その1
もう二度と会わない、関わらない。
そう心に決めたというのに、その決意はたった数刻後にはすかすかのサボンのようにぐしゃりとつぶれた。
結婚?
あのコリン・クローバイエとあの気障男が?
あんなのはその場限りの冗談で、嘘で、どうしようもない程くだらない。そう思っているというのに、まさかという思いが明滅して、もやもやと体内をめぐる。
いやいや、結婚でも何でもすればいいのだ。自分とは関係がない。
確かに自分はあの娘が好きだ。ああそうだ。好きだ。悪いか。
でもよく考えてみれば、いったいどこが好きなのか。姿形か? 性格は決してよさそうではない。あの話し方も好きじゃない。感情のうかがえない眼差しなど虚ろな人形のようではないか。
なんだ、好きだなんて感情、やはり錯覚じゃないか?
ふんっと鼻を鳴らして、ついで額を抑え込んだ。
好きだって言っているだろうっ。
理由なんて知るかっ。
笑って欲しい。
作り物の笑顔ではなく、自然な笑みを向けて欲しい。
名を呼んで欲しい。
あの害虫を見るような眼差しに、どうにか人と認識してほしい。
ドMか、俺はっ。
「何しているんですか?」
「何をしているように見える?」
窓辺で頭を抱えてしまったアルファレスに、いったんは無視して通り過ぎようとしたフレリックは律儀に声をかけてしまった。
フレリックはどうしようもない程お人よしなのだ。
その腕には大好きな師匠であるところのリファリアからもってこいと命じられた書物が抱え込まれている。それをえいやっと抱えなおし、そしてアルファレスに声をかけたことをいまさらながらに後悔した。
「二日酔いですか?」
「……確かに悪い酒は飲んだかな。フレリック、君はいつも幸せそうで羨ましいよ」
「そりゃ、ぼくは幸せですけど」
「いいよね、踏まれても蹴られても愛する人間と一緒にいられれば世は安泰だ」
刺々しい言葉に、フレリックは笑み崩れた。
「そりゃあそうですよ」
「――リファリアに縁談が」
思わずぼそりと嘘を口にすれば、面前のフレリックは目に見えて動揺した挙句に腕の中の本をどさどさと落とした。
「だ、だっ、誰ですか? 本当ですか? そんなっ。
あああ、そりゃあ師匠はお綺麗だし、たまにはかわいいし、貴族だしっ。ああ、いつかはそんな話がくるのも判っていましたけどっ」
声を荒げるフレリックの混乱状態を平坦な眼差しで眺めたアルファレスであったが、軽く手をふって「嘘だよ」とあっさりと白状した。
「本当、ですか?」
「嘘だよ」
「どっちなんですか!」
フレリックときたら半泣きだ。
「喜びたまえ。今のところリファリアに縁談は来ていない」
「ありがとうございます!」
感極まっていうフレリックだが、礼を言われる覚えは無い。アルファレスは深々と溜息を吐き出し、半眼を伏せた。
「君は本当に幸せでいいね」
「アルファレス様もコリンさんのところに行ってきたらどうですか?」
フレリックは落とした本を拾いながら悪気無い口調で言う。悪気はないというのに、なんという大ダメージだ。アルファレスは苦いものが咥内に巡る気がして顔をしかめた。
「……会ってどうしろと?」
「だって、好きな人の顔を見るだけでも幸せでしょ?」
「あああああ、君って本当に幸せな男だなっ」
脳内が花畑どころか、蝶やら野兎やらが縦横無尽にうろつきまわっているのではあるまいか。
「ぼくは侯爵家嫡男で、相手はただの商家の娘。人妻でもなければ未亡人でもない。遊び相手にもならないよ」
いっそ彼女が誰かの人妻であれば、寝台にでも連れ込んでみせるのに。哀しいかな未婚の乙女ときたものだ。自分が紳士などと言うつもりはないが、生憎と乙女を蹂躙する程のゲスでもない。
鼻で笑うアルファレスに、フレリックはきょとんって不思議そうな表情を浮かべた。
「コリンさんと遊びたいんですか?」
「遊びで付き合える相手じゃないだろう?」
「どうして本気ではダメなんですか?」
さらりと言われた言葉に心臓を捕まれた。
どうして本気ではダメなのか? それをいうのか。
乾いた笑いが顔に広がって、アルファレスは何かを破壊してやりたい衝動にかられた。
底意地の悪い気持が口元をゆがませて、能天気でお幸せな男を徹底的に踏みにじりたい衝動に駆られた。
「リファリアが君と結婚しない理由と同じさ」
――その言葉を飲み込めたことはきっと奇跡だ。
***
「使いの方が一階ホールで返事をお待ちですよ」
料理番が封書を運んできた。
何故かと言えば、この屋敷の使用人は極端に少ない為に、時折こういうことがあり得るのだ。女中が二人、料理番が一人。そしてリアン。庭師に至っては通いの上に毎日では無い。
リアンが不在のころは、本邸から男手を借りていたという。
「わかりました」
口元に微妙な笑みが浮かんだ。
その手には一通の手紙。
主の手紙の内容確認はリアンにとっては大事な仕事の一つである。主であるコリン・クローバイエが内容を確認するより先に、リアンはその手紙の内容が主にとって有益なものであるのか、必要であるのかを判断する。ただ、その封書に関していえば印章を見ただけで不要のものであるとリアンは一瞬で判断を下していたが。
「どうかしましたか?」
「グリフォリーノ・バロッサ卿からです」
「また奥宮に来い、ですか? あの方も凝りませんね」
その召喚状はもう幾度も幾度も届けられている。そのたびにコリンは具合が悪いのでと断りつづけていたが、さすがに元気に歩き回っていることがばれている現状、使い古した言い訳が通じるかといえば否だろう。
そっと吐息を落とすコリンは、今日も今日とてせっせと壺を磨いている。
うっとりとその表面に見とれつつ。西方の蒼を基調とした壺は最近では一番のコリンのお気に入りだ。
「それが、今回はこちらにお伺いする旨――訪問許可です」
「……」
一方的に何日の何時ごろに訪問するので、どうぞよろしくと書かれている。コリンは吐息を落として予定など確認することなく「都合が悪いと返事を」と口にした。
「解りました」
リアンはあっさりと言い、ホールで待っているという使いの為にその場で返事をしたためた。どんなにイヤな相手といえども、主の名前で出される手紙だ、一応の季節の挨拶、相手の体を気遣う文面を織り込んだ立派なお断り状だ。
女中が差し出す封書に一枚の便せんを入れ、そのまま「何かお飲み物をお持ちしましょうか」と主に声を掛けてから部屋を出た。
コリンの邸宅は二階建ての小さなもので、こちらに来客は滅多に無い。そもそも、この家の存在をグリフォリーノは知らないのだから、手紙が届けられるのは当然クローバイエの本邸だ。リアンは二階のコリンの居間から廊下へと出て、廊下を渡り一階へとおりる。そのまま地下へと入り、地下通路を通ってクローバイエの屋敷へと行く――つもりであった。
だが、その足が階段で止まった。
一階へと続く階段の途中、一階の玄関ホールで佇む男の姿にギクリと体が強張る。
帽子をかぶった従僕風の男が、軽く帽子に手をかけて小さく頭を下げる。
なぜ。
そう思いつつも、リアンは動揺を押し隠して口元に笑みを刻んだ。
「お待たせしました」
「これは別嬪さんだ」
軽薄に口笛を吹いて相手は口元を緩めた。
リアンは引きつったまま手にある封書を相手へと示した。とたん、その封書はひったくるように男の手に渡り、ついで乱暴に封印を解かれた。
「なっ――」
「あー、やっぱり。お断りされるとは思っていましたが、本当につれない人だ」
内容を一瞥して視線をあげた男は、にんまりと微笑した。
「明日は都合がつかないようですけど、今はいいでしょう? 即刻返信を書かれたということは、いらっしゃるのですよね?
案内、して下さいな」
従僕のお仕着せを着たグリフォリーノ・バロッサは帽子を脱ぐ断られることなどありえないという傲岸不遜な態度でリアンを見つめ返した。