表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

『夏の蝉』

強いクチナシの香が辺りに香っていた。

もう随分、陽も長くなった。

太陽は落ちかけていたが、空は朱に逆らってますます青みを増していて、地には仄かに影が差しているというのに、上ははっきりと明るかった。

その明るみ中に、鮮やかな月がぽつんと浮かんでいる。


男は垣の向こうに伸びるクチナシの側へ寄っていった。

その葉は暗々とした緑に沈み、かつて真白かった花弁は肉厚に熟れ黄色く汚れていた。

つまり、もう夏が来ていた。

男は顔を近付け、肺一杯に匂いを吸い込んだ後、乱暴にその花をむしり取った。

それからまた、古びた家々の並びをのんびりと歩き出した。


そんなようにして、人も斬った。

彼にとって、それらは全く同じ意味を持つように思われた。

だから、男は孤独だった。

生まれた時から孤独になる自由があって、それでここまで好き勝手やってきた。

特別何かを恨んだり憎んだりする事もなかったが、まるでこのちんけな町のように、さしたる楽しみもなく、いつも空ばかり眺めていた。


ここを出てまたどこか他へ行こうかと、彼は考えていた。

もちろん、あても望みもなかったが、ケチなヤクザの用心棒もやはりつまらなかったのだ。

阿呆の相手にうんざりして、今日一人客を斬ってしまった。

その内にやってくる追っ手とやり合ってもよかったが、それもいまいち気が乗らない。

手にしたクチナシの花を嗅ぎながら、男は億劫そうに息を吐き、家路へと向かっていった。


建て付けの悪い戸を開けると、女が咳をしていた。

それはヤクザの女郎屋に入れられている女で、ここへは度々通わせていた。

女はこちらを見ると、さっと一口水を飲んだ。

咳などすると男がすぐ嫌な顔をするからである。


「おかえり」


夕暮れ時が似合う、低い声だ。

平気で歯を見せて笑う顔は、老け始めてはいるが、柔らかだった。

さして若くもないのに、うぶな少女がいい女を演じようとしているかのような、くすぐったい愛らしさがある。

しかし結局、彼女の印象というのは、髪を纏め顕わになっているそのまん丸な額と、美しい眉、それらが全てなのだった。

その暖かみと野暮ったさが、女の何もかもを語り尽くしていた。


彼女の言葉には応じずに、男は持ってきた薬とクチナシを卓に置いた。

彼はいつも、気が向いた時にしか口を利かない。

だから女は、何故こいつが自分を呼ぶのかも未だによく分かっていなかった。

いやそれどころか、彼について知っている事など殆どないと言えた。

とはいえ、男に惹かれていないでもなかった。

男には、生を空費した人間が持つ無秩序な真実味と、優しさに似た残酷さがあった。


「おい。笠、どこへやったか知らねえか?」

「知らないよ。あんたの女房じゃあないもの」


がらくただらけの隣部屋をひっくり返していた男は、女の答えに不機嫌そうに唸って、すぐに諦めて戻ってきた。

それから面倒そうに腰の刀を放ると、ごろんと横になってしまった。

外では風が吹き、烏が鳴いている。

窓から夕焼けが染み入ってきて、天井を睨むその横顔を照らしていた。

女はクチナシを手に取った。

そして鼻先へ持って行き、ふと目を伏せた。


「酷いちぎり方。せめて枝から綺麗に切ってくれりゃ、少しは活けておけたのに」

「そんなもん、さっさと捨てちまえ」

「……むごいね、あんたは」

「俺に言わせりゃ、瓶に挿してまで生かす方がよっぽど悪い。汚えだけだ」


女は膝上で両の拳をぎゅっと握った。

そうして寂しそうに、そんな事言わないでよ、とぼそっと呟いた。

口端は笑んでいた。

しかし心を雨宿りさせるように、束の間ゆっくり呼吸をしなければいられなかった。


「ねえ、人間何で生きていると思う?」


男はこういう湿っぽい話が大嫌いだったため、すぐ閉口した。

そんな時は、女も聡く気が付いて、無理にでも強がり笑い飛ばしてしまうのが常だった。

だが、この時は様子が違った。


「未亡人って、言うでしょ? 昔は、夫に死なれたら、妻も後を追わなきゃいけなかったんだって。それに背いた人を、未亡人って呼んだんだ。未だ死なない人って。……あたしは、何で今も生きてるのかな」


返事はない。

女もそれは分かっていたが、何故か男の方は見られなかった。

何かはっきりしたものに触れてしまうのが、怖かったのかもしれない。

それでも口は止まらなかった。


「あんたはさ、他のと違って賭け事もしないだろ? 女遊びも、そんなに好きじゃない。人とも全然話さないし、贅沢も知らない。あんたは今、幸せなの? ねえ? あんたは……」

「んなこたあ、考えた事もねえ」


舌打ちの後に、そう聞こえた。

はっと向こうを見たが、彼はまだ上を向いたままだった。


「それじゃあ、どうして生きられるの?」

「どうして生きられるかなんぞ、腹の膨れた連中が暇つぶしに考える事だ」

「あたしは……!」

「俺は死に損ないだ。生まれた時からな」


身を起こし刀を持ち上げると、ガタと重苦しい音がした。

それが今更ながら、強い異物感として女の耳孔に張り付き離れなかった。

寂しい音だと、彼女は思った。


「ガキの頃から、見知った奴なんぞ一人もいなかった。だがある爺だけは違った。そいつはどこへ行っても、俺の前に現れる。その辺にいそうな、痩せた爺だ。いつも憎たらしい顔をして笑っていやがる。能面みたいに動かねえ顔だ。俺は、初めて見た時から、奴が普通じゃないと分かっていた。あいつは俺を呼んでいやがるんだ。ずっと、そうだ」

「それ……」

「構やしないけどな。地獄ってやつがここより酷いとも思わねえ。いつだって行ってやる。ただ、誰の好きにもさせねえ。行く時は俺が行く」


男は眉間に深い皺を寄せて、今までに見た事もないくらい恐ろしい顔をしていた。

女は懸命にそれを見つめ返そうとしたが、弱い彼女にはどうする事も出来なかった。


やがて蝉が鳴き始めた。

たった一匹なのに、強く、強く、耳が痛い程に鳴いた。

今年初めて聞くその声は、喜びに震えているとも、苦痛に叫んでいるとも、哀しみを散らそうとしているとも感じられ、じっと耳を澄ましてはいられない程だった。


「出る」


男は腰を上げた。

そして息を呑む女の横を過ぎていった。

彼がギイギイ言う戸を力任せに開くと、途端眩しいくらいに穏やかな橙色と、暖かく湿った夏の匂いが、幼い記憶にも似た匂いが流れ込んできて、彼女の目からは涙が垂れた。

それは、あまりにも美しかった。

こんなに悲しいにも関わらず。


「どこへ……?」


果たして本当に口に出せたかどうかも、定かではなかった。

ただ願いが頭に響き渡っただけなのかもしれなかったが、彼女には確かめる術もない。

蝉はやはり五月蠅くて仕方なかったし、その虚ろな背はここからひどく遠く見えたからだ。

が、男はおもむろに肩から後ろを振り返った。

そして何の気ない調子で、おい、と声をかけた。


「お前、どうする?」


何故、そんな事を言ったろう。

同情ではなかった。

男は一人では生きられないような者が心底から嫌いだった。

感傷のはずもない。

そんなもの、彼は知りもしないからだ。


とかく、夏だったのだ。

死に行くクチナシには見られない、夏である。

女は立ち上がり、歩き、敷居を越えて地を蹴った。

暑く遠いその季節へ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ