その2
コリンは粗末な酒樽に腰を下ろしていた。
がっしりとした小さな樽はもともと椅子代わりに使わせようという意図があり、その埃っぽく物がひしめく店の片隅で四つ程並べられている。
そのうちの一つはテーブル代わりであり、その上に置かれた欠けたカップからは湯気が立ち上っていた。
室内は数多の商品が雑多におかれていて人によっては眉を顰めるような猥雑さだ。古臭いカビのような香りと、そしてお茶の香り。一見しただけで逃げ出す客も多かろうが、コリンはこの場で茶を飲むことは嫌いではなかった。
元来から数多の品物に囲まれることは大好きだ。
それが古臭く無骨なものであったり美しい美術品であれば尚のこと、コリンは自分の中に奇妙に沸き立つ興奮に陶酔してしまう程だ。
そしてそれ等が汚れていればいただけ喜びがじんわりと胸を満たしてくれる。
自らの手で丁寧に綺麗に磨き上げた時に自分を包み込むものは、ある種の恍惚だった。
――コリン様は人間などより古道具さえあれば幸せなのですよね。
呆れたようなリアンの言葉が耳によみがえり、ふとコリンは自らの右腕とも言える存在がいない現状に物悲しさを覚えた。
コリンの婚約というものに対しあからさまに嫌悪を示し、反省させる為に買い付けに出したが、結局は自分が寂しさを覚えるのだから馬鹿なことをしたものだ。
――自分が居ない間、決して一人で外出なさったりなさらないように。
最後の最後まで口うるさく言っていた言葉を、こうして破っているのは子供のような拗ねるような感情がさせるのだろう。
「まったく、お嬢ちゃんの注文はいつも厄介だよ」
嘆息交じりの店主は注文書に細かい文字を書き連ね、間違いが無いかと入念に確かめた。コリンの注文は特殊なものが多く、誤まって発注などかけようものなら痛手を食うのは自分だ。
店主の言葉に突然現実に引戻され、コリンはすっと一旦瞳を伏せた。
「ごめんなさい」
コリンは言いながら未だ熱い茶が冷めるのを待った。
湯気と共に立ち上るのは、不思議な新緑すら思わせる香り。
「ほっ、ジジイの愚痴さ。あんたのは厄介だが実入りはいい。余計なことは考えんでくれよ?」
「テサおじさんのところは商品がちゃんとしているから、他に浮気するつもりはないわ」
コリンは淡々と言いながらカップをじっと見つめ、やがて両手でかかげてそっと息を吹きかけた。
「ははっ、お嬢ちゃんいい殺し文句じゃ」
店主と軽口を叩きあいながらコリンはやっと茶を一口すすった。
口腔にひろがるなんとも粉っぽい味わいのお茶は、久しぶりの大外れだ。コリンはほんのわずかに眉間に皺を寄せはしたものの、息を止めるようにしてゆっくりとそれを飲み込んでいく。
変わった商品ばかりを扱っている雑貨店は、毎日違った茶を提供してくれる面白い店ではあったが、生憎とハズレも引きやすい。コリンは薬缶の脇に置かれている茶の葉の入った缶のラベルをじっと見つめた。
――絶対に買わない。
そして商会では一切扱わない。
固く魂に刻みこんだ。
「じゃあちょっと待ってておくれ。奥に在庫がある分だけ持ってくるよ」
「お願いします」
応えてしばらくすると、店の唯一の出入り口である扉が開かれた。カロンっという軽快な音が店内に響く。
入ってきたのはさえない感じの青年だった。
シャツにスラックス。上にくたびれた白衣を着用している様子は一見医者かとも思えるが、どうにも頼りないその様子では医者であったとしても客などつかないだろう。
コリンが患者であった場合は、絶対に掛かりたいとは思えない相手だ。
あげく、手に持っているものは大きな装丁の本――実に重そうなその本に書かれているのは、錬金術の調べ――まったく理解ができない。
今時錬金術師か、とコリンはおもったがふと気づいた。
相手とは面識があった。以前、やはりこの店で。
「お茶、おのみになりますか?」
コリンはその時と同じように声を掛けた。まったく勧めて美味しいものではないが、ただ礼儀と思って口にした。この店は店内がごちゃごちゃとしすぎていて、店主がいないと目的のものを見つけるのは困難なのだ。
その店主は今は奥に引っ込んでしまっている。ならば茶の一つも飲んで待つしかないだろう。
しかし、青年は何故か蒼くなったり白くなったりしながらコリンのもとまで近づき、
「こ、こんにちは!」
と、高く奇妙に外れた音で口にした。
「こんにちは」
「素晴らしい御天気ですね!」
「曇っておりますが?」
コリンが正直に言うと、相手はぴたりと動作を止めてしまった。
――悪いことを言ったであろうかとコリンは逡巡したが、出てしまったことはもう取り返しは付かない。
とりあえず相手の為に、この決して美味しくは無いお茶をいれてやりながら、どうぞお座りになったら? と勧めてみる。
「あ、はい。すみません。どうもすみません!」
……動揺しまくっている相手にコリンはなんだか嫌な気分を味わった。まるで自分がとても恐ろしいバケモノにでもなってしまったかのように錯覚する。
「あのっ、コリンさんっ」
突然相手の口から名前が出て、コリンは驚愕に軽く目を見開いた。
「ぼ、ぼ、ぼくと! 付き合って下さい」
真っ白だったり真っ青だったりした顔が、突如として真っ赤になった。
言葉にしてから動揺を更に覚えたのか、ぎゅっと持っていた本を抱き込む。その相手を静かに観察しながら、コリンはただ冷たい眼差しを向けた。
「あ、あの……コリンさん?」
「私の名前はどちらで?」
「え、あ……っ」
「あなたはどなたでしょうか?」
「あ……すみませんでした!」
青年は滑稽な玩具のようにびょんっと勢いをつけて頭を下げると、そのまま踵を返して脱兎の如く逃げ出した。
「……」
「何かあったかね?」
のんびりと現れた店主が、二杯目のまずい茶を飲んでいたコリンに首をかしげてといかければ、コリンは眉間にほんの少しだけ皺を作りながら、
「わかりません」
と応えた。
それからふと思い立って店主に尋ねてみる。
「いつだったか、こちらでご一緒した方――背の高い若い方がいらしておりました。今日は錬金術の本を持って白衣というお姿で」
「ああ、それはアレだ。フレリックじゃないかな。錬金術師の弟子さ」
さも愉快そうに言う店主を見ながら、コリンは小首をかしげた。
錬金術師――なんと胡散臭く楽しげな響きだろう。
ただし、お金の香りはしない。
――ヴィスバイヤ商会に用でもあったのかもしれない。
錬金術などにあまり興味は無いが、仕事としてであれば多少話しを聞いてみるのも面白かったかもしれない。まあ、まったくの眉唾物であろうとも。
そもそも、自分のことを知っていたというのは胡散臭さの塊だ。
ヴィスバイヤ商会の長女、コリン・クローバイエは病弱で滅多なことでは人前に出ないといわれている。
家人にも見はなれているとこっそりと流布されているが、それを流したのは勿論商会側だった。
長女は二度誘拐され、いらい臥せっている。
その噂の後ろでうろうろとしていることはほんの一握りの者しか知らないだろう。
ではどこであの青年はコリンを知ることができたのか――うっかりと自分が口にしてしまっただろうか?
無いとは言えない。
このかび臭い店の中、探検しながら独り言でも呟いてしまったかもしれない。いや、前回お茶を勧めた時に名乗っただろうか?
あまり記憶が定かではないが。おそらくきっとその辺り。
コリンは一人でそう納得し、粉っぽい茶を全て飲み干した。
少なくとも、このマズイ茶を二杯も飲むはめになった事実と共に二度とその名前は忘れることはないだろう。
フレリック――
おどおどとした青年はコリンのまわりにはいないタイプだ。
身長が高く、ひょろりとしている。目に見えて顔色が変わる様子は決して商人には向かない。どんなフリな状況でも冷静に判断して自らの利に持っていくのが商人であり、またコリンの身内だ。
「このお茶、分けて頂けますか」
「おや、気に入ったかね」
「はい」
――今度嫌いな相手にでも飲まそう。
そしてあの男には確実に、たとえどんな状況で顔を合わせたとしても、絶対に、飲ませる。
コリンは今度こそ固く魂に誓った。