その3
にんまりと口元が緩みそうなのを堪えたのはセイフェリング家の長女――クロレア・セイフェリングだった。
手元にはまとまった現金がある。ヘボ探偵のボートル・ヘミングから貰った偽砂金は思ったより低い値で買いたたかれてしまったが、それでも当面の生活費には十分であるし、なんなら今のかび臭いアパートを出て違う部屋だって借りられるだろう。
今のような惨めな生活を続ける気持は毛頭ない。身なりさえ整えてしまえば、腐ってもクロレア・セイフェリング――愚弟アルファレスからたたき出されはしたものの、なんとかコネを使って次の結婚相手という名の寄生先を探してみせる。
アルファレスに頭など下げるつもりはまったくない。姉を少しも敬うことのないアルファレスなど、家ごと没落してしまえ。
――そこが自分の生家であるという現実を忘れ、クロレアは脳内でその没落を夢見て笑いを堪えた。
偽砂金を売りつける時、アルファレスの名刺を使ってやったのはそういう嫌がらせの一つだ。おそらくあの弟はうまくたちまわるのであろうけれど、少しくらい困ればいい。
クスリと微笑を落としたところで、突然失礼と声をかけられた。
「失礼、クロレア様ではありませんか?」
穏やかな低い声音に、クロレアはぴたりと足を止めた。
馬車ではなく、徒歩であるいているところに声をかけられるなどはじめてのことだ。しかも、ここは下町に近い。
自分を知る者など居ない筈だというのに、いったい誰が?
胡乱な眼差しを向けると、覚えのない男が二人そこに立つ。
どちらもずいぶんと美丈夫で、身なりもしっかりとした生地で仕立てられている。だが、かもす空気に不安を覚えて、クロレアはじりっと背後に足を引いた。
咄嗟に逃げ出そうとした手首をぱしりととられ、にこりと笑みを浮かべた男は囁いた。
「お静かに。少しお時間をいただきたい」
「なに、何なのよっ?」
「大事にしたくないのでこのような姿ですが」
片方の男が言うセリフに、被せるようにもう一人が冷淡な口調で告げた。
「保安部の者です」
「ご同行願います」
***
ニッと口元を歪めて、リファリア・セイフェリングはすぐに身を引いた。
「お茶は何が好きかしら? 紅茶? コーヒー? いつもならビーカーでいれてしまうけど、さすがにお客様相手にいただけないわね。フレリック、お茶を」
まるで何事も無かったかのように近くの応接セットを指し示し、座るようにうながすリファリアは自らの額にかかる髪をかるくかきあげた。
「大丈夫。今のところ女の子を襲ったことはないから」
……どういう意味だろうか。
「興味はあるけど」
どういう意味ですか?
思わず一歩身を引きそうになったコリン・クローバイエであったが、相手はさばさばとした様子で「座れば?」と、さらにすすめてくる。半泣きの顔をしたフレリックは、警戒するように自らの師匠であるリファリアを見て、コリンを見た。
「コリンさん、何がいいですか? あ、あのお茶ありますよっ。緑の粉のっ。アルファレス様がなんだかやたらと買って来たんです。ほら、コリンさんの好きな」
まるで場の空気をかえる為とでもいうように、フレリックは陽気な調子でまくしたてた。ぴくりとコリンの頬が引きつる。
フレリックが言うあのお茶とは、やはりアノお茶であろうか。
なぜアルファレスはあんなものを大量に買い付けたのか。その神経が判らないが、とりあえずそんなものは飲みたくない。
コリンは「紅茶をお願い致します」と控えめに応えた。
「紅茶ですねっ」
フレリックは言うや、つかつかと部屋の扉を全開にして「誰かいませんかーっ」と叫んだ。
それを苦いものでも見るようにしてリファリアがそっと身をかがめて小さく囁く。
「どうやら警戒されたみたいね。別にコリンさんを襲ったりしないのに。
ごめんなさいね。この部屋――私の研究室に隣接している、私専用の休憩室なのよ。普段から雑用はすべてフレリックがやっているから使用人を呼ぶベルもおいていなくて。この部屋に私とあなたを二人にしたくないんでしょ」
自分で言いながらクツクツと楽し気に笑い、目を細めた。
「フレリックっ、さっさと行きなさいっ。
お客様を待たせないで」
「いいですけどっ、コリンさんを困らせないでくださいねっ。コリンさんっ、何かあったら悲鳴をあげて」
「黙れっ。早く行きなさいったらっ」
フレリックは心配そうな顔をして、ぺこりと頭を一つさげて出て行ってしまった。
二人、残された部屋で一瞬沈黙が訪れる。
「ごめんなさいね」
沈黙をやぶったのはリファリアで、彼女はもう一度謝罪の言葉を口にした。
コリンは「いえ」と応えたのだが、相手は肩を揺らした。
「アルファレスのことよ。うちのバカ弟が迷惑をかけたみたいで」
「はぁ……」
いったい、いつのどれのことだろうか。
一旦考えそうになってしまったが、好んで考えたい話題でもないのでコリンはあえてアルファレスにされた所業について考えることはしたくない。
一から十まで、アルファレスには迷惑しかかけられていない気がするのだ。そして数がありすぎて、リファリアが言う言葉が、どれに対しての謝罪かはまったくつかめなかった。その為、おおざっぱに「アルファレスが生きていてごめんなさい」という意味にとることにしておいた。おおむね間違いではないだろう。
「で、私に会いたいっていうのはいったい何かしら?
私はしがない錬金術師――商売人やらお嬢さんやらに興味を持たれるものでは無いと思うのだけど?」
あっさりと本題を振られて、コリンはそれまでの動揺を鎮めて、反対側の椅子に優雅に座る相手をまっすぐに見つめ返した。
「錬金術師とは、何ですか?」
「金を生み出すもの」
リファリアはあっさりと応えた。
「一を二にする者。さらに世の中を豊かにするもののことよ――と、言っても私は金塊をつくったりする者ではないのだけれど」
引き結ばれた口元とまなざしとで穏やかに笑う。
コリンはじっとその姿を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「我が家は商売をしております。一で仕入れ、求められる場に運び、二で売ります」
「そう、そういうことよ。似ているわね?」
クスリと笑う女性に、コリンは軽くうなずいた。
彼女は自称錬金術師。
ただ、錬金術師とはいっても金を作り出す者ではなく、お金を作るもの。それはとても商売と似ている。
「今は何をしていらっしゃるのですか?」
「企業秘密。なんてね――今は、汚れた水を真水にかえられないかと思って色々やっているわ。見る?」
「ぜひ」
「ちょっと臭いわよ?」
「かまいません」
「じゃあ、白衣を貸すわ。その恰好じゃ汚れてしまうかもしれないから――中のドレスも着替えた方がいいかしら? 私の古い服でよければ貸すわよ? 今のサイズでは無理だろうけど、私にだってあなたくらいの身長の頃はあったもの。下の妹がいるけど、あいにくとチビ助でね」
言いながら、立ち上がり、さっさと隣接する隣の部屋へと入っていく。
リファリアは隣の部屋から適当な簡素なドレスを引っ張り出し、ぴらぴらと振った。
「隣はね、資材置き場。コレは雑巾にでもしようと思っておいておいたものだから、汚れても気にしないで」
着替えることは確定したようで、リファリアはさっさとコリンのもとへと戻るとコリンのドレスの後ろボタンに手を伸ばした。
「手伝ってあげる」
ここで、この場で?
驚くコリンであったが、リファリアはコリンの返答などまたずにコリンの背後に回ってくるみボタンを器用に外していく。鼻歌交じりで楽し気に。
先ほど口づけされたこともあり、なんとなく警戒心が沸いたが、ここはおとなしく従うことにした。
「大事な研究を、わたくしなどに見せて良いのですか?」
「なぜ?」
「わたくしは商人の娘です。あなた様がなさった研究を奪う者かもしれません」
「うーん。それはちょっと困るけれど、ちょっとだけよ。水を綺麗にすることを研究しているけれど、誰かがそれを成してくれるのであれば私は構わないわ。お金になる研究ではあるけれど、別に自分の懐を潤したい訳ではないし。どちらかといえば、好奇心を満たす為にやっていて、ついでに誰かの為になるならそれは錬金術だと思うのよ」
するりと背中から生地が取り払われる。コルセットに包まれていない肩口などにひんやりとした空気が触れるのと同時、少しだけ体が楽になる。ただ、激しく――なぜこのようなことになっているのであろうかという思いにとらわれるコリンだ。
「このコルセット、すごくしなやかね」
「叔母が仕入れたものです」
「そう。海外製なのかしら。すごく着心地よさそう」
コルセットと肌の間に指先を入れてコルセットの生地を確認される様子にさらに引きつつ、それでもどの産地であるかと商魂たくましく口にしたコリンであるが、突然ガチャリと扉が開かれた挙句、「うわーっ」と叫ばれて硬直した。
銀のトレーに紅茶のセットを持ったフレリックは、その場のコリンとリファリアの姿を目撃して悲鳴をあげると、そんな状態でも紅茶をきちんとテーブルにおき――
コリンの肩をつかんで無理やり引き寄せ、リファリアとコリンとの間に割って入った。
「何しているんですかっ」
「何って」
「本当に師匠は無節操すぎるっ。もうっ、もうっ、もうっ、ぼくだって時には怒りますよっ」
怒っているようだが、ちっとも怖くないのがフレリックであるが。
コリンはそんなフレリックの背に、おそらくかばわれつつ、慌てて自分の胸元を抑えた。
背中は脱がされているが、幸い袖はぬいていないので前身ごろは無事に肌をかくしている。と、いったところで、何となく自己防衛的により胸元を抑えてしまうのだろう。
「彼女になにをっ」
「彼女に、何だって?」
そう――応えたのはリファリアではなく、呆れたような男の声。
コリンが背を向けている形になっているその部屋の入口から入り込んだ男は、はじめ唖然と彼らを見つめ――やがてどこか面白がるような眼差しをフレリックに定めた。
「人の屋敷に女性を連れ込んだ挙句、不埒なことをしでかすなんて。フレリックも立派になったものだね」
背後から聞こえてくるその声の持ち主が誰かはいわれずとも判った。
呆れたような口調でゆっくりと三人の元に近づき、ばさりとコリンの肩に上着がかけられる。その行動でさすがにコリンにも羞恥が立ち上る。
素肌とまでは言わないが、コルセット姿を見られるなどそうそうあることではない。いや、リアンがコルセットの紐を結ぶことを考えればそれほど恥と感じることでもないのかもしれないが。
コリンの背に上着をかけ、どこか楽しそうな軽快な口調で告げられたのは、諭すような台詞。
「誰だか知らないけれど、若い女性が自分を安売りするのは賢明じゃないよ、お嬢さん。フレリックも、こんな場所を抑えられたら言い逃れは利かないな。ここは男らしく責任を……」
まるで壊れた仕掛け人形のように、ぎぎぎっとぎこちなく顔を動かして振り返るコリンとアルファレスの視線がかち合うと、アルファレスの表情が楽し気なものからすとんと素にかえり、やがて眼差しが驚愕に見開かれた。
「コリン・クローバイエっ」
「……」
「なっ、なっ、なんでっ」
ざっと物凄い速さで二歩程引いたアルファレスであったが、自らの上着を肩から掛けたコリンと、そしてわたわたとしているフレリックを交互に見て――
アルファレスはフレリックのよれよれの襟首をひっつかむと、凶悪な顔でぎりぎりとそれを締め上げていた。
「説明、してもらおうか?」
……ただの着替えです。