな欠伸が出る。
僕ははっとした。
幸福な気持ちに浸っている自分に気が付いた。
そして、ある女子生徒の言葉を思い出したのだ。
ざまあみろ、とも違う、別の優越感。支配欲とは異種でありながら、その延長であるような――