その4
こんな筈では無かった。
そんな思いが強烈にコリンの身の内にあふれた。
そしてその理由は、はっきりとしていた。
完全敵地。
今までどんな時でもリアンがいてくれたのだから、そんなことは成り得なかった。リアンさえ背後にいてくれれば、何も恐ろしいことなどなかった。問題など何一つなかったのだ。
今、この場にリアンがいてくれていたのであれば。
以前のように、なぜ自分は数多のことをリアンに相談することもなく、こんな場に一人でいるのだろうか。
なぜ、リアンはいないのか。
リアンはどうして――
自分からおいてきたというのに、理不尽にもそんなことを思ってしまう。
「お黙りなさい。アル。フレリックから手を放して――コリンさんは着替えをしていただけ。私はそれを手伝っていただけ。あんた達はその部屋にノックも無く入ってきただけよっ」
びしりとリファリアは言うや、二人の男を無理やり放り出した。
そして、もうこの短時間で何度も聞いた言葉を向けてくる。
「ごめんなさいね、本当に」
ええ、本当に。
半ば冷ややかにそんなことを思っていたが、その四半刻もたてばコリンはすっかりと気分を良くしていた。
何だか判らない消えない滲み汚れにみちた足元だとか、鼻を刺激する異臭だとかすら気にならない。
わけのわからないどろんとした物体が視界に入ろうとも気にしないっ。
「こっちの水は井戸水。こちらの水は川の水、それで、こちらの水は山からとってきてもらった井戸水」
とんとんとんっと小さなグラスに入れられた水は、一見すると何の変哲もない水だ。
「でもよく見ると色が違うの。細かいゴミとか、含有物とかの問題ね。飲んでみる?」
「ゴミが入っているのですか?」
「コリンさんの家で使われている水はどこから?」
「地下水です。敷地内の井戸から」
「それを何の処理もしていないのであれば、こちらの水ね。
で、それを一度熱処理して薄くろ過したものがこちら――味、というか、なんとなく違うでしょう?」
ゴミが入っていると言われては少しばかり躊躇する。だが、実際に使っている水だと言われれば、そろりそろりと手が伸びた。
「とても、飲みやすい」
「そう。単純なことだけれど、こうして味が変わるということは――この水はひとくくりにできない何らかの変化をきちんとしているということ。ま、そのままでも飲めるから別にいいのだけどね」
リファリアは肩をすくめ、次に泥水を取り出した。
「で、この濁った水は飲める?」
「――それは、無理です」
「そう。飲めないわ。私としては、この水をどうにか飲める段階にもっていきたいのよ。
この水は放置しておけば上澄みは綺麗に澄んでくる。布で作られたフィルターにかければそこそこ綺麗になるわ。気になるようなら一度湯にしてしまえば、それなりに飲めるの。ただ匂いとか、気にしなければね」
ゴミはとれても匂いがとれない。
匂いがとれないということは、その水は透明といえども何かが残っているのだろうか。
「でもね、あなたが飲めないといったこの水を、飲み水としている人もいるのよ」
考え込んだところで続けられた言葉に、コリンは絶句した。
「この国にも下級階級がいっぱいいて、更にもっと貧しい者達は井戸の水なんて使えない。川の泥水のようなものを飲むの――病気が彼らをむしばんでも、飲めるのはこれ。彼らはろくにろ過なんてしないし、一旦湯にするなんてこともしない」
「……」
「これをろ過するのに低コストで大量にできる方法をね、考えているのよ」
その次にリファリアは油の浮いた水と、どろりと黒い液体を含む水を取り出す。どことなく漂っている匂いの根源はこれだろう。ただし、これ以前にも色々とありそうだが。
「そして最終目標は、これをどうにかすること」
「これは?」
「タールが浮いた海水――海が汚れれば生態系が崩れてしまう。海が死ぬと人も死ぬ。だから汚れた海を綺麗にしたいのだけど――これがなかなか難敵。油と水の分離って、ビーカーだとなんとかできるのだけどねぇ。海を相手にするとどうにも」
リファリアは自分の手が汚れるのもいとわずに汚れた水に触れてとうとうと説明する。
「油と水は分離するから、それを分けることはできるけれど……」
「先ほどのろ過では?」
「上澄みだけならね。でも、全然ダメ。綿を使ったろ過だとちっとも意味がないの。ま、これは最終目標だから、いまはとりあえず色々な汚れが入り混じった泥水をどうにかできないかなっていう段階。綿を使ったろ過装置より低コストでね」
汚れるから着替えなさいと言われたコリンは、とうとう最後まで汚れることは無かった。
「さ、楽しめたかしら?」
水についての講義を終えると、リファリアはおかれた数種類の水と道具を指し示して小首をかしげた。
「これが私の人生。
フレリックは私を錬金術師というけれど、本当はただの知的好奇心を満たしたいだけの利己的な小娘よ。ま、年齢的には大年増だけど」
茶化すような物言い。
それに対し、真摯な眼差しを返す。
「たいへん興味深いものでした」
楽しむとは、何かが違う気がする。今の彼女の講義を楽しんだなどという言葉で返しては、おそらくいけないのだ。
そんなコリンの様子にリファリアは満足げに微笑し、汚れた手を――おそらくかつて彼女のドレスであった布切れでぬぐった。
口元を引き締めるようにして笑う女性の頬にはこすったような汚れがついている。汚れた指先で無意識に頬に触れたのだろう。
それを見上げて、コリンは複雑な気持ちに陥った。
――商談としてここに訪れた。
おそらく、彼女の研究はお金にもなる。だが、それを前にして自分がかけるべき言葉が見当たらない。本来であれば、相手にとって不足なく、そしてもちろん十分こちらに利のある美人麗句を並べ立てて契約を持ち掛けるべきだ。だが、言葉は喉の奥でとどまってしまう。
「どうかした?」
――研究に力を貸しましょう。
人が必要であれば能力の高いものをそろえて。
学術的な知識人の助言が欲しいのであればそのように。
「いいえ。本当に、たいへん興味深い時間を過ごさせて頂きました。このように時間を割いていただき、まことにありがとうございます」
丁寧に一礼すると、リファリアはクツクツと笑い「いやね、コリンさんが私に会いたいなんて言うものだから、いったいどんな話かと思ったのだけれど。こういうのは歓迎よ。こうして人に話すと自分の頭の中で整理もつくしね。ホント、フレリックを相手にしていると、ただ褒めてくるだけであの子ったらちっとも役に立たないのよね」
肩をすくめて言う言葉に、コリンは内心で「フレリックならばさもありなん」と思いはしても、もちろんおくびにもださない。
ただ、この話し方で理解した。
――これがリファリア・セイフェリング。
セイフェリングの次女にして、錬金術師。そして、フレリックの愛する女性。
「隣が騒がしいわね。どうする? アルファレスと顔を合わせるのがイヤであればこのままテラス側から出られるわよ? 私としては隣でゆっくりと一緒にお茶をしていって欲しいけれど。アルってば、隣に陣取ってどくつもりはなさそうだし」
「わたくしが突然来たことを怒っていらっしゃるのでしょうか」
隣に陣取ってという言葉に自然とそう口にしたが、リファリアは更に肩を揺らして笑った。
「違うわよ。怒っているとしたら、私やフレリックにね。
今日あなたが来ることを教えなかったものだから、怒るとしたらそこでしょ」
そんなものだろうか?
眉間に皺をよせたコリンに、リファリアは片眼を閉じてウィンクした。
「ホント、よければお茶を飲んで行って。
このまま帰してしまうには、あなたは惜しいわ」
隣の部屋には未だにアルファレスの気配がある。
共に居たいかと言われれば、まったくそんな気持ちは無いが――リファリアの顔を見上げ、一旦視線をそらして……
コリンは逡巡のままに部屋の片隅、棚に下、まるで無造作にバケツに入れられているものに視線を止めた。
ぱちりと瞬きを繰り返せば、すぅっと血の気が下がる思いで瞳孔が開かれる。
「――金」
「ん? ああ、それ?」
小さなつぶやきに、リファリアはひらひらと手を振った。
「それは肥料よ。リンとか色々を混ぜ合わせたものでね、ま、確かに金に似ているかもしれないわね。でもその発想は無かったわ。言われてみればちょっと砂金に似ているかも。でも、匂いはまったくないけれど鶏糞とかも原料になっている立派な肥料よ?」
……食べなくて良かった。
コリンは見てはならないものを発見した衝撃にふらりと立ちくらみを覚えつつ、味見をしようとしてリアンに止められたことを思い出して安堵した。
***
「どうして、コリン・クローバイエがうちにいるんだ?」
アルファレスが笑っている。
口元を引き結ぶように笑うと、実にリファリアとアルファレスはよく似ている。その目がちっとも笑っていないところも。
フレリックは視線を斜め右方向へと泳がせながら「な、なんででしょうねぇ」などと濁してみたが、相手はそれで流してはくれなかった。
「来る予定になっていたのに、ぼくにわざと言わなかったね?」
「――あの、えっと」
「フレリック?」
「すみませんでしたっ」
フレリックは全面降伏した。
「コリンさんが師匠に会いたいとおっしゃって。でも、あのっ、一応アルファレス様に日曜日の予定は聞きましたよ? お出かけになられるとおっしゃっていたから、だからここは何も言わないほうがいいかなーって」
「コリンが来るとわかっていたら、出かけたりしないっ」
言い切ってから――アルファレスは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
そうだろうか?
コリンがこの屋敷を訪れるとわかっていたら、出掛けたりしなかったであろうか?
もう二度と会わないと……決めたのに?
アルファレスはふいにふんっと横を向き、おかれている寝椅子にどさりと体を預けるとそれきり無言になってしまった。フレリックがおそるおそる話しかけてもむっつりと唇を引き結んだまま。それでいて部屋を出ていく様子もなく、ただ寝椅子の背もたれに体を預け、片腕すら預けてむっつりと黙る。
そうして無意味な時間が流れていたのだが、突然隣の部屋からリファリアの声がフレリックを呼んだ。
「フレリックっ、リックっ。ちょっと来てっ」
「はいっ」
「コリンさんがっ」
続く言葉に、アルファレスの体が跳ねてフレリックより先に続き部屋の扉を開いた。