1 月明かりの泉にて
「―――どうする、かなぁ?」
泉を覗き込んだ姿勢のまま、渚は、呆然とつぶやいた。
「―――やっぱり、無理か…」
五度目のログアウト指示を頭の中で念じ終え、渚はため息をついた。
『フリー』の中でなら、ログアウトと念じると、何かが思考に引っ掛かるような感覚とともに、視覚画面に操作パネルが現れるようになっていた。今回も、それをやろうとしたのだが、案の定、無理だった。むこうの、デスクに座っている、いつもの感覚もなくなっている。その代わりにあるのは、地面に着いた膝、体を支える腕、そして痛み。
尋常ではない。
「―――どうする、かなぁ?」
泉に映った、黒い髪の女の子が、形のいい唇を動かす。
自分が自分の口を動かす。それは当たり前のことだ。
自分は口を動かした。だから泉の女の子も口が動く。つまり、ここに映っている女の子、これが、
「―――私、なんだよなぁ?」
それでも、確信なんてできるわけがないし、信じたくない。それなのに、小さな口からこぼれた鈴のような声は、自分の言った言葉を美しい音色にして渚の耳に届ける。おそらく、可憐な美少女なんてモノがいれば、こんな声を出すのだろう。しかし、その声は、自分の喉から出ているのだ。
「―――はぁ…」
ひとつ、ため息をついて、渚は、再び身を横たえた。このまま泥のように眠り込んでしまいたかった。このまま寝て、そして覚めればいつも通りの朝というのが理想的だ。しかし、絶対にそうなってはくれないことを、体の傷がチクリ、ズキリと教えてくれる。こんな悪夢を見たのなら、今頃とっくに目が覚めているだろう。
ここ―――《フリー》にログインしてから、大した時間は経っていない。その大したことのない時間のあいだ、いろいろなことがあった。突然、感覚が起こり、妙な連中に襲われ、森に逃げ込んで、さらにいろいろなものに襲われ…。
考えてみれば、ちょっと、あり過ぎた気がする。女になっているなんてことは、いくつもある大問題の中の一つでしかない。もう考えるのも面倒、まるで頭の中に、鉛の塊でも押し込まれたような気分だった。
停電とクレーマーと契約書の紛失。この三つが、同時に舞い込んできたこと―――それが渚の、今まで経験した難問のワースト1だった。暗くなったオフィスで怒り狂った顧客の相手をしながら、あすの契約の心配をする。その程度、いかに可愛いものだったか―――渚は痛みとともに実感していた。
まわりが、いや、世界が難題だらけだった。しかも、どの問題も、答えは愚か、考えも浮かばないものばかり。その難問たちは浮かんでは消え、消えては浮かび、形のよくなった頭の中で、ぐるぐるグルグル、終わりの見えない社交ダンスを踊っている。
「どうする?」
渚は、もう一度つぶやいた。今度はしっかりと、声が自分の耳に届く。
そして、頭のなかに、クマとゴリラを混ぜたような顔が浮かぶ。
「―――ボブか…」
渚は言った。
そう、ボブだ。こういうときこそ、ボブのことを考えるべきだ。
渚は手をこめかみに指の先を当て、プリン旅行からの友人の言葉を必死に思い出した。
ニューヨークのボブ、丸太のような腕で美味しいプリンを作るボブ。そして、海兵隊あがりのボブ。酒が入るたびにその時代のことを、やたら説教口調で語りだすやつだった。無人島サバイバルについて、何か言っていた。渚はこめかみを、くりくりと指の先で揉みほぐした。
―――順番を守れ。
ジョッキを片手に、ボブは熱っぽく語った。
―――ナギ(渚のあだ名)、いいか? 無人島に放り込まれたら、まずできることを確認するんだ。何ができて、何ができないか考えるんだ。優先順位を決めろ。それを守れ。できないことやれば死ぬし、できることをやらなくても死ぬんだ。
そう言って、ボブはジョッキをテーブルに叩きつける。そして、途中だったプリンの作り方について盛り上がるのだ。カラメルの在り方について語っていると、唐突にサバイバルの話が飛び出してくる。
―――生き残りたけりゃあ、死ぬな。死なないようにすることを考えろ。出来ることを考えろ。自分が一番、他はそれ以下だ。仲間を踏み越えろ。前を向け。そして、そして…。
そしてテーブルに突っ伏して、泣き始めるボブ。慰める奥さん。
死んでいった仲間の顔が浮かぶのだとか。戦場の死体というのは見るも無残で…。
―――私も死にそうだよ…、ボブ。
思い出したけれど、余計にブルーな気分になった。旅の方法は知っていても、生き残る方法なんて、わざわざ考えたこともない。渚はしばらく、死体のようにぐったりと横たわっていた。
―――とにかく生き残ること、自分のことを把握しろ、か。
しばらくの死体ごっこの後、渚はそれを実行することにした。うろ覚えの酔っ払いのセリフがどこまで役に立つかわからないが、何かやっていないと、本当の死体になってしまう。
渚は、とりあえず、痛む首を持ち上げ、目線を下げた。
―――結構、大きいな。
不毛な感想が頭をよぎった。
胸の盛り上がりが、手の込んだ刺繍入りのシャツの胸元を、しっかりと押し上げている。それを一瞬まじまじと見つめた。他人のものならいいが、それが乗っているのは自分の胸だ。
気を取り直すように首を振り、すこしだけ、痛む足をあげてみる。月の明かりに照らされて、傷だらけで、あちこちから血の出た細い足が、やぶれたスカートの隙間から見えた。おまけに仕立てのいい、パーティーにでも履いていくような革靴を吐いている。痛くなるわけだ。
渚は小さく息をついて足を下ろすと、こんどは、右手を顔の前に掲げた。
長袖の先から、小さな白い手がのぞいていた。パソコンずくめの職場環境のせいか、キーボードをいつも手元に置いている身だからか、よくわかる。評価基準が有るのかは知らないが、渚から見る限り、少なくとも、それは女の子の手だった。力仕事とは無縁の、弱々しく、やわらかそうな手。そんなものが手袋もなしに、草の生い茂る森の中を駆けたのだ。渚の手はあちらこちらすりむけ、切れ、血がにじんでいた。足よりも近くにあるせいか、自分のものなのに、見ていて余計に痛々しい。
渚は、パタリと腕を投げ出した。重苦しい胸の内、それを吐き出すような、大きなため息をついて、目を閉じる。改めて確認してみたが、頭にまたぐるぐるとした思考が浮かんでくるだけだった。
むしろ何も見たくない。
しかし、瞼を閉じた闇の中に、泉を覗いた時に見た、あの女の子の―――自分の顔が浮かんでくる。
腰までありそうな長い、艶やか髪。透けるような白い肌、形のいい唇。そして何より目を引くのは、人間では絶対にあり得ない赤色をした目。青く輝く泉を通して見ても、なお紅い瞳。
どこをどう見ても、元の自分の面影はない。
しばらく目を閉じて、横たわっていると、後悔が役目を果たしにきた。
「プリンに釣られたのは、失敗だったかなぁ―――?」
鈴のような声、ポツリとつぶやいた言葉が、渚の耳に届いた。
「リーダー、アバター、作ってもらっていいですか?」
そんなことを渚が言われたのは、『フリー』のセキュリティーの管理担当を任された直後だった。自分のデスクでモニターを見ていた渚が呼ばれたほうを見ると、部下の一人、川上 アメリ(かわかみ あめり)が満面の笑みを浮かべて立っていた。いまどき、珍しくもなくなったハーフで、片親がフランス人。そして、六条と同じくらいの『フリマ』(フリーのマニアの略)だ。
渚は怪訝な表情を浮かべ、そんな部下を見た。
「なにがだい、アメリ君?」
アメリは、にこにこと笑いながら言った。
「いや、だってやるんですよね? 『フリー』を…?」
「うん仕事だしね―――やるよ?」
渚は、あいまいにうなずいて答えた。ちょうど人事部からのメールを見たばかりだった。相変わらずそっけない、そのくせ、仰々しく書かれた辞令だった。
《セキュリティー・ディパートメント、システム・マネジメント・セクション所属のセカンドチームは、本日00:00より、『フリー・ワールド・オンライン』のチーフ・マネージャーに任命する》
やたらとカタカナが多い辞令は渚のいる会社、『ドット・セック』の伝統で、要するに現場担当部門の、システム管理課、第二係―――つまり渚とその部下に、『フリー』用にセッティングされたセキュリティーソフトの運営を任せるという内容だった。別に『フリー』をやれとは書かれていないが、それをやらなければいけないということを、内定が降りた時に聞いていた。
渚のいる会社は、オーダーメイドのセキュリティーソフトを売り物にしている。もちろんアフターケアもばっちりのシロモノで、少々値は張るが、評判は上々。そして、その評判のアフターケアが渚たちの仕事だった。その仕事場は、親しみという名の皮肉をもって呼ばれている。
―――『地獄』
それが現場担当部門の通り名だった。開発部門でなければ現場担当部門だった。『天国』でなければ『地獄』なのだ。
『地獄』―――その労働法も真っ青な勤務実態(四八時間の連続勤務が基本)のせいで、高めの給料にもかかわらず、やめる人間が後を絶たない。いまどきインターネットでの24時間対応ぐらいできなければ、会社はやっていけない。評判を守るためにも、それは必要だ。だから働け。どんなに眠くても、どんなに帰りたくても、今にも死にそうであっても。憔悴しきった顔で、社長はいつもスピーチする。
だから、そんな環境にいたたまれず、かなり薄給の開発部門―――通称、『天国』―――への異動を願う人間が後を絶たない。それが聞き届けられないために辞めていく。人が足りず、そしてさらに仕事がキツくなるという悪循環。
『フリー』をやるのも、その悪循環の一つだった。
なんでも、注文に応じて『フリー』用に組んだプログラムの設定上、アバターを持っている必要があるらしい。しかもある程度強くないといけない。だからやれ。毎日、山のように来る書類と会議、顧客対応、プログラムの書き換えの間にやれ―――ヒドい、とそれを聞いた時は思った。
しかし、今、目を輝かせている部下に水を差す必要もないだろう。渚は話の流れに乗ることにして、少し小首をかしげる。
「アバターを造らないと、プレーできないんじゃなかったかい?」
そらとぼけるような渚、そんな『地獄』の渚の部下、アメリは楽しそうに笑った。
「そうじゃありません。実は、リーダーに、折り入って頼みがあるんです」
本当に楽しそうに、アメリはニッコリと笑みを浮かべる。あまりに綺麗すぎて、悪巧みを疑わせる笑みだった。
「―――なんだい?」
警戒しながら、うかがうように渚は聞いた。アメリは、はい、と気持ちよく答え、
「私の造ったアバターでやってください」
非常にいい笑顔で、彼女は言った。
もちろん、渚は断ろうとした―――なんで自分が、面倒臭い。アメリは頼む―――そこを何とか。そんな押し問答が、一分ほど続いた。少なくとも、急月堂のプリンが出てくるまでは続いたのだった。
「―――でも、急月堂のやつ、おいしいんだよなあ…」
もう一回食べたい。泉のほとりで、渚は煩悩混じりに言った。
あの時は、アメリの提案は、簡単だった。
―――どうせ、ただのアバターなんですから。
どうせやるのだ。ただのアバターなのだから、自分のわがままを、少しだけ聞いてほしい。それがアメリの頼みだった。
なんでも、二つ、気に入ったキャラクター案があったそうだ。一つは自分でやるために、自分が今使っているもの。そしてもう一つは鑑賞用としてのものだ。しかし、まだ、そのアバターは作っていない。自分用のもあるし、作るのならちゃんと成長してほしい。しかし作りたい。この妙なジレンマを抱えていたアメリは、渚が『フリー』の担当になると聞いて、白羽の矢を立てた。報酬は急月堂のプリンを週に二つ。渚はその条件を飲み、レベル上げにいそしむことを約束した。なんだか変な笑みを浮かべていた気がするが、所詮はゲームのことなので、大して気にならなかった。
そして、アメリは念願叶ってこの体を、アバターを作った。聞いた話では、貴重な、本当に貴重な休日を捧げて作ったそうだ。その休日明け、『地獄』に幽鬼のような顔で現れ、オフィスをおびえさせたアメリを叱りつけたのは記憶に新しい。部下にも評判の長い説教だ。
正直なところ、あの時は自分の仕事のシステム管理、あとは部下との話題造りのついで―――その位のつもりでいた。なにせキャラクターの視覚の範囲の光景しか目には見えないのだ。見えない顔のことなんぞ、気にしたところでどうしようもない。どうせゲームのキャラクターだ。急月堂プリンも二つだけだし、仕事もある。渚は会社のデスクで、それこそ、ついでにやっていた。
アメリと六条が、選んだ種族がどう、とか、能力補正がこう、とか、言っていた気がする。
しかし、あまりにもその情報量が多く、『天国』の痩せこけた研究員との打ち合わせがあったり、肝心の約束があったり、近所に新しい洋菓子店ができたりしたため、ほとんど頭に入らなかった。
かろうじて頭に残っている情報を、絞り出すように思い出す。確か、二人はこのキャラクターの希少性について講釈していたのだ。その横で自分はうなずきながら、『天国』からの資料を睨んでいて…、
―――たしか、なんとか族? 少なくとも人間じゃなかったな…。
多分、人間―――ここでいう人族―――ではない。それは間違いない。
実際、この体になってから、どうにも具合がおかしい。
まだ半日も経っていないはずなのにひどい倦怠感がある。体も疲れているが、それ以上に頭が疲れている感じがする。まるでプログラムの面倒な図式を、五日連続徹夜でひねくりまわしたときのような疲労感。それに、頭の上に浮かぶ月。
―――ひょっとすると、まだ頭が混乱しているだけかもしれない。しかし、最初、あれに襲われたのが夕方だったはずだ。遠くに沈む赤い夕日を眺めていて、ターゲットと遭遇して…。
渚はそこまで考え、頭の上を見た。相も変わらず大きな月が、光の雨を降らせている―――森に入るまで見なかった月が…。
ここでの時間単位はわからない。しかし、少なくとも夕暮れ時から月が頭の上に来るまでのあいだ、そんな長いあいだ、全力で走り回っていた―――それも道をなき道、山の中、そこらじゅうから出てくるクマのような、オオカミのような、爬虫類のようなモノたちに追われながら―――。
自分の運動不足に関して、渚は確信があった。そんな人間が、こんな真似をできるはずがないし、できる人間がいるとも思えない。認めたくはないが、体の痛みは、この体が自分のものだと主張する。そんなことができる体なのだと。
じゃあ、そんな真似ができる自分は、いったい、何に―――? そこまで考えた時だった。イヤな考えが頭に浮かぶ。
渚は、再びこめかみをくりくりと揉んだ。体の情報を必死になって思い出す。ステータス画面に出てきていたあれだ。こめかみを揉みほぐし、頭の中、記憶の中から、この体の情報を必死に洗い出す。そして、顔から血の気が引いていく。
―――何も出て来ない?
渚は唖然とした。
「ウソ―――?」
アメリから、自分はレベルアップを任された。だから暇な時に、適当に敵と戦った。それこそ息子のゲームに付き合おうとする、一昔前の、お父さんのような感じでやっていたのだ。というか、会社でほとんどの時間を過ごしているので、休憩時間ぐらいしかやれなかった。必要でもあったが、それ以上に日常業務に追われていた。
六条とアメリ誘われて、一緒にパーティーを組んでやったこともあった。ある程度は、強くしたはずだ。しかし、レベル以外に関心を抱いた覚えがない。今着ている服もアメリが持ってきた装備品だし、その装備の類はすべて二人に任せていた。『フリー』に関しての知識は、せいぜいポーションにMP用とLP用があることが分かるくらいだ。つまり―――。
「―――あの二人に、聞くしかないのか?」
こちらに連れてきた二人の部下―――六条とアメリ。今はいない二人の部下。
さっさと街の方に行ってしまった二人。たぶん、この体のことについて説明できる唯一の二人。そして、一人は妙な感じがすると言っていた。もし、その妙な感じが自分のものと同じなら、多分、ここ、『フリー』の中のどこかにいるだろう。
―――申し訳ないけどね。
できれば、二人には居てほしい。もちろん悪いとは思う。正直、上司失格だと思う。だが、この訳のわからない場所で、たった一人。しかも、その自分が何になってしまったのかもわからない。それは、いくらなんでも勘弁してほしい。だから願ってしまう。二人もいますようにと、ちょっとバチあたりかな、と思いながら。
―――だからだろうか?
パキリ。
そんな音が、聞こえた。かすかな音、そして静寂。
渚の心臓が跳ね上がる。その顔から汗が噴き出す。気のせいだと自分に言い聞かせる。
誰もいない場所で、しかし、確かに聞こえた音。
渚は、恐る恐る、音のあった方に顔を向けた。できれば気のせいでありますようにと、願いながら。
そして、見た。
―――願いは叶わない、か。
渚はぼんやりと、目の前の光景を見た。
マントを付けた人影が四人、気配を殺すように立っていた。
フードを目深にかぶっていて、それが誰なのかは分からない。しかし、危険だというのは、彼らの手元を見てわかった。
鈍い光を放つ刃が月明かりに照らされて、ギラギラと輝いている。そしてギラギラとしているくせに、べっとりと黒い、油のようなものが付いている。それが何なのかは、漂ってくる臭いが教えてくれている。たぶん、自分が流しているものと、同じものだ。
渚が見ていることに気付いたのか、一人がさっと前に出た。
「―――っ!!」
渚は、とっさに立ちあがり、
「…えっ?」
目の前に、闇が広がるのを見た。
この感覚は知っていた。五日連続の徹夜のあとに襲ってきたやつと同じものだ。視界がねじくれるような感覚。何も感じなくなった手足。
自分は、本当に疲れ切っていたらしい。
膝をつき、体が倒れこむのがわかった。もう何も感じない。もう何もできない。
渚はフードの人物が近づいてくるのを感じながら、真っ暗な闇の中に沈んでいった。