その1
そっと吐息が落ちた。
グリフォリーノ・バロッサについてコリンが父親に尋ねたのはその夜の正餐でのことだ。父親から言われていないことなのだから、わざわざ訪ねなくとも良いのだが――ちょうど叔父であるウイセラがその場にいなかったことを幸いとして切り出した。ウイセラがいたら話がややこしくなるのは目に見えている。
「ああ、そんな話もあったな――何かあったかい?」
コリンの問いかけに対し、父の口元にゆるい笑みが刻まれる。そのまなざしは楽し気でさえあった。
「面会を受けました。
そんなことより、なぜ今回は何もおっしゃらなかったのですか? 前回はきちんと話して下さいましたが」
前回――ウイセラが怪我をした原因がふとよぎる。思い返せば、まだひと月足らずしか経過していない。そんな中で新たな結婚話が浮かぶというのは、コリンはそういう年齢ということだろう。
もちろん、コリンだとて理解しているし弁えている。
「コリンから言われたら話そうと思っていたよ。それにしても素早い男だね。もう顔を出したか。で、バロッサ卿をどう思う?」
「胡散臭いですわね」
コリンは思っていることをあっさりと口にした。
「政略結婚をしようというのであれば熟考の上でお受けいたしたかもしれませんが、恋愛をしようとおっしゃいましたのでお断り致しました。よろしかったでしょうか」
事後報告ではあるが、コリンはこのことじたいに間違いは無いだろうと確信していた。コリンからと言われて理解したのだ。この婚姻話は父にとって――どうでもいいのだと。
相手は大貴族だ。
おそらく末席とはなろうが数えていけば王位継承権すら持っている。公爵家の男とはそういうものだ。その相手を考えれば「政略結婚」でなければならない。だが「恋愛」と言う男を前にコリンは利点を排除した。当然、何かしらの思惑はあるだろう。相手にとってこの婚姻が何かしら意味合いを持ち、そしてこちらにも利がある筈だ。
政略結婚としてその利点を口にしてくれれば、結婚を考えなくもなかった。
そう、皇女シルフォニアの側近という点を抜かせば。
――コリンにとって王宮は鬼門だ。やはり王宮務めというだけで結婚は考えないかもしれない。できれば一生かかわりあいたいと思わない。親族にとってもそれは同じ。今までコリンの我儘を許していたことを見ても、王宮に対しておもねるつもりは無いだろう。現状でヴィスヴァイヤは最大限王宮との利益と損失とを引き出している。これ以上近づくのは、商売人として危険だろう。
余計な軋轢は無用。他とのバランスは決して無視できない。
きっぱりと結論付けた途端、もう朧げにしか覚えてもいないシルフォニアの面影が脳裏に浮かんでしまい、コリンは視線を伏せた。
誰よりも自信に満ちた愛らしい豪奢な娘。
手入れの行き届いた灰銀の髪に同色の瞳。
あの日まで、コリンはシルフォニアを好きだった。
大人になってしまった今、好きという言葉を単純に向けられる相手はいない。けれどあの当時、確かにコリンはシルフォニアを好きであった。
我儘も命令も。
すべて、許容できる好き。
――それはどこか苦く胸に落ちた。
「断ったか。まぁ、いい――コリン。君の婚姻は君にとって万全でなければいけない。即答するか、考察するか、どんな感覚も研ぎ澄ませて自らの心のままに決めればいい。君が心から求める者であれば、私はどんな相手でも受け入れよう」
小さく笑う父親のまなざしはどこか面白そうにコリンを見る。
その瞳は相変わらず、コリンがどんな相手を定めるのかを楽しんでいるようだ。つまるところ相変わらず選択権はコリンの手にある。
むしろ父親から結婚しろと命令されることを願っているコリンにとって。これは一番厄介だ。父の中には明確な回答があるというのに、それを一切見せようとはしない。ただ面白そうなまなざしで自らの娘がどのような道を定めるのかを眺めている。
――試されている。
コリンはそう感じずにはいられない。
その果てに父から失望されるのではないかと、コリンは恐れずにはいられない。
婚姻とは人生で最大の投資。
最大値で自分を売り渡すことを、父は望んでいるに違いない。
その期待に、果たして自分は応えることができるのか。
それを思うと結婚とは心底恐ろしい賭けだ。
「そういえば、リアンがいないな。どうした?」
ふと言われた言葉にコリンはそれまでの思考を途切れさせ、ぐっと奥歯をかみしめた。
「叔母様が……いらっしゃいますから」
夕刻、ウイセラの妻でありリアンの義姉であるアイリッサはにこやかにコリンの邸宅を訪れた。
突然の訪問に驚き焦りを見せるリアンの手を取り「コリン、この子を借りるわね」と連れ出してしまったのだ。
リアンは軽く抵抗を見せたが、そのまなざしがアイリッサを求めているように感じて、コリンはアイリッサの言葉に「ご随意に」と返していた。
いつだって傍らにいるべき者がいないことは寂しいが、リアンにしてみてもアイリッサとの触れ合いは滅多にあることではない。
それを仕事だと言って引き離してしまうのは、まるで愚かな嫉妬のようだ。そんなことはしたくない。
嫉妬――……
その言葉が浮かんで、コリンは紅茶のカップへと伸ばしかけた手がぴくりと止まるのを感じた。
嫉妬。
いったい誰に、何に対してだろうか。
リアンがアイリッサを愛していることは承知している。あのリアンがアイリッサの前では顔色をころころと変化させ、言葉をどもらせて慌ててしまう。普段のリアンを知るコリンにしてみれば、その態度はあからさまだ。
だからせめて、アイリッサがここに居る時にはリアンには彼女と長く一緒に居させてあげたい。この感情に嘘は無いし、嫉妬という言葉は適当ではないだろう。リアンの想いはウイセラという存在によって不毛なものとなり果てる。だが、だからこそリアンの気持ちを尊重してあげたい。
そう、コリンは思っている。この感情に嫉妬などありはしない筈だ。
ではアイリッサに?――夫であるウイセラに愛され、リアンに愛されることに対して嫉妬してしまうのか。
何故、嫉妬などという単語が転げ落ちたのか。
「コリン?」
「下がらせて頂きます」
コリンは紅茶を飲むことをやめて席を立った。
アイリッサは好きだ。
――ならばなぜ、嫉妬などという言葉が浮かんだのだろう。
コリンはリアンもアイリッサも好きだ。
だが、逆もまたしかりとは言い切れない――つまり、そういうことなのだろう。
自分には無いものを持っている二人に、嫉妬、しているのだろうか。
考えても考えても答えの出ない問いかけに、コリンは胸がもやもやとわだかまる。この気持ちを晴らすのは、帳簿付けかはたまた壺磨きか、どちらが最適であろうか。
***
正装を要求されたアンリは、居心地の悪さに身じろいだ。
突然アイリッサに連れ出され、理由を問えば「情報収集を兼ねて夜会に行きましょう。わたくしのパートナー役なのですから、もちろん、アンリも相応の姿でなければだめよ?」と穏やかに言う義姉の目がちょっと怖い。よく判らないが怖い。
アンリでいることは歓迎できることではない。
あくまでも自分はリアンとしてコリンと共に居たいのだが、アイリッサを前にするとどうしてもその言葉にあらがうことができない。
自分の姉だと言い張るアイリッサにどう対して良いのか、リアンには――アンリには難題だ。
全身で甘えてみせろと示すアイリッサには本当に困る。
いくら姉やら弟やらと言われても、自分達の間に血のつながりは無い。どこまで踏み入るべきなのか、踏み入ってはならないのかの線引きが判らない。
だからこそ、コリンとの関係が一番楽なのだ。
護るべきもの。
全力で仕えるべきもの。
その背後に控え、時に盾となり刃となる。その関係には明瞭な線引きがあって、逆にいえばそれを邪魔するものはすべて排除すれば良いという単純なものだ。
己のことなど考えることすら無い。
コリンの為に――
ふと口元が緩んだ頃合いに、世界の音が耳元に戻った。
視界が開け、ホール全体の様子が認識される。
そう、アイリッサによびだされ――出かけるすんでのところ、ヴィスヴァイヤの玄関ホールでウイセラに捕まったのだったと思い出す。
「調べるとずいぶんと粗悪だ」
ウイセラはアイリッサの持ち込んだ偽金についてそう口にした。
「一見して砂金に見える。確かに――見てくれは純度の悪い砂金に似ている。けれど、水には浮くし溶けはしないし」
「わたくしの目を責めているのかしら、碧眼の海賊さん?」
出かけるところで捕まったアイリッサは一旦冷淡なまなざしを向けたが、ウイセラの言葉にきちんと耳を傾け――冷ややか微笑を浮かべた。
「いやいや。金の精製は国の管轄で、一般には純度の高い砂金なんてそうそう出回らない。インゴットになっているならともかく、砂金。金粒で取引されれば騙される――こともあるよ。それに、騙されたのはどうやら奥方だけではないようで、外国じゃ結構問題になっている。騙された人間が声高に言っていないから情報は少ないけどね」
アイリッサはそっと吐息を吐き出し「確かに、こちらの落ち度よ。こちらも急いでいたし、あちらも急いでいた。今思えば、一割程度こちらに有利な話で儲けたとすら思ったものよ」
爪を噛むアイリッサに、ウイセラが手を伸ばしてそれをやめさせる。
責めるのが目的では無い。
「出回り始めたのは半年程前で、ピークがその二か月。その後はぱったり――物自体はもしかしたらもう出所を離れてとんずらってところか」
「やけに詳しいわね。どこ情報?」
「最近ちょっと王宮に顔を出していてね。世間話のついでに。ま、相手もこちらから色々と情報を探ろうとしていたけど、あの様子じゃあっちの方はまだ何か隠しているなー」
顎先をつまんで唇を舐めたウイセラは、ちらりと同室で立ったままのアンリへと視線を向けた。
「何か意見は?」
「グリフォリーノ・バロッサは情報源として利用してほしくないですね」
「そこかい? まぁ、確かに仲良くしたいタイプじゃないけれど」
色々と便利な男だよ、と陽気に続けようとしたウイセラに対し、アンリはつまらそうに半眼を伏せた。
――コリンに対してグリフォリーノが求婚した。
もちろん、この婚姻はありえない。
ヴィスヴァイヤがこれ以上王宮に与することは無い。すでに王宮からは多額な金銭授受が成され、この国での商売に対しての優遇もある。これ以上ヴィスヴァイヤと王宮が近づくことを世論は歓迎しない。
余計な亀裂など作っている暇はない。
だからこそ、王宮からの召喚についてもコリンの気持ちを優先してやんわりと拒絶し続けていたのだから。
「商品の流通量が少ないのであれば、逆に出所を探れるのではない?」
「君の取引先とか?」
「――カロウス」
アイリッサはにっこりと微笑し、ゆっくりと夫の名を呼んだ。
「わたくし、これから出かけるところだったのよ。
あとはわたくしの船で部下とを進めるといいわ。わたくしは今宵の夜会に招待されているの。忙しいのよ?」
「おやおや、面倒くさい話はあとでいい。御供致しますまよ、奥さん」
気取って一礼するウイセラを無視し、アイリッサは自らの手を義弟へと差し向けてにっこりと微笑した。
「まだ夜は早いわ。行きましょう、アンリ」
「お望みのままに」
「ちょっと、奥さんっ」
コリンのもとを離れるのは好ましくないが、 とりあえずアイリッサがウイセラではなく自分の手をとってくれるのは存外気分がいい。
アイリッサの手を取り、エスコートして一歩踏み出した足がかつりと止まった。
ちょうど正餐を終えたであろうコリンが一階ホールへと足を踏み入れるのとそれは同時で、アンリは自らの現在の姿を想像してかぁっと体温が上昇するのを感じた。
――恰好っ。
男装はイヤだ恥ずかしいっ。
穴があったら逃げ込みたいっ。
恥ずかしすぎて死ねるっ。
殺せっ。
男であるのに女装で日常を過ごしている弊害か、男装姿をコリンにみられるのだけは耐え難いアンリ――リアンであった。
というか、なんだこの浮気現場に踏み込まれたかのような動悸っ。
混乱しているアンリを置き去りに、アイリッサはコリンに微笑んだ。
「コリン、アンリを連れて夜会に出てくるわね」
「お気をつけて」
混乱しているアンリを置き去りに――女性二人はまったく平素だった。