その5
アイリッサは「やぁ」と軽快にかけられた言葉に眼鏡の奥の瞼を瞬き、思わず無言を返してしまった。
アイリッサの為にと用意されたクローバイエ邸の私室に足を踏み入れたところで、しつらえられた可愛らしい猫足の寝椅子に気だるげな様子で身を横たえる――海賊もどき。
それをしげしげと足のつま先から頭のてっぺんまでじっくりと観察し、アイリッサは「あなたらしくないわね」とやっと口にした。
「そうかい?」
「急ごしらえの安物」
「……そこか」
「既製品」
ざくざくと切るような台詞に眉を潜めて応じ、アイリッサの夫であるウイセラはいっそ優雅さを滲ませる程ふわりとした動作で手のひらを妻へと差し出した。
「おいで、アイリッサ」
口元に微笑を称えて甘くささやかれる言葉を、アイリッサは極自然な動作で無視した。
「ところで、先ほどの件なのだけれど」
「仕事の話はやめようよ。久しぶりの逢瀬じゃないか」
「仕事の話をする気が無いのであれば出て行って下さる? ここは私の部屋だけれど、この屋敷に貴方の為の部屋は無い筈よ」
そう、ウイセラにはクローバイエの屋敷とは別に街の繁華街に賭博サロンが存在し、普段からそこで寝泊りしている。それ故か、クローバイエの屋敷にはわざわざウイセラ個人の私室は用意されていないのだ。もし彼が泊まるのであれば、それはあくまでも本邸敷地内離れにある客室ということになる。
「まさか泊めてくれないのかい?」
おどけたような口調に、アイリッサは吐息を落とした。
「ここは義兄の屋敷よ。そこで不埒なことをするつもりは無いわ」
「でも、君はサロンに来る気もないんだろう?」
「だって、サロンは元々女人禁制よ」
――紳士の社交場に女は不要。
ウイセラのサロンはあくまでも賭博を目的としたサロンであり、商売女も出入りしない。ある意味健全な社交場だ。
建前上は。
「オーナー室くらいいいじゃないか」
「定められている約束事を破るのは商人のすることではないわね」
きっぱりと言われ、ウイセラは諦めた様子で肩をすくめた。
「判ったよ。とりあえず話しをしよう――隣に座るくらいはいいだろう?」
降参というように両手を上に向けてみせたウイセラに、アイリッサはこくりとうなずいてウイセラの横たわる寝椅子に控えめに腰を預けた。
「偽砂金についての君の被害は判ったけれど、実際被害は深刻なのかな」
「こちらには入っていないようだけれど、私が先ごろまでいたところでは皆何かしらの話は入っているのか、砂金についての取引は慎重よ。だからこそ、こちらに流れて来ないか――というのが心配なのだけれど」
「まぁ、情報さえあればなんとか瀬戸際で抑えられるだろうし」
ウイセラは言いながら左目に掛かったままの眼帯をするりとはずし、そして苦笑した。
「なぁに?」
「――いや、何でもないよ」
いったん外した眼帯をまたつけてしまう夫に、アイリッサは眉間に皺を寄せた。
「それ、いったいどういうつもりなの?」
「いやぁ、海賊といえばやっぱり眼帯だと思うんだよ。なかなかカッコいいと思わないかい? 髑髏模様の眼帯。ニッケルに海賊っぽい衣装って頼んだらこの一式を用意してくれてね。その中でも一番この髑髏模様の眼帯がセンスがいいと思わないかい?」
唇を歪ませるウイセラに、アイリッサは眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めて見せた。
「貴方の瞳、綺麗で好きよ。
隠してしまうなんてもったいないわね」
そっと眼帯に指先で触れる妻の腰を抱き寄せ、ウイセラはその香りをいっぱいに吸い込むようにして囁いた。
「そんな可愛い台詞を言っておいて、泊めてくれないなんて嘘だよね?」
アイリッサはにっこりと微笑み、夫の唇にそっと唇を寄せて微笑んだ。
「勿論、嘘なんて言わないわ」
***
さて、さりげなく……
さりげなく、女性の家を訪問するにはどうしたら良いものか。
アルファレス・セイフェリング――考えていることはくだらなくとも、考えている当人は大真面目だ。
「あの、アルファレス様?」
ぼろきれを幾つかあわせて作られたハタキではたはたと埃を落としているアルファレスという驚異的なものを目にしたフレリックは悲鳴のような声をあげ、救いを求めるように店内を見回して店主を見返したが、その店主こそが藁にもすがりたそうな眼差しでフレリックに詰め寄った。
「フレリックさん、どうにかしてくださいよ」
「ああ、気にしないでくれたまえよ。
以前からここの埃がどうにも気になって仕方なくてね。お茶に埃が入ってしまいそうじゃないかい?」
「うちが汚いのは重々承知ですがっ」
店主のテサの声が泣き声に近い。
テサとアルファレスの横顔を交互に見ながら、フレリックはそっと嘆息した。
勿論、セイフェリングの屋敷でアルファレスが掃除をすることなど絶対にありえない。それどころか縦の物を横にするのだって使用人を使うような人間だ。
だがその人間が、何を好き好んで下町の小さな雑貨屋にいりびたって、挙句店主を泣かしてまで掃除などしているのかといえば、この店をただ気に入っているからという訳では無いだろう。
「アルファレス様」
「ん、何だいフレリック?」
「ハタキは、下を掃除してから上を掃除したって、上の埃がまた下に落ちて無駄になるだけですよ?」
冷静に事実だけを口にするフレリックに、アルファレスはぴたりと手を止めて片眉を跳ね上げた。
「どうりで綺麗にならない筈だ」
その一言で飽きたのか、アルファレスはぽいっとハタキを放り出して店の片隅にある樽を逆様にして作られた簡易椅子に優雅に腰を下ろした。
「ほら、今日はずいぶん埃っぽいだろう?」
――いや、それはあなたが傍若無人にハタキを使ったから埃が舞い上がっているだけですよね。
フレリックはその言葉を口にするべきかどうか二拍程迷い、引きつった表情で「そうですね」と流すことにした。
どうせ正論を言ったところで通じない。
あとでこっそりと「いくら何でもお客さんじゃない人間は追い出していいと思いますよ?」と自分のか弱い心臓の為にもテサに進言したフレリックだが、あいにくと敵も去るもの「それが、来れば何かしら買ってくれるんでね、無碍にもできやしない」とテサは幾分やつれたように肩を落とした。
「ああ、そういえば」
アルファレスはハンカチで自らの面前の空気をかき回して埃を更に舞い散らしていたが、ふと思いついた様子で口を開いた。
「コリン宛の荷物は無いのかな。届けてあげるよ」
「いやいや、とんでもありませんよっ。
お客様にそんなことをしてもらうなんて滅相もないっ」
慌てるテサの言葉に、アルファレスの瞳が尚いっそう楽しげにきらめく。どうやら彼の思った通りコリンの注文した荷物が届いているらしく、アルファレスはまるで女性を相手にするように穏やかな微笑を浮かべた。
「いやいや、丁度彼女の家に用があってね。
ついでだからぜんぜんちっとも構わないよ。代金の心配ならぼくのほうにツケておいていいし」
「いえいえ、代金に関しちゃ嬢ちゃんのほうも月にいっぺんまとめて払ってもらってるから問題ないんだが」
焦りながら手を振る店主に、アルファレスは席を立って詰め寄った。
それを視界の端に見やりつつ、フレリックはリファリアから頼まれたシャーレやらフラスコやらの在庫を確認しつつ、こっそりと首を振った。
――絶対、間違いなく、コリンさんの家に用なんて無い癖に。
先日フレリックがコリンの自宅で茶を振舞われたことを、静かにねちねちと根に持っているのだ、あの人は。
その時のことを思い出し、フレリックはずんっと肩を落とした。
アルファレスには言っていないが、誘われてもあの家に行きたいとはちょっと思えない。いくら美味しい珈琲を振舞われても、周りを銃にかこまれてのお茶会は到底和やかという気持ちになれるものではない。そもそも珈琲の味すらあまり判らなかった。
確かに芸術的に美しい銃の群れだが、モノは銃だ。
人殺しの道具。コリンはよくあんな人殺しの武器の前で楽しげにお茶を飲めるものだ。
ただ、ちょっと気になったのはあの部屋にあった可動式のキャビネット。中には小さな螺子巻きやら工具やらが入れられていて、どちらかといえばそちらにであれば興味がそそられる。
それに、部屋にわずかに香っていたのは、アルファレスの屋敷にある花やら香やらの香りではなくてベンジンだとかアルコールだとかの僅かな匂い。
そう、誰より敬愛する師匠であるリファリアに少し似ている。
最近のリファリアの匂いは時々ちょっとアンモニアだが。
いやいや、たとえアンモニアであろうとリファリアから香るものはすべて香水の如く! フレリックはどんなものでも受け止める自信がある。
「じゃあ、ちゃんと預かったよ。
心配は要らないよ。きちんとコリンの手に直接届けてあげるから」
押し問答の果てにコリンの荷物とやらを強奪したのか機嫌良く言うアルファレスに、それでも必死に「ですが、こいつはうちの信用問題でっ」とテサが食い下がる。
コリンから注文されていた品を油紙でまとめてカウンターの後ろの棚においておいたのが敗因だろう。あっさりとその荷札に気づかれて荷物をさらわれてしまったようだ。
しかし、テサの魂の叫びは当然のようにアルファレスに届かなかった。
アルファレスはさっさと荷物を手に「じゃあ、ごきげんよう」と気取った調子で微笑を残して店の扉をくぐってしまい、テサはぐったりとカウンターに身を投げ出した。
「うちの信用がっ、嬢ちゃんはうちの上得意だっていうのにっ」
「えっと、すみません。
本当にすみません。アルファレス様は一度言い出したらきかなくてっ。ああ、本当にごめんなさいっ」
どこでもかしこでも迷惑な人で本当にすみませんっ。
***
コリン・クローバイエが暮らしているのは、港にほど近い坂の上にある豪邸――ヴィスヴァイヤの本邸と言われている邸宅は、特区と呼ばれる貴族の屋敷がひしめく地区とは違うが為に大きく、そして目立つ。
貴族は決まって特区に屋敷を持つことをステータスだと思っている為、下町に位置するこの地の広大な屋敷を見下げるように言うが、貧乏貴族が無理にせせこましく暮らす場所とは大違いの余裕は見事なものだ。
正面玄関を前にし、ふとアルファレスは気づいた。
これが貴族の令嬢相手であれば、勿論このような突然の無作法な訪問は許されない。
前日やら当日やらの朝一番で名刺と共にメッセージを添えて、相手に訪問を打診して許可を得るのが当然だ。
そして、アルファレスとしては今まではそのように行動してきた。
だが相手は商人だ――多少の礼儀を欠いた行動も許されるだろう。
――決して、訪問を求めて断られるのが怖い訳では無い。
こほんっと咳払いをひとつし、アルファレスは扉につけられたライオンの顔のドアノッカーに手を添えた。
途端、胸に飛来したものにアルファレスは動揺した。
今まで一度もこんな感情を覚えたことは無い。女性の家を訪問して――逃げたいなどと。
そもそも何故逃げたいのか。自分には逃げる理由が無い。
胸を張って微笑を向けていればいいだけだ。そう、それに何も何の用もなくここを訪れた訳では無い。
雑貨屋の亭主が困っていて、自分は荷物を押し付けられたのだ。
だから仕方なく、仕方なく、しかたなーく届けてあげるのだ。紳士として。
すでに事実とは違うものを脳内で処理した男は強気である。
「申し訳ございませんが、訪問のご予定は――」
ノッカーの音に現れた執事のようなお仕着せの老人が淡々とアルファレスの姿を確認して口にする。
「コリン嬢に取り次いでくれ。
そんな胡散臭い顔をしないで欲しいな。ぼくを追い返すと、コリンに怒られると思うよ?」
勿論、ハッタリだ。
妹のエイシェル込みであればコリンは歓迎するだろう。コリンはエイシェルにご執心のようだから……というか、まさか本当にコリン・クローバイエは少女が好きだなんてことはないよな。
アルファレスはなんとなく居心地が悪い気持ちを抱き、もぞりと身じろぎしてしまった。
「コリン様は体調を崩されて臥せっておいでで」
「彼女が元気なことくらいぼく知っているよ。彼女とは友人同士だからね」
さらりと言葉にしつつ、友人という単語はなんとも居心地が悪いものだと思うのだ。女性と友達などという関係を築いたのは、今は隣国で一人で生活をしている女性だけで、それ以外の女性はアルファレスにとってアソビアイテだった。
友人とは決して結ばない遊びだ。
心の内に何かが引っかかり、こほんっとアルファレスは一度空咳を落として体制を整えた。
「いいから、きちんと取り付いでくれたまえ。ぼくはアルファレス・セイフェリング――セイフェリング侯爵家の嫡男だ」
家の名前を出すことで誰かを黙らせることはよくあることだ。
ただ、何故か――何故だろう、軽く敗北のような気持ちになったのは。
胡散臭い者を見るように相手の眼差しが一旦細くなったが、老執事はすっと扉を大きく開いた。
「名刺をお預かり致します。
お嬢様にお伺い致しますので、どうぞ中でお待ちください。
ただ、お嬢様はお体が万全な方ではありませんので、お会いできないこともあるとご承知下さい」
あくまでも病弱だと言う老執事に「そんな嘘は承知している」という眼差しを返し、アルファレスはこの日ヴィスヴァイヤの本邸の扉をくぐることに成功した。
***
「もともと一級品とは程遠い混ざり物といわれれば、確かにそのように見えるのね」
コリンは手の平にある偽砂金を指先でなぞり、ぼそりと呟いた。
本来の金であればコレを精製して純粋なる金にし、延べ棒にして流通させる。だが、まがい物は熱に溶けない。
さわり心地も本物とは違う。
偽砂金をつまみあげ、親指と人差し指の腹でなぞったそれをそっと口元に運ぶ所作に。リアンはすっと手を伸ばしてさっさと指先をタオルでふき取った。
「何をするつもりですか」
「味見ですが」
「毒性があったら困ります。今どういうものか調べさせていますから――そもそも砂金に味なんてないでしょうに」
「そう、味なんてないから確かめようとしたのです」
それはただの好奇心だが。
子供の頃に砂金をまぶした料理を前にコリンは眉を潜めてウイセラに言ったものだ。
「何故、金を使うのです?」
「贅沢を感じる為、かな」
「金はスパイスになるのですか?」
「ある意味スパイスともいえる。金には味がないものだけれど、虚栄心という心を刺激して料理をうまくするのさ。勿論、これは提供者のハッタリに過ぎないけれど」
ウイセラは肩をすくめ、そのハッタリ料理を提供したセヴァランに意味深な眼差しを向けた。
「金には味が無いのですか? ならば、金を食べ物の上にふりかけるのは無駄です」
「だーかーら、これはただのハッタリだよ。
贅沢な気持ちになる為の。相手にこれだけのもてなしができるのだというね」
くすくすと笑うウイセラと、こほんと咳を落とす父とを交互に見て呆れたことを思い出したコリンは、食べ損ねた偽砂金に未練がましい眼差しを向け、ぼそりと呟いた。
「もし食べられるなら、料理に使えるかと思って」
「……食べたいのですか?」
「何かに使えれば紛い物といっても無駄ではありませんから」
「あまり食べるのには向かないのでは無いかと思いますが、一応調べさせてみせます」眉間に皺を寄せて言うリアンはどうやらあまりこの案をお気に召さなかったようだ。
他にも仕事の報告を幾つか耳に入れ、リアンと意見交換をしていると扉がノックされ、控えていた女中の一人が心得た様子で応対する。
相手は本邸の使用人の一人で、銀のプレートを差し出した。
「お嬢様にお客様がいらしていますが、いかが致しましょうか」
その言葉にリアンが近づき、ついと手を伸ばしてプレートごと名刺を受け取った。
白い上質な紙に飾り文字で書かれたアルファレス・セイフェリングの文字に家名を示す紋章。
それをじっと見下ろしたリアンであるが、その瞳に逡巡が浮かんだことをコリンは見逃したりしなかった。
「リアン?」
「貴族の使いです。最近何故か貴女様を引き出そうと画策される方々が出てきているようですが、なに、コリン様がお手を煩わせるものではありません。このまま――」
くしゃりと名刺を握りつぶそうとしたリアンに、コリンは胡乱な眼差しのまま口を開いた。
「リアン、名刺を」
ゆっくりとした問いかけは普段と変わらず平坦なものだ、だがそれを咎める言葉のように受けたリアンは、引きつった微笑で一度握りつぶそうとした名刺を吐息と共に主へと引き渡す。
ほんの少しだけ形をゆがめ名刺を。
実際のコリンはリアンへと叱責の言葉を向けるでもなく、その名刺の名を確かめると静かに席を立った。
「この格好ではさすがに非礼でしょう。身支度を整えて参りますので、どうぞ本邸の居間で寛いでいていただいて」
コリンは淡々と取り次ぎに声をかけ、するりとリアンの横をすり抜けて行こうとする。慌てて付いて行こうとするリアンであったが、それはコリンの冷ややかな言葉に遮られた。
「リアン、あなたは仕事の続きをなさい」
リアンの胸に氷の刃のように主の拒絶が突き刺さり、その中心から羞恥がじわじわと広がっていく。
何故、名刺を握りつぶそうなどとしてしまったのか。その理由を問われれば自分は何と答えるであろう。
――だが主は問いかけず、そして問われないことにリアンはほっとしていた。
問われても返せる言葉が、どうしても浮かばない。
***
「いったいどういうことよっ」
どんっとテーブルを叩いて声を荒げるクロレア・セイフェリングの言葉に、彼女の事実上の雇用主であるボートル・フェミングは顔をしかめて耳の穴をほじった。
「そいつはこっちが聞きたいね。
おいらはお前さんに掃除を頼んだんであって、家捜しなんざ頼んでねぇよ」
彼と彼女との間のテーブルには、皮袋がひとつ。手の平に程よく納まる程度の袋だが、中身は――褪せた金色の粉である。
クロレアがこれを見つけたのは、食器棚の一番奥――ひっくり返された欠けたカップの中だ。
ボートルの言葉に言い訳をするのであれば、クロレアは別に家捜しをしていた訳ではない。古臭い食器を捨ててしまおうと食器棚を中身を一応片付けていたのだ。そのうちの何割かを事故によって欠けさせてゴミを増やしたことは事実だが、クロレア的には立派に掃除をしていたのである。
「これだけ金があるなら、私に給金を出しても罰は当たらないでしょうっ」
「立派にやってるじゃねえかよ。
いいか? お前さんは何を勘違いしているのかしらねぇが、お前さんがうちで働いているのはお前さんの依頼の代金が未払いだからカラダで返してもらっているんだ」
「カッ、下品なことを言わないでよっ」
カラダで返すという言葉にクロレアの声がいっそう高くなる。階下にいる大家に怒鳴り込まれるんじゃないかと危惧しつつ、ボートルはぎろりとクロレアを睨みつけた。
「まぜっかえすんじゃねぇよ。
おいらはそれでも一応の手当てとしてアパートの家賃分と飯が食える程度の金は渡してるだろうが。ああっ、おいらってば優しくて涙がでらぁっ」
いいながら机の上の皮袋に手を伸ばせば、クロレアがさっとそれを取り上げた。
「これだけあるならもう少し私にくれてもいいじゃないの」
「それとこれとは関係ねぇだろうが。
つうか、それが欲しいのか? んじゃあ、くれてやる」
ふと、ボートルは声音を緩めて手のひらを返した。
前のめりにしていた体を起こし、勢いをつけて安物の椅子の背もたれに預ける。ぎぎっという耳障りな音が狭い室内に響けば、クロレアはぱっと頬を上記させた。
「まぁ、あなたって結構物分りがいいのね」
「いやいや。貴族の甘やかされた女にしてはなんだかんだって良く仕事も続いているし。そいつが欲しいってぇんなら、まぁ、遠慮スンナ。くれてやるよ」
一旦まじめな表情で言えば、クロレアが途端に頭の中で皮算用を働かせているのを片眉を跳ね上げて確認し――大笑した。
「ま、そいつは偽モンだから使えねぇけどな」
「――は?」
「ニセモン。ホンモンだったらやるわけねぇだろ」
ゲラゲラと笑い出した男の言葉に、クロレアはみるみるうちに表情を厳しいものにかえ、腹立たしさを全身で表すように「ふんっ」と鼻息を荒げ、がんっと床を蹴って事務所を出て行ってしまった。
「おーい、んなもんもってってどうするんだっつーの」
馬鹿だなーと膝を叩いて笑うボートルであったが、残念なことにクロレアが正真正銘生粋の馬鹿であることをこの時は未だ知らなかった。