その3
そのしょんぼりとした背中は、捨てられた犬のようであった。
皺のよった白衣といい、その人物はどこからどう見てもフレリック・サフィア――コリンにとって、その相手はなぜだか無視できにくい。
「どうなさったのですか?」
背後から問いかけると、うわぁっと奇声をあげてフレリックは振り返り、顔を白黒させて「コリンさんっ」と叫んだ。
「何か元気がありませんね」
「……」
「どうかなさいましたか?」
小首をかしげて問いかけると、フレリックは逡巡の色を見せたが、やがてゆるりと口を開いた。
「あの、恋人……のことで」
恋人と口にしたとたん、フレリックの頬がそれは見事に赤く染まった。
その変化につきりと胸が痛む。
フレリックには恋人がいるのかと、その認識が胸のところでわだかまる。もちろん。自分にとってそんなことは関係の無いことではあるが。
「彼女が何を考えているのか、時々ちょっと、判らなくて」
「どんな方ですか?」
「あの、とても綺麗な人です。ああっ、コリンさんもとても綺麗ですけど、コリンさんの綺麗さと師匠のっ、彼女の綺麗さは違うんですけどっ」
動揺しつつも、その話題を振られるのは好きなのか楽し気に語る。
「背筋をぴんっと伸ばして。研究に没頭すると寝食を忘れてしまって、そういう時の師匠はすっごいボロボロで、目の下にはクマがあったりして、でもとても綺麗なんですっ」
それは純粋な愛の告白。
相手がどんな状態でもかわいくてしかたないのだとあからさまにいう青年は、実に幸せそうだ。
しかし。
「錬金術師のお師匠様は、女性だったのですか?」
そちらの方が驚きだ。
以前に聞いたことがあったであろうか。いや、きっと無い。小首をかしげつつ問いかけると、まるでどうして今まで知らなかったのかと言わんばかりに目を瞬かれた。
「女性ですよ?」
「金を精製なさろうとしている?」
「金っというか――つまるところ、師匠がいうには、無から有を作ることはできないけれど、有から有良を作り出すことは可能であり、それによって金銭が得られればそれは即ち錬金なのだと」
つまり、金自体を作ることを示して錬金術と言っているのでは無いのだ。
それまで胡散臭い錬金術という言葉であったものが、コリンにとって身近なものにかわってくる。何故なら、商人がすることといえばまごうことなくソレであるのだから。
「その方は、いまは何を?」
「今現在は土の改良に躍起になっていて、砂漠に植物を植える為には土を改良するべきだとおっしゃって。まぁ、なかなかうまくはいかないんですけど。でも、土を改良して植物を育て上げることができれば、砂漠に浸透してしまう水分をとどめることができて、そこからオアシスに発展させたりと経済が回っていくって」
肩をすくめる青年を見返し、コリンはしばし考えた。
「もし、よろしければ――その方と話しをすることは可能でしょうか?」
「師匠と、ですか?」
「そういった研究には、失礼ながら資金が必要なことと思います。もしその方とお話しが合えば、多少はご協力できるのではと思うのですが」
つまり、出資だ。
相手の言葉はなかなか興味深い。土を改良させて砂漠に水分を蓄えられるように改良していき、やがてはオアシスに、そしてオアシスができればそこに町ができる。
無茶といえば無茶。無謀といえば無謀。
だが、聞いて損はない。
「ああ、でも資金はわりと潤沢にあるんです」
「まぁ」
「でも、師匠はコリンさんと話しが合うかもしれませんね。まぁ、ぼくが紹介しなくとも、そのうちにコリンさんは師匠と会うかもしれませんけど」
ふと、フレリックは口元を緩めてそんなことを言う。
ますます小首をかしげるコリンに、フレリックは楽しそうに口にした。
「だって、ぼくの師匠はアルファレス様の姉君ですから」
思ってもいない名前に、コリンは軽く目を見開いた。
まさかここでアルファレス・セイフェリングの名前が出るとは思わなかった。胸元にそっと手を当てれば、胸の鼓動が早鐘を打つ。
少しばかり高揚する気持ちで、コリンは確かめるように問いかけた。
「それはつまり……フレリックさんのお師匠様は、エイシェさんのお姉さまでいらっしゃるのですか?」
どうしよう。
ドキドキが止まらないコリンである。
これはもしかして恋だろうか。
***
「……嘘もたいがいにしなさいよ」
ひきつる笑いでグリフォリーノ・バロッサは口にした。本日のグリフォリーノといえば、誰はばかることなく立派な紳士の様相であった。
クローバイエの本邸にて待つというコリンのメッセージに身なりを整えて来たというのに、やってきたグリフォリーノを待ち受けていたのはニッコリと微笑するコリンの侍従。リアン改めアンリ青年であった。
前回再会を果たした時は家庭教師のような暗色のドレスで立派な淑女であったものが、今は黒お仕着せをぱりっと着こなして慇懃に微笑んでいる。
ひっくりかえしても美女にならない変貌ぶりだ。
「もうし訳ありません。午前中に散歩に行かれてそのまま――きっとすっかりとお忘れなのだと思います。またどうぞ日を改めて」
「それで私が諦めるとでも?」
「どうおっしゃられても困ります。主は現在不在であり、出せと言われても出せません」
余裕たっぷりの微笑には嘘が見られない。
確かにコリン・クローバイエは不在なのだろう。
といったところで、クローバイエの邸宅は広大だ。どこかに隠されていたところで解らない。
「そうか、解った」
「では、お帰りは――」
「いいさ。持久戦だ。コリン嬢が帰宅するまでいくらでも待たせてもらおう」
半眼を伏せていう客人の言葉に、それまで余裕たっぷりであったアンリの口元にひきるものがある。
紳士の姿はしていても、その粘りはハイエナのようだ。
「そのようなことをなさると、あなた様に予想外の噂の火の粉がふりかかるやもしれませんよ」
「おや。何だろうね」
「かのグリフォリーノ・バロッサ卿がたかが商家の娘に入れあげているなど――もちろん、そんな不名誉なことはお好みではありませんでしょう」
「いやいや。それは別に構わない」
グリフォリーノは肩をすくめて微笑した。
もうすでに自信を取り戻した様子で、まったく気に掛ける様子もなくテーブルの上に置かれているカップへと手を伸ばした。
「事実だよ。
グリフォリーノ・バロッサは年甲斐もなく麗しいコリン・クローバイエに一目惚れで、毎日でも訪れたい程さ。
すでにヴィスヴァイヤの総帥殿には挨拶はすませた。あとはゆっくりと逢瀬を重ねて求婚の予定だ」
挑発するように微笑んでみせたが、それを向けられたアンリは一瞬目を見開いたものの、すぐにその口元に緩い笑みを浮かべてみせた。
「お嬢様はもう間もなくお帰りでしょう。どうぞお待ち下さい」
丁寧に頭までさげられ、グリフォリーノはふと居心地の悪さを感じて身じろぎした。
今、確かにコリン・クローバイエに求婚するとコリンの家人に告げたのだが、何だろうか、この微妙に――鼻で笑われた感じは。