8 この世界について ナギサの正体
「リーダー、大丈夫ですか?!」
ベッドのわきで、大男が、泣きじゃくっていた。
ナギサはベッドのわきで、枕にもたれたまま、苦笑を浮かべた。
あれから、一つ時ほどあとナギサは気がついた。大牙亭の、自分の部屋で、ナギサは横になっていた。黒いヴァン・ラニに襲われた後、フィーデルに部屋まで運ばれたそうだ。細かい処理は、オリガやイリサがやってくれているらしい。
「はい、ナギサちゃん、お薬よ?」
さっき、洗面器に水をもらってきたフィーデルが、頭にぬれた布を乗せた後、コルク栓で閉められた、赤い液体の入った小瓶を差し出した。それを見たとたん、ナギサが顔をしかめた。
「―――それ、ポーションですか?」
「そうよ。毒は受けてないでしょうけど、飲んどいた方がいいわ。ちなみにわたしの特製品だから、効くわよぉ?」
フィーデルのすごみのきいた声に、ロックフォールが顔をしかめていた。飲んだことがあるらしい。
フィーデルは笑顔でそれをナギサの手に押し付けると、にこにこ、有無を言わせない笑顔で、じっとナギサの顔を見つめた。ナギサは、ごくりと生唾を飲んだ。恐るおそる聞いた。
「…味のほうは?」
「そりゃあ、特製品だものね。味のほうは、推して知るべし」
ニコニコ。
フィーデルはただそこに立っている。飲むまで見届けるつもりらしい。フィーデルと、赤い液体。その両方を見比べる。キュポンと、フィーデルが勝手にそのコルク栓を抜いた。
「さ、一気にいっちゃってちょうだい。口の中に残ると、ヒドイことになるわよ?」
すでに異臭がビンの口から立ち昇っていた。
フィーデルは、帰りそうもない。早く帰ってくれないと困るのだ。
覚悟を決め、グイッと、一息にあおる。
「っ!!」
ナギサはむせた。そのまま、せきを連発する。フィーデルがコップに入った水を差しだしたので、それを奪い取るように受け取り、飲み干す。それでも、しばらくの間、口をつぐんで、ベッドの上で身悶えた。プルプルと体の震えが止まらない。
「―――なんなんでずか、ごれ…?」
しばらくして、ナギサは赤い瞳に涙を浮かべ、フィーデルを、うらみがましい目で見上げた。
舌が痛い。辛さを通り越すと、それは痛みに変わる。それを、たったいま、体験した。
フィーデルはニコニコ笑い続けていた。
「効くでしょう? それだけ元気が出れば、十分ね」
そこまで、ナギサに笑いかけていたフィーデルが、一転、ロックフォールに鋭い目を向けた。
「…ちょっと、そこの剣士さん。あんなふうに飛びついてきたら、危ないじゃないのよ。私じゃなかったら、ナギサちゃん、つぶれてたわよ?」
険しい声でとがめられ、大男が、しゅん、と、小さくなる。
ナギサはベッドわきの水差しからコップにさらに水をつぎ、また飲みほした。
顔に苦笑を浮かべていた。
「あんまり、ゲホ、怒らないであげてください。彼が、いないとたぶん、今頃死んでたでしょうから…。ゴホ」
のどがヒリヒリと痛む。ナギサはもう一杯水を飲んだ。
フィーデルがナギサを見た。
「でもねぇ、こんなガタイの良い子が、飛びついてきたら本当に危ないわよ。少しはちゃんとしなさい」
ふん。
そんなふうに形の良い鼻を鳴らす。そして、くるりとナギサに顔を向けた。
「じゃあ、ナギサちゃん。私、行くわね。店、開けたまんまなのよ」
ナギサが御礼を言う間もなく、フィーデルはローブをひるがえし、部屋から去っていった。
ナギサとロックフォールは取り残されるようにそれを見送った。
ドアがバタンとしまったあと、ナギサはため息をついた。
「―――助かった」
ぐったりと、そのままベッドに横になる。
ロックフォールが、恐る恐る言った。
「あの、すみません。俺、まだ体のこと、よくわかってなくって…」
「いいよ…」
ナギサは手を振って、その謝罪をやめさせる。
顔だけあげて、ロックフォールを見た。
「どっちにしたって、あそこで助けてくれないと、私は、今頃死んでたよ。オリガさんや、イリサさんもだ。本当に助かった」
頭だけ、ぺこりと下げた。
「ありがとう」
下手をすると。お荷物になりかねない自分を、心配してくれたのだ。それだけでも、十分ありがたい。
うっ、と、ロックフォールが涙ぐむ。それを見て、ナギサは上半身を起こした。
「ほら、泣かない泣かない。やっと話ができる状況なんだ。聞きたいことが、いろいろあるんだよ」
そういって、ポンポンと、小さい手を伸ばし、ロックフォールの肩をたたく。大男は、はい、はいといいながらも、しばらくのあいだ、ぐすぐすと泣いていた。
もう一つあったコップに水をつぎ、飲ませる。
「―――落ち着いたかい?」
しばらくして、涙をぬぐったロックフォールに、ナギサは語りかけた。
大男はコクリとうなずいた。
「よし、じゃあね…」
ナギサはちらりと、ドアのほうに目を向けた。
「―――まず、ちょっと、ドアを開けて、それから締めてもらってきて、いいかな?」
「へ?」
ロックフォールがキョトンとした表情を浮かべたが、素直に従った。
ドアを閉め、戻ってきたロックフォールは、ベッド横まで引かれた椅子に座った。
「…どうだった?」
「いや、女将さんが洗濯物干しに行きましたけど、それだけですよ?」
「そうか。あいさつは、した?」
「ええ、一応は…」
「なら、いいや。じゃあ、始めよう」
ウワサの二人の話を立ち聞きしに来たらしいミシェルは追い払われた。しかし、油断はできない。ナギサは、本格的に体を起こした。身を乗り出して、布団の中に入った足の上で手を組んだ。
ロックフォールは首を傾げていたが、おとなしくそれに従った。こちらも、のそりと身を乗り出す。
「―――まず、一番初めに聞きたいのは、アメリ君のことだ。アメリ君とは、会ったかい?」
ささやくような声で、ナギサは聞いた。
ロックフォールが首を傾げた。
「あれ? 連絡つかなかったんですか?」
「いや、つけようとはしたんだ。手紙を書いた。ところが、返事が返ってこない」
ロックフォールは腕を組むと、顎を撫でた。何の事だかわからない。そんな顔だった。
聞けば、ハンターたちはそこそこ手紙のやり取りはしているらしい。
「…君は、一体、どこにいるんだい? 彼女も、君と同じで、壁のほうに行ってるって聞いてるんだけど」
「壁って、どの壁ですか?」
「え? いや、あれのことだよ?」
そう言って、ナギサは窓の向こうにあるものを指差した。さっきの騒動で、まだざわついていたが、壁は、いつものようにそこにある。
あー。
納得したように、ロックフォールが言った。そして首を振る。
「壁は、二種類あるんですよ。なんか、機密事項ですか? になってるんで、しゃべっちゃいけないみたいなんですけど…。仲間内の話としちゃ、有名みたいです」
「二種類?」
ナギサはキョトンと首を傾げた。
ロックフォールがうなずく。
「リーダーも、外で魔物とハンターが戦ってるところ、見たことないんじゃないですか?」
「―――ああ、そういえば、そうだね」
まともに、人とハンターが戦っているところを見たのは、今日が初めてだった。森からの帰りは、魔物に襲われなかった。街についてからは、森には近づかなかった。たしかに、見たことがない。
「それは、”地下房”のおかげなんですよ。これが、クレスヴィルの、もう一つの壁です」
「もう一つの?」
ロックフォールはうなずいた。手で、丸の形を作る。
「これがトルメンティアの森だとしますよね? ここから見て、奥のほうは、二本の川の合流地点です。海まで通じてるそうです。川底が深いんで、魔物もこちら側にしか来れない。で、それを防ぐために、昔の王様が掘らせたのが最初、だったかな?」
「ずいぶん、ちゃんと調べてきたんだね」
ナギサは感心していた。前に別れるときになんでもいいから情報を集めてくるよう言っておいたとはいえ、ロックフォールの性格では、いろいろ穴がありかねなかったのだ。ここまで聞く限り、かなり充実している。
ロックフォールは胸を張った。
「それだけじゃありませんよ。地下房は、森を半分、囲むようにできてます。そこから根っこを張るみたいに、森の少しだけ内側に伸びてるんです。森に向かって、一番から六番の区画に分かれてます。そこが、俺たちがいる場所になります」
「…で、アメリ君がいるのが、そこの窓から見える方、か。なるほど、会社の一階と二階ほども違うんだね」
ナギサは納得した。しかし、そうなると、だ。
「―――じゃあ、今日の、あれは、なんだったんだい?」
ヴァン・ラニとかいう、巨大なクモっぽいもの。あれは、地下を通りぬけてきた。そこに壁があるならば、これないはずの場所を通って。
ロックフォールが顔を曇らせた。
「もともと、地下房の壁を、ヴァン・ラニが、破ることはあるんですよ。クレスヴィルの、常備クエストです。たぶん、地下房の防御ラインが破られたんでしょう」
「常備クエスト?」
「ええ…、なにか?」
「…今のって、ゲームだった時の話かい? それとも、今の話?」
ロックフォールは、一瞬、面くらったように目を見開いたが、少し考え、答えた。
「…ゲームの時もそうでしたし、今も、そうみたいですね。ハンターたちに聞いてみたら、いつもこの仕事だけはあるって言ってましたから」
ふむ。
ナギサは、それだけ言ってうつむいた。何も話さず、じっと黙りこんでいる。
ロックフォールが心配そうにその顔を覗き込んだ。
「…ひょっとして、まだどこか痛むんですか?」
「…え? ああ、いや、なんでもないよ。ちょっと、思いついたことがあってね。それより、ヴァン・ラニだったかな、あれ、やっぱり強いのかい?」
毛むくじゃらの、気持ち悪いクモ。思い出すと、鳥肌が立った。オリガたちはあまり手を焼いていた風には見えなかったが、トルメンティアの森は危険地帯らしい。
ロックフォールはうなずいた。
「ええ、毛に毒を持ってるんで触れませんし、あんなふうに、相手を囲むように動きます。少人数だと簡単にやられちゃいます。レベルの低いハンターだったら、まず助かりませんね」
「地下房の中にいたハンターたちは…?」
「たぶん、大丈夫でしょう。回復術を使える奴らがけっこういるんで、今のところ、死者は出てません…」
少し、ロックフォールの言葉が途切れた。何かをこらえるように、ぐっと歯を食いしばる。その表情は、つらそうだった。
ナギサは、それをじっと見つめていた。三日間。そのあいだに、虫も殺せない、気の弱い男から、魔物をバッタバッタ倒す男への変身。何があったか分からない。備えはさせた。しかし、実際にぶつかって、それで、いつも通りというわけにもいかないだろう。
だが、面構えというのだろうか、ロックフォールの顔に、六条の表情が混ざり込んだ、奇妙な面構えたしかに、辛そうだ。しかし、だいぶマシにもなった気がする。ナギサは小さく息をついた。
「―――ロッシさんや、グラスさんからは、何か聞けたかい?」
「…ええ、話し方がなってないから、もっと自然体で直したらどうか、って、言われちゃいました」
そう言って恥ずかしそうに頭を掻く。その顔に笑みが戻る。二人を雇ったのは、正解だったらしい。
少しだけ、肩の力が抜けた。
笑える気力があるのなら、たぶん、大丈夫だろう。何かあるようなら、これから、見ていけばいい話だ。
すっと、ナギサがロックフォールの顔を見据えた。
「―――じゃあ、私のアバターに関することも、普通に話してくれるかな?」
ナギサが言った途端、ロックフォールの表情に影がさした。
恐るおそる、口を開く。
「…それ、アメリから、聞いてもらえませんかね?」
渋るような声。
ナギサは、にこりと笑った。
「それでもいいよ。でも、なんで魔法が使えないのか、教えてもらっていいかい?」
ロックフォールが怪訝な表情になった。眉間にしわが寄る。
「…そういや、そうですよね。リーダー、前はもっとすごかったじゃないですか。今日のはなんです?」
「あれが、私が、いま使える精一杯なんだよ。とても、フィーデルさんのようにはいかない。それどころか、私は魔石を見たこともなかったんだから―――」
装備は、常に二人に任せていた。自分はほとんど会社の仕事にかかりきりで、そんなモノを考えているヒマはなかった。そして、それがなくても、魔法は十分、使えたのだ。あの時は、コマンドの入力方式だったが、それでもつかえた。だから使えるはずなのだ。ロックフォールを見て、それは確信に変わっていた。
「いや、使えるはずなんだよ。君だって、前みたいに戦えてるじゃないか」
「そりゃ、そうですがね。だって、俺、魔法使ってませんでしたから。もともと、これ一本ですよ?」
ロックフォールが背中の件の柄をたたく。本当は下ろしていないと、あちこち当たって大変なのだが、さっきから背中に背負ったままだ。飛びかかってきたことといい、やっぱりまだ新しい体に慣れていないらしい。
ナギサはさっきから使える使えると言い張っている。このあいだから、ずっと言い張っていた。
ロックフォールが首を傾げた。
「なにが根拠なんです?」
「…君が、あんなふうに剣を振りまわせるのは、なんでだい?」
「そりゃあ、この体のおかげじゃないですか?」
そう言って、自分の腕をたたく。丸太のように太い腕だ。
ナギサはうなずいた。
「キャラクター補正があるんだよね? 具体的にはどんなの?」
「ええっと…、キャラクターの見た目によって、上がりやすいパラメータが違ってきます。俺みたいなのだったら、力とかが上がりやすい攻撃タイプです。後は、この前、アメリの奴が説明したとおりです。あと、種族補正ですね」
「…それが、一番聞きたいんだけどね」
ぽつりとナギサが言うと、ロックフォールが首を振った。
「それは、アメリの奴からお願いします。ですが、俺が覚えてる限りだと、リーダーのは魔力がやたら高いはずです。体力もそこそこあるはずですし、ああ、でもその体じゃ、あんまり望めないかな?」
ナギサは自分の体を見下ろした。
細い足、細い腕、柔らかい体。たしかに言われればその通りなのだ。
だが、別の要素がある。
「でも、あっちでは、ちゃんとキャラクターが成長したよね?」
「ええ、パラメーターがあったから…」
ぴっと、ナギサがロックフォールを指差した。
「そこなんだよ。私たちと、こっちの人たちとの違いは…」
「はい…?」
「会社のプレゼン風にいくよ? 向こうをAの世界こっちをBの世界とするんだ」
ロックフォールが首をひねる。ナギサが指を振りふりさせながら言った。
「こっち、B世界の人たちは、強さってモノの指標が、ウワサとか、自分の目で見たものでしかないんだ。普通のことだ。だからフィーデルさんは怖がられてるし、君はウワサが立ってる。でも、それだけだ。実際のところは、分からない。それはそうだよ。私たちの、Aの世界にいたころ、そんなモノ見えたかい?」
「いやー、そんなの見えたら、怖いでしょうね。たぶん…」
「きっと、怖かったろうね。たぶん、成長するたびにそんなのが実際に見えるんだから、ちゃんとした人ならともかく、変な人だったらやたらケンカばっかりしてたはずだ。それと同じだよ。こっち、Bの世界は、魔法とか、魔物のことがある以外は、普通の世界だ」
種族はともかく、ここにいる人たちは、少なくとも、自分たちの常識の通じる人々だった。女将さんのように、ちょっとウワサの二人の話を立ち聞きする程度には、人情味もある。
「これなら、なんで『フリー』の運営が、あんなに次から次へとアップデートをやれたのかも説明がつく。水沢チーフは、企業秘密とか言われたらしいけど…」
「…もともと、普通の世界を、ゲームにしてた、ってことですか?」
ナギサは、うなずいた。
「それなら、五年前から強い人々が現れたのも、君たちのことも、説明がつくと思うんだ。どういう仕組みだか知らないけど、こっちの、B側に、ゲームのキャラクターとして、A側とB側をつなぐ、何かを作れるんだ。それがアバター、私たちの、いまの体の正体だよ。つまり、私たちにとってのゲームのキャラクターは、B側の人にとってみたら、やたら強いだけで、普通の人と同じなわけだ。普通に生活してる分には、そんなことを疑う必要もないんだから、見つかるはずがない。A側だとゲームだと思ってるんだから、変な人、くらいには思われるかもしれないがね。だが、ゲームでやっていたことは、すべて現実だよ。だからこそだ」
ピッと、またナギサの指がロックフォールを指す。
「私は、普通に魔法が使えないとおかしいんだ。ところが、こっちで教わったやり方だと、上手くいかない。なにか、欠けてる部分があるはずだ。その、なにかを、こっちの人に聞くわけにいかない。でも、君なら、答えられるはずだ」
ベッドに横になったまま、じっとロックフォールを見据える。
ロックフォールは身じろぎもしなかった。
「私は、いったい、何者なんだい?」
どうしても、聞いておく必要があった。
ロックフォールは、何かアメリに口止めされているらしいが、悪いが今はそれどころじゃない。自分の身も守れない。他人はそのあと。しかし、その他人も気にかかる。気にかけたいならば、自分のことを何とかするしかない。オリガに守られ、ロックフォールに守られ、痛感した。
だから、聞く。
じっと決意のこもった眼に見つめられ、ロックフォールが視線をさまよわせた。
「…さっき、アメリに聞いてほしいって、言ったと思いますけど?」
「どうしても、必要なんだ。頼む、答えてくれ」
じっと、ロックフォールを見据えながら言った。
ロックフォールはもごもごと口を動かしていた。しばらく花瓶を見たり、ベッドの端を見たりと繰り返していたが、やがて、じっとナギサの赤い目を見返した。
「―――あいつには、黙っててくれます?」
「私が、偶然、それを知った、ということにしておくよ」
ナギサに、そう言われても、それでもしばらく、ロックフォールは躊躇していた。また視線が部屋を歩き始める。ナギサは、何も言わず、ただ、じっと、待っていた。
やがて、ロックフォールが小さくため息をついた。チラリと、あたりに視線を走らせる。ドアの向こうに気配はない。
それを確認し、ロックフォールは、ナギサに顔を寄せる。そして、ささやくように、言った。
「―――リーダーの種族は、”魔物”です」
どこかで、鳥が羽ばたく音が聞こえた。




