『夏の蝉』
強いクチナシの香が辺りに香っていた。
もう随分、陽も長くなった。
太陽は落ちかけていたが、空は朱に逆らってますます青みを増していて、地には仄かに影が差しているというのに、上ははっきりと明るかった。
その明るみ中に、鮮やかな月がぽつんと浮かんでいる。
男は垣の向こうに伸びるクチナシの側へ寄っていった。
その葉は暗々とした緑に沈み、かつて真白かった花弁は肉厚に熟れ黄色く汚れていた。
つまり、もう夏が来ていた。
男は顔を近付け、肺一杯に匂いを吸い込んだ後、乱暴にその花をむしり取った。
それからまた、古びた家々の並びをのんびりと歩き出した。
そんなようにして、人も斬った。
彼にとって、それらは全く同じ意味を持つように思われた。
だから、男は孤独だった。
生まれた時から孤独になる自由があって、それでここまで好き勝手やってきた。
特別何かを恨んだり憎んだりする事もなかったが、まるでこのちんけな町のように、さしたる楽しみもなく、いつも空ばかり眺めていた。
ここを出てまたどこか他へ行こうかと、彼は考えていた。
もちろん、あても望みもなかったが、ケチなヤクザの用心棒もやはりつまらなかったのだ。
阿呆の相手にうんざりして、今日一人客を斬ってしまった。
その内にやってくる追っ手とやり合ってもよかったが、それもいまいち気が乗らない。
手にしたクチナシの花を嗅ぎながら、男は億劫そうに息を吐き、家路へと向かっていった。
建て付けの悪い戸を開けると、女が咳をしていた。
それはヤクザの女郎屋に入れられている女で、ここへは度々通わせていた。
女はこちらを見ると、さっと一口水を飲んだ。
咳などすると男がすぐ嫌な顔をするからである。
「おかえり」
夕暮れ時が似合う、低い声だ。
平気で歯を見せて笑う顔は、老け始めてはいるが、柔らかだった。
さして若くもないのに、うぶな少女がいい女を演じようとしているかのような、くすぐったい愛らしさがある。
しかし結局、彼女の印象というのは、髪を纏め顕わになっているそのまん丸な額と、美しい眉、それらが全てなのだった。
その暖かみと野暮ったさが、女の何もかもを語り尽くしていた。
彼女の言葉には応じずに、男は持ってきた薬とクチナシを卓に置いた。
彼はいつも、気が向いた時にしか口を利かない。
だから女は、何故こいつが自分を呼ぶのかも未だによく分かっていなかった。
いやそれどころか、彼について知っている事など殆どないと言えた。
とはいえ、男に惹かれていないでもなかった。
男には、生を空費した人間が持つ無秩序な真実味と、優しさに似た残酷さがあった。
「おい。笠、どこへやったか知らねえか?」
「知らないよ。あんたの女房じゃあないもの」
がらくただらけの隣部屋をひっくり返していた男は、女の答えに不機嫌そうに唸って、すぐに諦めて戻ってきた。
それから面倒そうに腰の刀を放ると、ごろんと横になってしまった。
外では風が吹き、烏が鳴いている。
窓から夕焼けが染み入ってきて、天井を睨むその横顔を照らしていた。
女はクチナシを手に取った。
そして鼻先へ持って行き、ふと目を伏せた。
「酷いちぎり方。せめて枝から綺麗に切ってくれりゃ、少しは活けておけたのに」
「そんなもん、さっさと捨てちまえ」
「……むごいね、あんたは」
「俺に言わせりゃ、瓶に挿してまで生かす方がよっぽど悪い。汚えだけだ」
女は膝上で両の拳をぎゅっと握った。
そうして寂しそうに、そんな事言わないでよ、とぼそっと呟いた。
口端は笑んでいた。
しかし心を雨宿りさせるように、束の間ゆっくり呼吸をしなければいられなかった。
「ねえ、人間何で生きていると思う?」
男はこういう湿っぽい話が大嫌いだったため、すぐ閉口した。
そんな時は、女も聡く気が付いて、無理にでも強がり笑い飛ばしてしまうのが常だった。
だが、この時は様子が違った。
「未亡人って、言うでしょ? 昔は、夫に死なれたら、妻も後を追わなきゃいけなかったんだって。それに背いた人を、未亡人って呼んだんだ。未だ死なない人って。……あたしは、何で今も生きてるのかな」
返事はない。
女もそれは分かっていたが、何故か男の方は見られなかった。
何かはっきりしたものに触れてしまうのが、怖かったのかもしれない。
それでも口は止まらなかった。
「あんたはさ、他のと違って賭け事もしないだろ? 女遊びも、そんなに好きじゃない。人とも全然話さないし、贅沢も知らない。あんたは今、幸せなの? ねえ? あんたは……」
「んなこたあ、考えた事もねえ」
舌打ちの後に、そう聞こえた。
はっと向こうを見たが、彼はまだ上を向いたままだった。
「それじゃあ、どうして生きられるの?」
「どうして生きられるかなんぞ、腹の膨れた連中が暇つぶしに考える事だ」
「あたしは……!」
「俺は死に損ないだ。生まれた時からな」
身を起こし刀を持ち上げると、ガタと重苦しい音がした。
それが今更ながら、強い異物感として女の耳孔に張り付き離れなかった。
寂しい音だと、彼女は思った。
「ガキの頃から、見知った奴なんぞ一人もいなかった。だがある爺だけは違った。そいつはどこへ行っても、俺の前に現れる。その辺にいそうな、痩せた爺だ。いつも憎たらしい顔をして笑っていやがる。能面みたいに動かねえ顔だ。俺は、初めて見た時から、奴が普通じゃないと分かっていた。あいつは俺を呼んでいやがるんだ。ずっと、そうだ」
「それ……」
「構やしないけどな。地獄ってやつがここより酷いとも思わねえ。いつだって行ってやる。ただ、誰の好きにもさせねえ。行く時は俺が行く」
男は眉間に深い皺を寄せて、今までに見た事もないくらい恐ろしい顔をしていた。
女は懸命にそれを見つめ返そうとしたが、弱い彼女にはどうする事も出来なかった。
やがて蝉が鳴き始めた。
たった一匹なのに、強く、強く、耳が痛い程に鳴いた。
今年初めて聞くその声は、喜びに震えているとも、苦痛に叫んでいるとも、哀しみを散らそうとしているとも感じられ、じっと耳を澄ましてはいられない程だった。
「出る」
男は腰を上げた。
そして息を呑む女の横を過ぎていった。
彼がギイギイ言う戸を力任せに開くと、途端眩しいくらいに穏やかな橙色と、暖かく湿った夏の匂いが、幼い記憶にも似た匂いが流れ込んできて、彼女の目からは涙が垂れた。
それは、あまりにも美しかった。
こんなに悲しいにも関わらず。
「どこへ……?」
果たして本当に口に出せたかどうかも、定かではなかった。
ただ願いが頭に響き渡っただけなのかもしれなかったが、彼女には確かめる術もない。
蝉はやはり五月蠅くて仕方なかったし、その虚ろな背はここからひどく遠く見えたからだ。
が、男はおもむろに肩から後ろを振り返った。
そして何の気ない調子で、おい、と声をかけた。
「お前、どうする?」
何故、そんな事を言ったろう。
同情ではなかった。
男は一人では生きられないような者が心底から嫌いだった。
感傷のはずもない。
そんなもの、彼は知りもしないからだ。
とかく、夏だったのだ。
死に行くクチナシには見られない、夏である。
女は立ち上がり、歩き、敷居を越えて地を蹴った。
暑く遠いその季節へ。