その2
だらりと寝椅子の淵にかけられていた腕を無造作に動かし、白手に包まれた指先をゆっくりと折り込む。
脳裏で数えていたのは「顔も見たくない」と主に言われた回数だ。
「おや、とうとう大台か」
すでに桁数が変わっていた。
蟄居という強い言葉でもって命じられたことも幾度か。それでも、シルフォニア皇女殿下の近衛長としてその地位を脅かされないのは、ほかの人間にはまずあのワガママヒメに付き合うことはできない為だろう。
――ていのいい押し付けともいえるが。
我儘で高飛車で理不尽で傍若無人な彼の主様は、自分で「顔も見たくない」と言う癖に、その間に付けられる代わりの人物を完膚なきまでに叩きのめし、その場所をまたしても彼女の近衛に明け渡すのだ。
今頃きっと、自分以外の誰かを散々な目にあわせているに違いない。
「グリフォリーノ様」
「それにしても、そろそろ転職を考えてもよさそうな数字だなぁ」
「グリフォリーノ様?」
――思わずふてくされたような口調が口から零れ落ちるのを聞き、寝椅子の反対側で書類を片付けている長年の友であるところのロットは眉間に皺を刻み込んだ。
「もういっそ役人などやめて商人にでもなってしまおうか?」
「何を腐っているのです。それに、貴方は役人ではなくて近衛でしょうに」
「……あの人ときたら商人のほうが好きなのさ」
自然と唇を尖らせてふてくされるように吐き出された言葉は、更にグリフォリーノの不快を強めただけだった。
ふわふわとした毛並みの純白のうさぎ。
リボンをつけて差し出したというのに、主はそれを受け取ろうとはしなかった。
それどころか、狩場から捕まえてきた自分を非難して――この始末だ。
何もするな。
もう、何も。
あの時に向けられた強い眼差しは、ついぞ覚えが無いほどの怒りを内包していた。
自慢ではないが、自分以外であれば、降格させられた上にどこか僻地にでも飛ばされていただろうと思わせる程の怒りだ。
「――ふん」
自分だからこそという驕りが無い訳ではない。
だが、その驕りさえ、たかが商人の娘一人に脅かされる。
「何もするな、なんて言われたら――何かしたくなるのが人情というものだろう、ロット?」
「あああっ、まーた禄でもないことを考えていらっしゃるでしょう?」
「毛皮にして差し出すべきだったかな。
それとも――たっぷり煮込んだ美味しいスープか? まったく私もツメが甘い」
がばりと身を起こしたグリフォリーノに、ロットは処置なしと言う様子で天井を仰いだ。
「何を不穏なことを。そんなことよりも、偽砂金の件の書類、ちゃんと読んで下さっていますか?」
「おいおい、ロット。
私は暇を下された身だよ? 仕事をさせようなんて、そんな鬼畜な。と言いたいところだけれど、大丈夫だよ。町のことは町の人間にってね――ちゃんとそのへんは手を回してあるからさ」
グリフォリーノは肩をすくめ、口元を緩めた。
「ほら、私ときたら殿下に覚えもめでたい優秀な人材だから」
言葉と同時ににっこりとロットへと微笑を向けてみたが、相手はどこか胡散臭いものでも見るかのように眼差しをすがめてよこす。
グリフォリーノは一旦判りやすく肩をすくめると、だらりと預けていた体を引き起こし、首に緩く回されていたリボンタイをしゅるりと外した。
「了解、わかったよ。では、仕事をはじめようか」
***
うっかりと口から滑り落ちてしまった言葉は失態であった。
まさに素のままに、思ったままに出た言葉は、二人の間に沈黙を落とした。
アルファレス・セイフェリングと――そしてコリン・クローバイエの間にはリボンの巻かれた茶缶がひとつ。
それを中心にして時間が止まってしまったかのようだ。
しっかりと視線を合わせたまま、外すこともままならぬ。
じっとりと手のひらに汗をかくような心地に、コリンはどうしたものかと逡巡していると、面前の青年は引きつったような微笑でひきつれた言葉を落とした。
「……何か、君に嫌がらせをされるようなことをしただろうか」
――して、いないというのか。
あまりのことにコリンは珍しく自分の感情が激しく跳ね上がるのを感じた。
今、しらりとおかしなことを言わなかったであろうか。
コリンとって面前の青年はまさに意味不明だ。友人の婚約者であるところのコリンが気に入らなかった様子で、いろいろとちょっかいを出されたのはそう遠い記憶ではない。少なくとも、仮面舞踏会のおりにコリンに口付けをして悪意をもって仮面を剥ぎ取ろうとした事柄は、誰がどう言おうと嫌がらせ以外の何ものでもないはずだ。
その事柄を、もしくは別の事柄を思い出したのだろうか、アルファレスはふと眉を潜めて――やがて決まりが悪いというように自分の口元を手でおおいつくし、とりつくろうように続けた。
「いや、確かに――確かに、何もしなかったとは言えないが」
「――」
「もしかして、君は私が嫌いなのか?」
好かれているとでも思っていたのだろうか。
本当にこの面前の青年ときたらいったいどのような人間なのだ。
誰にでも条件で好かれているとでも思っているのであれば、それは幸せな人生であろう。コリンは生憎とそんな太平楽な生き方をしていない。
それどころか、むしろ誰にも好かれてなどいない。
――口を開けば愛の賛歌を撒き散らしている叔父でさえ、真実コリンを好いてなどいないことなどコリンは承知している。
リアンがコリンを大事にしてくれているのは、姉であるアイリッサの為だ。コリンに尽くしてくれている女中の二人にしても、給料を愛しているに過ぎない。
誰も彼も、打算的な関係でしかつながっていない。
唯一コリンを愛してくれている者がいるとすれば、それは父であるセヴァランだけだろう。コリンはセヴァランの愛だけは疑ったことは無い。
その愛に報いる為に、必死にセヴァランの役にたてるようにと生きてきたのだから。
もしかして君は私が嫌いなのか。
そんな問いかけに答えは返せない。
あきれ返るコリン面前の青年は、まったく何でもないことのように続けてみせた。
「私はこんなにも君が好きなのに」
――落ちていた沈黙は更に重いものに変わった。
自分自身で口にした癖に、アルファレス・セイフェリングは目に見えて血の気を失せさせた。
さぁっと音をさせて血が下方へと流れ落ち、その顔を蒼白にさせる。
そしてまた、それはコリンの身にも起きた事柄でもあった。
血の気がざっと落ちて、ひやりと腹の奥まで冷える感覚。
それは衝撃と言ってもいい。
コリンは嘘に触れることには慣れている。以前、白衣を着用した青年がコリンに対して好きだからと言った時に、その言葉はすぐにコリンを冷静へと導いた。
なぜならそれは嘘であるから。
何かを隠して告げられる言葉に、コリンは冷静さを取り戻してその意図を手繰り寄せようと本能が自己保身へと動くのを感じる。
だから、この言葉からも嘘を導き出せる筈だと――その裏の暗い感情を手繰り寄せられる筈だと思うのに、面前の青年は顔を白黒させて息をするのさえ困難だというようにあえいでいて、その真意がまったく測れない。
やがて、アルファレスは白と青の境の表情を引きつらせ、まるでネズミ捕りにひっかかるまいとするネズミのように慌しく動いた。
「すまない、今日はこれで失礼する」
いったいぜんたいどういう用件で来たのか知らぬが、脱兎のごとく逃げていく背を追うこともできずにコリンは呆然とその場で座り尽くすことしかできなかった。
――私はこんなにも君が好きなのに。
「私は……壷が好きだわ」
なぜかコリンは自分の中で何が好きかを探し出し、ほっと息をついた。
そう、自分は壷と銃が好きだ。
あの美しさを何よりも愛している。
とりあえず今はただ、壷を愛でたい。
そう、ただひたすら壷だけを。
***
帰宅したばかりのアルファレスが一番初めにしたことといえば、姉であるリファリアのアトリエと呼ばれる怪しげな研究室に走りこみ、そこで幸せそうに下僕生活を満喫しているフレリック・サフィアの腕を引っつかみ、自分の部屋に無理やり連れ込んだ挙句、その両肩を押さえつけ――
「私はあの女が大っ嫌いだ!
決して、絶対に、好きじゃない」
と、盛大に宣言することであった。
「いったい何なんですかっ」
両腕にしっかりとリファリアへと渡す筈であった研究材料を抱え込み、フレリックは泣きそうな顔で反抗を示したのだが、相手はまったくどこ吹く風というように頓着しない。
「だから、私は決して、断じてあの女を好きではないんだ」
「……コリンさんのことですか?」
「そうだよ。そうだろう?
私は――」
コリン・クローバイエが好きなどという事実は欠片も無い。
無いはずだ。ないといえ。
だというのに、なぜあんな台詞が口から飛び出してしまったのか。
「あの女ときたら、あんな顔をして性格が悪い。
私に対して嫌がらせをしてきたんだよ。信じられるかい? あんな性格の悪い人間など見たことが無いっ」
「えっと、ぼくはありますけど……性格悪い人。ものすごく身近に」
「君の友人関係など関係が無いっ」
「――いや、いいんですけどね」
ぼそぼそと視線をそらして言うフレリックを無視し、アルファレスは自分がどれだけコリン・クローバイエが嫌いかを指折り数えて列挙した。
――あの何を考えているか判らない瞳が嫌いだ。
作り物めいた笑顔は大嫌いだ。
外見だけの女などいくらでもいる。あの女が特別な訳では決して無い。私は……
「くさい」
ふと鼻腔に入り込んだ匂いに、眉間に皺を寄せてアルファレスはフレリックから一歩はなれた。
怒りのままに行動していた時には気づかなかったが、臭い。しかもやたらとその匂いのもとが近い。
「そりゃ、そうですよ。鶏糞ですし」
そう呆れたように言うフレリックの手にはビーカーがあり、その中身が匂いを発していると知ると、アルファレスは途端に顔をしかめた。
「いったいぜんたいそれは何だい」
「だから、鶏糞ですってば。今、師匠は土の改良にこっているから」
「なんだってそんなものをっ。私の部屋が臭くなるっ」
冷静さから嫌悪感にかわり、アルファレスはその匂いに迷惑だというように鼻と口元とを手でふさいで見せた。
「実験中にぼくを連れ出してここに連れ込んだのはアルファレス様じゃないですかっ」
むっとした様子でフレリックは言うが、アルファレスは傍若無人に扉を指し示した。
「出て行きたまえ」
「――まったくもうっ」
いつもは下手に出るフレリックであったが、さすがに今回の扱いは憤慨したのだろう。唇を尖らせて扉へと向かいながら、一旦ぴたりと足を止めて、相変わらず口元に手を当てているアルファレスをひたりと見返した。
「アルファレス様はコリンさんが好きですよ。
当人だと気づかないんですか?
毎日毎日コリンさんのことを考えているでしょう? 会えないとイライラするでしょう?
アルファレス様。それは恋ですよ」
鼻で笑われるように言われてむっとしたアルファレスはフレリックを睨み返した。
「君にいったい何が判る」
「判りますよ。
ぼくは師匠に恋をしているから。恋のことなら、ずっと、ずぅっとアルファレス様よりぼくはエキスパートですからねっ」
乱暴に扉を閉めたフレリックに、思わず近くの寝椅子の上にあるクッションを投げつけたアルファレスであったが、ぜいぜいと上下する胸を落ち着かせる為にどさりと寝椅子に腰を落とし、やがて額に手を当てた。
――恋?
恋とは何だろうか。
愛とは?
父と母の間にそんなものが存在したかといえば、していないだろうと断言できる。父と母との間にあったものといえば、惰性であり安寧であろう。
家柄が良く、年齢が丁度良く、何事も無難であったと。
一人目の子供は女であったから二人目を作り、二人目も女であったから三人目を作った。三人目は男であったから、その子供に何かしらの問題が生じた時の代替品として四人目を作った。
それがまたしても女であったが、すでに五人目を作るのは諦めたのか、それともとりあえず一人男子がいるのであるから慌てる必要は無いと思っているのか。
母は子作りとやらに疲れていたし、父は面倒になっていた。
そんな二人を見て育ったのだから、とうぜんのようにアルファレス・セイフェリングにとって愛などというものは面倒ごとでありただの詩だ。そして恋というのは遊びであるという認識にしかならなかった。
そう、愛やら恋などというのはもはや幻。
物語の中の偶像。
あるとすれば、それは欲。
と、いったところでその欲すら今まで切実に欲するものではなかった。欲しいと思うまでもなく手に入り、やがて飽きた。
さまざまな事柄に興味はうつりはしたものの、だからといって――ここまで執着したものはおそらくかつて無い。
執着するまでもなく、それらは難なく手に入ったのだから。
だから、これは手に入らない意地のようなもので。
だから、これはきっと……浮き上がる感情を押しつぶして叩き潰してきたものの、手の届く距離に彼女を認め、その眼差しをふいと向けられ、その艶やかな口元に目が離れず――きしむ心臓の音に気づいたときに、敗北の白旗を掲げてしまった。
――これが恋なのだと。
なのに、認めた途端……気づいてしまった。
彼女は、自分を嫌っている。
嫌っている相手を好きになっても、無駄じゃないか。
***
すえたようなカビ臭いような生理的に受け付けない匂いが染み付いた壁には、よく見なくともあちらこちらにシミがある。
窓に下げられたカーテンには焦げた跡。窓に嵌め込まれているのはステンドグラスというのもおこがましい、割れたガラスのつぎはぎ。
下町のアパートなどこんなものだと言うが、勿論それが満足できるものでは決して無い。
幾度か無理をして夜会に赴き、再婚相手になりそうな男を物色してはみたものの、どれもこれも心を満たしてくれるような男はいなかった。
だが、こんな生活はもうおしまいだ。
クロレア・セイフェリングはにんまりと紅の唇を歪めてみせた。
あの役立たずのヘボ探偵は「偽物」だと言っていたが、それがどうだというのだろう。だったら「本物」と偽って売り払ってしまえば手元には本物の金が残るのだ。
手の中には決して軽くは無い皮袋。
見てくれはあくまでも砂金と似ているのだから、自分が騙されたようにほかにもきっと騙される人間はいる筈だ。
――貴族の誰かに買い取らせるのは危険だろう。
両替商などもってのほか。
ならば、そのへんの商人にさっさと売り払ってしまえばいい。
商人といえば、自分が屋敷を追い出された原因であるコリン・クローバイエの生家が浮かんだが、さすがにあそこまで大きな商家では偽物だと気づかれてしまうかもしれない。
では下町の市場?
いいや、市場などに足を運ぶなど流石に恐ろしい。
このアパートと探偵事務所の往復でさえ、びくびくと行く程なのだから。
ぷるりと身震いしたクロレアは、自分の考えに暗雲が垂れ込めたような気持ちで眉宇を潜め、いつもの癖で親指の爪を噛んだ。
――いいや、考えてもらちなどあかない。
どこか適当な店に入り、現金は無いが砂金があるとちらつかせよう。
そうして運の悪い人間に押し付けてしまえば、明日からもっとましな生活が手に入る。
そう判断して行動したのは実はこの午前のこと。
クロレアが思う程に世の中単純ではないのか、あいにくと偽砂金は未だに手元に残ったままだ。
細工師という男に砂金の取引をちらつかせれば、相手は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
どことも素性の知れぬ人間と一見で取引するような馬鹿はいやしない、と。
「出かけるわ」
手提げ袋の中に偽砂金入りの皮袋を押し込み、きゅっと紐を絞りこむと、クロレアは安物の椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「奥様、あの、どちらへ?」
唯一屋敷から無理やりつれてきた侍女がおどおどと問いかける。
クロレアは先ほどまで抱えていた苛立ちを吹き飛ばすべく、不敵な微笑を浮かべてみせた。
誰とも知れぬ女が砂金をちらつかせたところで釣れる者はいない。
ならば、いっそアルファレスの名詞のひとつも失敬してしまえばいい。
――あとあと問題になったところで、困るのは自分では無い。
そう、自分勝手に姉を屋敷から追い出すような弟など多少は困ればいいのだ。