3 夜明けの泉 四人組
目を覚ました渚は、妙に固いタオルケットの感触を覚えた。目がぼやけていて、周りがよく見えなかった。そして寒い。からだ中、冷や汗をかいている。体中がべとべとしていて気持ちが悪い。下のマットも地面のように固く、体中が妙にこわばっている。渚は、寝転がったまま、目が覚めた時の癖で、その前髪をかき上げようとした。
「ん?」
いつもの、ごわごわした感触の代わりに、絹糸のようなものが手に当たる。
なんだろうかと、自分の手を見て、そこで気付いた。
「―――あぁ、そうだっけ?」
ぽつりと、渚はつぶやいた。
やはり、悪夢は覚めないものらしい。渚はぼんやりと、視界に映るその華奢な、白い手をながめた。
さっき触ったのは自分の髪、そしてこれは自分の手。さっきから妙に高い声は、自分の声。
―――やっぱり、いつも通りの朝じゃない。
骨のきしみ声を聞きながら体を起こした渚は、周りに視線をめぐらした。
そこは、泉近くの草の上だった。ぐるりと巨木に取り囲まれた草むらの上、木々の切れた丸い空から、朝の光が降ってくる。そして、渚はなぜか草色の革の布をかけられて、革袋を枕に寝かされていた。そこで、深呼吸をひとつ。
「―――生きてる?」
喉を通し、肺の中に入ってくる、湿った森の冷たい空気と煙の臭い。少なくとも、呼吸はできている。体がひどくだるくて、それぐらいしかわからないが―――、
「目が覚めたか?」
飛び上がるようにして、立ち上がった。自分の真後ろからの声。渚は反射的に声の方に顔を向けると、
「起きた途端に、元気だな?」
―――呆れられた。
渚が寝ていたところの真後ろ、少し離れたところ、黒い髪の女が、体育座りのような体勢で、起こした火に当たっていた。女はまるで、何をやってるとでも言いたげに、渚を胡乱な眼で見ている。
渚は身構え(とりあえず、また逃げられるような体勢)ながら、女に聞いた。
「えっと…? どちらさまでしょうか?」
思わず、家の玄関先のような対応になってしまった。二つの意味で肝が冷える。一つは、この対応は正解かという意味で、もう一つは、自分は何語を話してるんだ、という意味で。
改めて聞くと、何語か分からない。少なくとも、プリン旅行のときには聞いたことがない。しかし、その意味のわからない音が、自分の言いたいように口から紡がれ、飛び出していくのが解る。そして、それは相手にも通じる程度には、ちゃんと話せているらしい。女は、同じ言葉で応じた。
「一応、お前を助けた相手だ。そして、こういう時は、自分から名乗るのが礼儀というものだろう?」
女はハスキーな声で、子供に教えるような調子で言ってくる。その顔には苦笑が浮かんでいた。
言われた渚は、少しのあいだ逡巡した。言葉のことは、この際、置いておく。今考えるべきは、別のことだ。本名を名乗るべきか? いったん保留にするべきか? 情報は少なすぎる。思い出すのは旅行の時の経験、ボブの言葉。
渚は口を開いた。
「あー? 助けていただいたようで? ありがとうございます?」
渚は、あいまいな調子で言った。正解でありますようにと願いながら。
名前を名乗らないことを気にする様子もなく、黒髪の女は言った。
「不思議に思うか?」
「すみませんが…、はい―――」
本当に助かっているのかどうかも、分からないのだ。他人の善意に期待しすぎてはいけない。ゲームならまだしも、ここが現実なら、通じるであろう常識。それは、やはり通じるらしい。女は苦笑を浮かべた。
「まあ、どこの誰とも知らない相手に、ただで助けられて信用はできない…か?」
「おっしゃる通り、ですかね…?」
―――奴隷商人もいるかもしれないし…。
仲間のようなものが、他にも三人いたはずなのだ。渚は相変わらず、警戒しながら答えた。
そして、答えながら、じっ、と女を観察する。それは、殺されたプレイヤーと同じ程度には、生きたモノ(少なくとも人の形をしたモノ)に見えた。後ろでまとめた黒の髪、褐色の肌、アメリと同じ、少しとがった耳。しなやかそうな体を固める鎧は動きやすそうな薄手のもので、それには、なにか文字のようなモノが彫りこまれている。確かにそれは特徴的なのだが、―――何より目を引くものが、その足元にあった。
いますぐに、握れる位置に置かれた、切れ味のよさそうな銀色の剣。刃の形からすると、たぶん、眠り込む前に見た、血に濡れていたものと同じものだ。なぜか柄の部分に赤い、ガラスのような材質の、大きな石がはめ込まれている。そして、女の顔―――、
「観察は終わったか?」
不敵な笑みを浮かべ、ずばりと言う女―――その鳶色の目は、まったく笑っていない。渚が観察しているあいだ、女も、渚に観察の目を向けていた。如才ない対応をさらりとこなすあたり、こういうことに慣れているらしい。クレスヴィルの街が似合いそうな鋭い目で、じっと渚を見つめていた。
女の手が、剣の握りに置かれている。多分、いつでも渚の首に向けて、それを振るうことがだろう。それを視界の端にとらえながら、渚は答えた。
「―――はい。ありがとうございます」
にっこりと笑って(この顔で笑えているのかわからないが)、不敵な余裕を相手に見せる。こういう対応をすると、知らない洋菓子店に男一人で入っても、結構良い待遇をしてくれるものなのだ。もっとも、いま目の前にいる女が、店員と同じだとも思えないが―――。
いまにも切りかかってきそうな女も、不遜な笑みを浮かべて、それに応えた。しばらく互いに笑いあう。火花が散る。しかし、埒はあかない。渚が次をどう切り出すか、考えていた時だった。
「―――その様子なら、傷の方は心配ないようだな?」
女に言われて、渚は警戒しながらも、足元に目線を落とす。昨日と同じ、破れて、ぼろぼろの服を着た自分。しかし、痛みはない。その隙間から見える体に、傷は見あたらない。手の平を持ち上げ、昨日(多分、昨日だ)、その手に見た傷を探す。しかし、そこには華奢な、きれいな手があるだけだった。そういえば、頬の痛みも無くなっている。
「治しておいたが、具合が悪いところはないか?」
言われて一拍、間を置いて、パッと女を見る。その表情は相変わらずの不敵な笑みだ。しかし、目を離した一瞬、浮かんでいた表情を、渚は見逃さなかった。
渚は一瞬考え込み、慎重に言った。
「―――悪い人、では無いようですね?」
言ったとたん、女が険しい表情になる。
「傷は治してやったが、会ったばかりの相手にそこまでいっていいのか? 奴隷商人かも知れんぞ?」
その手元の剣のように、切りこむような声。しかし、その言葉に、渚は笑みを浮かべた。
「少なくとも、”そんな言葉を相手にかけられる人である”、ということは分かりました。今はそれで十分です」
―――どっち道、あなたに頼らないと、生きて帰れそうもないですからね。という言葉は、呑み込んでおく。ボブいはく、できることをやれ。できないことはするな。要は、身の程を知れ。それに、
「…心配していただいたようで、ありがとうございます」
一瞬、目を離した隙に、女の顔に浮かんだ心配の表情を、渚は見逃していなかった。このやり方は便利なもので、部下がウソをついたときに見逃したことがない。
女は、睨むように渚を見つめる。渚は、笑顔でそれに応える。
しばらく、二人は視線を交わし、
―――ふっ。
女が、鼻で笑った。その手が、剣の柄から離れた。
「―――まあ、良いだろう。その言葉、確かに聞いた」
「ありがとうございます」
場の緊張が、少しだけ、ゆるんだ。渚は気づかれないように、息をつく。
そんな渚に向かって、女は言った。
「―――それより、そろそろ火に当たったらどうだ? 見ていて、こちらが寒いのだが?」
「…ありがとうございます」
服の破れたところから、朝の冷たい空気が忍び込んでくる。そして、渚は最悪の目覚めを経験していたのだ。それこそ、汗をびっしょりとかくような目覚めだ。そして、この冷たい空気。
―――渚は寒さに震えていた。
―――渚は、女の反対の側に、しゃがむようにして座った。革の布(女のマントだった)は、使っていいと言われて、そのまま肩にかけている。
渚は手を火にかざして、暖を取った。その周りだけ、なぜか草が灰になっている即席の暖炉。どういう仕組みか分からないが、薪の代わりに女の剣についてるような石が、めらめらと火を放っている。火の勢いはキツいが、だからこそ、冷えた体にしっかりとその熱を届けてくれる。
火の温かさに人心地ついて、渚は改めて女に向き直る。ある程度の警戒は続けながら、聞いた。
「―――まず、お聞きしたいのですが、ここはどこでしょうか?」
本当の夢の続きでは、騎士たちに襲われ、追いかけられて、渚は、がむしゃらに走ったのだ。振られる剣、飛んでくる矢をかわしながら走ったため、右も左もわからなくなってしまった。気づいてみると自分の周りは巨木に囲まれ、今度はその陰から飛び出てくるいろいろなモノに襲われながら走った。だから、ここがどこなのかも分からない―――いや、見当はつくが。
詳しい部分を聞くために渚が聞くと、聞かれた女が怪訝な顔をした。
「…それは、本気で言っているのか?」
「はい?」
―――トルメンティアの森のどこかじゃないの?
渚は首を傾げた。そんな様子の渚に、女は考え込むような表情を浮かべた。
「…仲間が戻ってくるまで、聞くのを待つつもりだったが、一つ聞かせろ。お前は貴族か? それとも魔法使いか何かか?」
「え?」
「違うのか? そんな恰好で、こんなところにいるから、何者かとは思っていたのだが…?」
言われて、渚は自分を改めて見下ろした。ボロボロだが、相変わらずの仕立てのいいシャツに黒いスカート。対する女は鎧姿。そして、二人のいる場所は、巨木のそびえる森のなか。どう見ても、渚の方が場違いだった。
とっさに、渚は説明を考える。顔には苦笑を張り付けた。
「いえ、私は全然、そういうモノじゃありません。ちょっと、仲間とはぐれてしまったようで…」
「仲間がいるのか?」
「はい。クレスヴィルで合流するつもりだったんです」
渚は、本当にいるかも分からない二人の部下について―――仲間ということにして―――話した。巨漢の剣士と、やたら軽装の金髪の女。それと合流するつもりだったのだと。
―――せいぜい、自分は一人じゃないんですよと、牽制になればいいなぁ、程度の話。
しかし、それを聞いて、女は眉間に険しいシワを寄せた。そして、その口を開く。
「”晴嵐”のアメリと、”城崩し”のロックフォールのことか?」
「はい?」
なんだか、全然聞いたことのない単語が飛び出してきた。いや、一部は聞いたことがあるが、他は何だ?
「えーっと? それはいったい―――?」
「おーーーい!!!」
さらに渚が聞き出そうとしたとき、それは元気のいい呼び声に遮られた。また、渚の表情がピシリとこわばった。
声の方に顔を向けると、渚がかけているのと同じようなマントを付けた人物が三人、朝日の中をこちらに向かって歩いてくるのが見えた。一人がこちらに手を振って、その後ろで、二人が何かをぶら下げた棒を担いでいる―――月明かりの中で見た、他の三人だろう。
渚が起きているのに気づいたのか、手を振っていた一人がこちらに向かって駆けてくる。なぜだか足音がしないし、妙に足が速い。
足音のしないその一人は、渚の前まで走り寄って立ち止まる。それはアメリに似た姿の金髪の女だった。その手に黒髪の女の剣と同じような、緑の石の付いた弓を持っている。金髪を朝日にきらめかせる女は、その青い瞳で、興味深そうに渚を見下ろした。
「おー、目が覚めたみたいだねぇ?」
不躾なくらい、じろじろと渚を見つめてくる女。渚は苦笑に近い愛想笑いを浮かべた。
「あ、―――はい、傷も治していただいたようで、ありがとうございます」
「ふーん?」
とりあえずはお礼から。そんな渚の言葉を、金髪の女は聞き流した。その耳は黒髪の女と同じで、少しとがっている。金髪の女は、そのまま黒髪の女に向き直った。
「オリガ、この子、何なの?」
「わからん。まだ名前も聞いていない―――それより、どうだった、イリサ?」
「うーん、やっぱり騒がしくなってるね」
「そうか」
黒髪の女、オリガは一つうなずくと、後ろからやってくる二人に目を向けた。二人は近くまで来ると、その担いで運んできたモノを下ろした。
「―――ぅわぁ…」
それを見て、渚は絶句した。
その棒には、例のオオカミっぽいものがくくりつけられていた。それは昨日、森を走りまわっていた時、襲ってきたモノの一つだった。あの時は荒い息でよだれをたらし、目をらんらんと輝かせていたそれ。しかし、いま、棒にくくりつけられているそれは、ただダラッと舌をたらしているだけだ。
オリガはそれに一瞥をくれただけで、二人に話しかけた。
「グラス、ロッシ、それは何だ?」
「見ての通り、ローフォレだ。そして、今日の朝飯」
話しかけられた男の一人、金髪の方が言った。
「朝食? ローフォレをか?」
オリガは、眉をひそめて聞いた。気持ち悪い、緑色のそれを足の先でつつきながら、金髪の男は不機嫌な表情でうなずいた。
「ああ、次から次へと出てきやがる。群れを一つツブしたが、まだ遠吠えが聞こえる。正直、どれだけの数がいるのか、わからねえ。一匹くらい食って憂さ晴らしでもしないと、やってられねぇよ」
「ロッシ、もう一度言っておくが、ローフォレの肉は固いぞ?」
深草色の髪の男が、説教くさく金髪の男、ロッシに向かって言った。言われたロッシは渋い顔だ。
「何度、知ってるって答えりゃあいいんだよ。憂さ晴らしだって言ってんだろうが!」
「だがな、妙なものを食うと後が…」
「テメーは、説教くさいんだよ!!」
ギャーギャーと言いあいを始めるロッシとグラス。金髪の女、イリスが呆れたというように言った。
「二人とも、仲いいよねぇ」
「まあ、結果は分かったな」
オリガはそんな二人を涼しい顔で見てうなずくと、渚に向き直った。
「さて…、こちらは全員そろった」
再び、その言葉に、鋭さが含まれる。その言葉に、ロッシとグラスが黙り込む。好奇心に満ちた目で、イリサがじっと渚を見つめている。
「お前が、誰なのか、そろそろ説明してもらおうか?」
じっと、オリガの鋭い目が、渚を射抜くように睨みつける。温まってきた体、その背筋を、また冷たいものが伝っていく。
―――さて、どう説明したものか?
渚は、ぐるりと頭をめぐらせた。四対の瞳、じっと観察の目を向けられながら、渚は巨木の森の中、一人、じっと考え込んだ。