0 プロローグ
はじめまして、月見と申します。いつもこちらのサイトでは、たくさんの方々の書かれた小説を読ませていただいておりますこと、また、ファンタジーというものに興味を抱かせていただいたこと、御礼申し上げます。
そして、このたびは私の書いた《Free・World・Story》に、興味を持っていただき、ありがとうございます。
初めてのファンタジーということで、拙い部分も多いと思います。何かご意見、ご感想等、ございましたら、こちらもお聞かせ願えると幸いです。
お目汚しが長くなりましたが、私の送ります、
《Free・World・Story》。
お楽しみいただければ幸いです。
ハア、ハア!
夜の森。まとわりつくような霧が立ち込める森を、ひとつの影が走っていた。膝ほどの丈の草を踏みしめ、月明かりをさえぎる巨木のあいだを、影は右に、左に、何かに追われるように、それを振り切るように走っていく。
(どうしてこんなことに…!!)
影は、ただ一つだけを思っていた。それだけしか思えない。そうとしか思えない。
「…ッ!」
枝のようなものが足に当たり、皮膚がすりむけるのがわかる。絶対にあり得ない感覚なのに。それが何度も襲ってくる。
(…どうして、こんなことになった!!)
ひたすら走り続けていた影に、突然、光が届いた。森が途切れ、霧が薄れ、光が影を照らし出す。影は思わず上を見上げた。丸い、大きな月が、笑うようにこちらを見下ろしている。あたりを見回すと、まるで広場のような場所に影は一人で立っていた。すこし先にあるキラキラと光る泉を中心に、草だけで覆われた広場だ。影は一人、そこに立ちつくしていた。崩れ落ちるように膝をつく
。
ハア、ハア。
荒い息の音が、森の夜気に溶けていく。光に照らされた影は、しばらくのあいだ、息を整えるため、地面に手足をつき、這いつくばっていた。
「…くっ!」
影は這いずるように、泉の方向へと向かっていく。草で切った足がひりつき、すりむいた膝が痛む。射かけられた矢がかすめた頬も、痛むのだ。
(あり得ない…)
影は泉までたどり着いた。震える腕で体を支え、体を起こして泉の上に身を乗り出す。こんこんと湧き出す水のおかげか、泉は底の方まで透き通っているのが見えた。それは、まるでガラスのように、
「…そんなバカな!!」
傷付くはずのない顔。血のにじむ、傷の付いたアバターの顔を、泉の水が映し出していた。
影の名前を、忠守 渚(ただもり なぎさ)と言った。性別、男。プログラム関係の学部で大学を卒業、コンピューター・セキュリティーの中堅会社に就職していた。現在の役職はチームリーダー、いわゆる現代的な係長だ。チームに対する、もろもろの厄介事への対処がその仕事。だから、別にこんな報告があっても、何とも思わなかった。
「不正改造のデータ?」
七月の朝、会社のデスクでプリンを食べていると、渚の部下はそう告げた。
「はい…」
気の乗らない様子で、部下の六条 武(ろくじょう たけし)は答える。ひどくげんなりした様子で、ぶつくさと、文句でもいうような調子での報告だった。
「よくある話だね。もっとも、『フリー』に関しては、私が今までに聞いたことの無いタイプだけど」
もともとシステムセキュリティーを任されている側としては、さして珍しくもない報告。それを渚はいつものように、普通に受け止めていた。そんな渚に、部下は不満げな表情を浮かべる。
「いえ、むしろ、今まで何もなかった方が不思議です」
狭いフロアにスパコンが置かれているせいでオゾン臭い(鼻にツーンとくる機械の臭いだ)社内。渚のデスクで向かい側に立ち、苦々しそうに答える六条に、渚は怪訝な表情を浮かべた。
「どうして?」
「リーダーは、こういうゲーム、特に、この《フリー・ワールド・オンライン》について、よく理解していらっしゃらないからそう言えるんですよ…。これは素晴らしいものです!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ六条。渚は、ぽかんとした表情でそれを見上げ、
「そう?」
首をかしげて、渚は言った。
《フリー・ワールド・オンライン》。通称、『フリー』は、オンラインゲームだ。もちろん、それだけではない。『フリー』は、人類初の”ヴァーチャル・リアリティ・疑似体感ゲーム”だ。
VRMMORPG、正式名称は『仮想現実・多人数参加型・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム』―――それが、《フリー・ワールド・オンライン》。その誕生秘話はネット上で蔓延し、混ざり合い、昇華され、今ではまるで神話、伝説の色をまとっている。
そのコントローラーの見た目は、特殊部隊のヘルメットのようなヘッドギアだ。仕組みは単純で、視覚の一切を覆うゴーグル。聴覚を支配するヘッドホン。カバー部分での脳波の測定での操作。これらによって、それを被ったものに一種の、限りなく現実に近い幻覚を見せ、その幻覚の中で、自分の造ったアバターを操作する。もちろん他の嗅覚、触角、味覚などの再現は無理だが、圧倒的臨場感を得ることが可能だ。
もちろん、その疑似現実では、あまり感覚に頼ることができない。所詮は幻覚。ログインという名でその疑似空間の中に入っても、疑似体験での感覚は感じられないし、むこうでモノを食べても、現実で腹はすく。
いまいちのシロモノ。しかし、圧倒的な臨場感。ただそれだけのために、何年間もの実験、失敗と、牛歩のような進歩を繰り返し、ようやく販売段階までこぎつけたという、いはく付きのオモチャ。新しくもたらされたそのオモチャを、世界のゲームメーカーは持て余していた。
そんな持て余しモノの画期的な活用法の始まりは、とある名も知られていない会社の社員が放った一言だったと伝説では語られる。
「自由なゲームなんて、面白いんじゃないか?」
その時、その会社、今は『ワールド・クリエイト』として知られている会社の会議は最新のハードを、この持て余し物をどう生かすかを議題にしていた。そのとんでもない議題に対する、一つの回答だった。
ヘッドギアを介して聴覚と視覚に作用。脳波を測定することで操作する新感覚のハード。
しかしソフトが決まらない。決められない。
当たり前だった。そも、ゲームが生まれてから百年以上たっているのだ。有りとあらゆるアイディアが生まれ、創られ、そして、作った人々とともに消えていった。そんな時代、こんな弱小ゲームメーカーに何ができるのだ。精々、元請けの連中に買い叩かれるだけの会社だ。そんな会社の会議での一言だった。
《フリー・ワールド・オンライン》。その醍醐味は、その名に高らかと謳うように、『自由』だ。そして、『フリー』の成功は、その画期的なシステム、『願えば叶うシステム』、通称『ねがかわ』によるところが大きい。
ゲーム内での自由というのは、いわばゲームクリエイターによって与えられた自由だ。それはクリエイターの裁量の範囲内に限られ、それを超えれば、もう先はない。オンラインでアップデートができるとしても、とんでもない手間と費用、時間がかかる。それがゲーム内での限界。その限界を取り払ってしまったのが、この『ねがかわ』だ。
現実で出来ることを、限りなく現実的にに再現できるこのシステムは、ありとあらゆることを可能にした。普通の生活、冒険、戦闘という基本はもちろん、料理、商売、に建築。果ては国づくりから、戦争、ついでに、水っぽいこと(R-18課金ソフト)まで―――。
特にこのシステムの開発秘話は、ネット上で格好のネタだ。弱小企業がなぜこんなものを作れ、また、現在も次々と(週に一度のペースで)アップデートを繰り返せるのか。それをめぐっては、よくある会社の成功譚からオカルト怪談まで、ありとあらゆる説が喧伝されている。尾ヒレ背ビレから、腹ビレまでついた現実離れの内容。渚としては、どれも面白半分のシロモノだろうと思っている。
まあ、とにかくその会社は成功し、『フリー』は今では世界中に何億人ものユーザーを抱える一大オンラインになったのだ。もっとも、所詮はゲームだし、たまたま、自分の会社がそこと契約しただけだし、そのシステム保全が仕事だし、ねえ―――?
「やっぱりわかってません!」
六条は絶叫のようなものを上げ、バンッ!!、と勢いよく渚のデスクに両手を叩きつけた。
「もう、六条君、危ないじゃないか。プリンがこぼれるところだったよ?」
赤子をかばうようにして、食べていたプリンを押し抱くように避難させた渚は注意した。六条はため息をついた。
「リーダー…。リーダーは、なぜ、そんなにプリンが大事なんです?」
「そりゃあ、好物だからだよ。市販品でも、メーカーによっても味が違ってね。今日のは――――」
「ならばこそです!」
六条は再度、バンッ!!、と大きな音を立てた。
「ある人々にとって、もとい、私にとってのプリン!! それこそが、この《フリー・ワールド・オンライン》なのです!!」
それが絶対なる正義であるかのように、六条は高らかに叫ぶ。
「君にとってのプリン?」
渚は一瞬目を丸くし、言った。
「そうです。プリンです!!」
六条は叫ぶ。
「そんなに大切なのかい?」
「当たり前です!!」
「一日一回食べないと気が済まないように?」
「むしろ何個でも食べたくなります!!」
「どんな手を使っても?」
「絶対に!! 私の命に代えてもです!!」
六条の絶叫は、フロア中にとどろいた。あたりではあきれる者、苦笑する者、無視を決め込む者の顔がちらほらと。それを聞いた渚は少しだけ、首をかしげ、しばし、
「―――それは、一大事だね」
納得した。
「ご理解いただけましたか?」
「うん…、納得した。それは、とんでもないことだ。うん、確かに、今までこんなことがなかった方が珍しいよねえ。手段なんか選ばないはずだもの」
うんうんと、大きくうなずく渚。冷房の効いているはずのフロアの空気が、生温かいものに変わっていく。そんなことも気にせずに、渚はその重要性をしっかりと頭に刻んでゆく。
渚は、プリンマニアだった。別に本人(26歳。独身)が名乗っているわけではない。ただ純粋な周りの評価だ。だからこそ、それだけ渚の行動が際立っているのだ。
まずは出張。出向いた先の菓子店を、得意のインターネットにモノを言わせて調べ上げ、プリンを買い込んで帰ってくる。全国のプリンの名店は残らず調べつくし、知りつくしているし、会社の近所にある洋菓子店では、渚のオススメがされたプリンは売上が爆発的に上がる。美味いと評判のプリンを求め、世界を一周して回った武勇伝は、今でも現地で語り草になっている。もちろん自作もするし、そのプリンは会社の女性社員へのおやつとして、人気ナンバーワンを勝ち取っている。部下のアメリも好物だ。造ってくれば、争奪戦が起きる。
「じゃあ、なんで、今までなかったのかなぁ? 私だったら、プリンのために、これぐらいのことは平気でやると思うけど?」
渚はまた首をかしげた。そして実際にいろいろと、プリンのために(部下に買わせ、後輩を引きずりまわし、上司を脅迫し、etc.)やってきた。それなのに、今まで渚は、今回のような件(もちろんデータの不正改造のことである)なんてことは聞いたことがなかった。
六条は嘆かわしげにため息をついた。
「まだ理解しておられないようですね?」
「うーん。そうかなぁ?」
煮え切らない渚。そんな渚に指を突き付け、六条は言った。
「リーダー、これは、いわば、プリン・ア・ラモードなのですよ!!」
六条は、渚に宣告した。
みるみる渚の表情はこわばっていき、
「なんてことだ!!」
渚は心の底から叫んだ。
プリンはプリンであるべきだ。それが渚の絶対の教義だった。
プリンの周りを生クリームや果物で汚す。それは神聖への冒涜だった。プリンを愛するのは良い。しかし、味を、見た目をごまかし、本来のプリンを、プリンでないものへと変えてしまう。それは、聖域での殺生。教会での黒ミサ。天動説に対する地動説。絶対にあってはならないことだ。やってはならないことなのだ。
「これが今まで行われなかった理由が、もうお分かりになられたでしょう?」
「ああ…。理解した。すべて理解したよ。六条君、これは、即座に対処しなければならない。絶対にだ!!」
「そうです。これは、それを愛するが故に、やってはならないことです!! ―――しかし、それをやってしまったものがいる」
「一大事だ」
二人は互いの目を見、そして、うなずく。
「リーダー!」
「六条君!」
互いを理解し、がっちりと固い握手をかわす上司と部下。二人にとって、ここは理想的な職場へと昇華している。
フロアの空気は、そのぬるさから、いよいよ生臭いものへと発酵、もしくは腐敗する。そんな中、ただ二人だけが豆電球のごとき輝きを放っている。スパコンのむなしい唸り声がオフィスの中で響いていた。渚はそんなオフィスの様子に、内心で、ため息をついていた。
「―――なんで、こんなことに…」
泉の傍らで、渚は体を投げ出していた。呼吸の乱れは整ったが、疲労で体が動かない。アバターの体に、こんなことが、ある筈がないのに―――。
渚は緩慢な動作で右手を上げ、顔の前にかざした。月明かりに照らされたその手は、ここまで走ってくる間に鋭い葉や枯れ枝、あるいは転んだ衝撃のせいで、すりむけ、切れ、そして、血がにじんでいた。
「これは、アバターの体のはずだ。それなのに―――」
本来、ただのデータ、数字の羅列でしかない筈の体。肉も、神経も、骨も、血も、何も無い。ただ外側だけの張り子の体。そうであるはずの体は、酸素を求めて息を荒くし、心臓を脈打たせ、今も、疲労で動くことすらままならない。そして、なによりも、
「痛い―――」
まだ小さかった頃、祖父母の家の裏山に、半袖半ズボンのままで入ったことがあった。歩くだけで自然の野草は、人間の軟な体を傷つける。それと全く同じことが、この《フリー・ワールド》の世界。コンピューターの中の、ただの数字で構成されているべき筈の世界で起きている。
絶対に起きてはいけないことが起きている。
「むぅ―――」
渚は疲弊した体に鞭打って体を起こした。まだ頭が混乱しているのがわかる。それがわかるくらいには、冷静になったらしい。あたりを見回しても、誰かが追ってくる様子は見られない。渚は息を吐いた。
「どういうことかは、わからないけれど、この痛みは現実だよね」
渚は誰にともなく言った。ヘッドギア―――あれは、痛みを感じるようには作れなかったはずだ。危険が大きすぎるし、今までそんな話は聞いたことがない。そして何より、
宙を舞う腕。
噴き出す赤いしぶき。
呆けた顔の死体。
「―――っ!」
猛烈な吐き気。これも、現実の体が気持ち悪がっているようには思えない。この体が吐き気を覚えている。
「―――どうする?」
込みあがってくる吐き気を何とか抑えた渚は、鈴の音のような声を聞いた。
ハッ!、と思わず首を回し、周囲をうかがう。あたりには誰もいない。
今頃になって夜の中で生きる生き物たちの、鳥の、カエルの、動物たちの声が、耳に届いているのがわかり始める。
そして、気付いた。
渚は、恐る恐る泉に近づいた。今度は傷ではない、自分の顔を見るために、泉の上に身をかがめた。
「―――どうする?」
どうやら、まだ、冷静になり切れていなかったらしい。渚は自分の声で言った。
泉の水底から、女の子の顔が、困ったような表情を浮かべ、こちらを、じっと見返していた。




