その2
港の入り口で中型帆船が入港を告げる汽笛を鳴らす。
それに合わせて桟橋は更に活気付き、水夫達があわただしく動いて船の着岸の準備にはいる。それを尻目に最近腹部が多少気になる差配のドゥマーニはだらだらと流れる汗を手ぬぐいでふきとり、ふーふーと荒い息をついた。
船からの連絡により入港は判っていたのだが、いかんせん準備に時間がかかってしまった。
「いやぁ、間に合ってよかった」
心底からの言葉に、それを隣で聞くリアンはまったくだとうなずいた。
「あの船は目立ちますからね」
「まったく困ったものですよ。予定ではとっくの昔に出港いる筈だったというのに、おかげでこちらはてんやわんやだ……って、ああ、や、失言ですな」
はたりと、自分が誰に向かって言っているのかを思い出したドゥマーニは咳き込むようにして謝罪したが、女家庭教師姿に帽子をのせた格好のリアンは苦笑して「いいえ」と返す。
普段からそう馴染みのある二人では無いが、同じ系列で働いているという点ではたいした違いは無い。そう考えるリアンとは違い、ドゥマーニにしてみれば面前の奇抜な人は主筋に当たるとでも思うのだろう。
奇抜と言えばリアンの義兄は前回ここに来た時には盗賊の格好であったので、何だかんだと二人とも似ているといえば似ているのかもしれない。当人達に言えば決して喜ばれはしないだろうが。
ドゥマーニは禿げ上がった頭に滲んだ汗をしきりにハンカチで拭い取った。
「無駄な仕事をさせてすみません」
「無駄かどうかは――ああ、来ますな」
ドゥマーニはすぐに会話を切り替えると、眉間に皺を寄せてみるみるうちに近づく中型帆船に視線を転じた。
予定では数日前に出港する予定であった船は、今は港の奥に作られている修理用の船渠に入れられている。それも他に入っていた船をわざわざ乾船渠に移動までさせての騒ぎであった。
問題の船は悪目立ちが好きな持ち主を示すかのようにその船体が白く塗られ、一目でその持ち主が判るというけったいな一品。船乗り達の間では嘲笑の的となり、また――海賊すら避けるという厄介ごとの印とも言われる船の名は【麗しきアリシェイラ号】という。ヴィスヴァイヤの次期当主であるウィニシュ曰く【姉ちゃん大好きシスコン号】という外聞のよろしくない二つ名まで持っている。
数日前に出港の準備の為に上架されていた船をわざわざ下ろしたというのに、船主の気まぐれでもう一度船渠に戻す羽目に陥ったのだ。全てが人力の作業であり、中型帆船を一艘入れ替えるだけでもたいへんな労力と時間とを必要とする。
どかりという鈍い音と共に船の横面がゴムで覆われた船橋に接岸した。
衝撃を少しでも和らげる為に数名の船子が船を蹴って勢いを殺し、合わせて船の上からおろされた幾つものロープを引く。その怒鳴り声の飛び交う活気の中、耳なじみのある声がずっと上にある甲板から落ちた。
「リアン。迎えに来てくれたのね?」
口元に手を添えて叫ぶように告げられた言葉に、リアン自身も体を乗り出すようにして応えた。
「アイリッサ様、身を乗り出しては危ないですよっ」
まるで子供のように船べりに身を乗り出してぶんぶんと手をふる女性の姿に、リアンは
はらはらと動揺した。
船が好きで船の上でたいはんの時間を過ごす女性といえど、たった一つのうっかりが命を奪う。少なくとも、甲板から落ちたら大事だ。
「――」
船の縁に手をかけて嬉しそうにしていたアイリッサであったが、何を思ったのかリアンの言葉にぴたりと動作を一旦止めて、くるりと身を翻した。
「出港っ」
「ちょっ、アイリッサ様っ」
「船を出しなさい。出港しますっ」
船の主の言葉に甲板上の水夫達があわただしく「出港っ」と騒ぎ立てる。慌てたのはドゥマーニと桟橋で接岸作業をしていた水夫達だ。受け入れる為に準備を整えていたというのに、来たばかりの船が突如として出港するという。
船からおろされた幾つもの綱を放すべきかどうか判らずにおろおろと差配へと視線を送り、線上の水夫達は「放せっ」と怒鳴りつける。
ドゥマーニが「奥様っ」と悲鳴を上げる横で、リアンは真っ青になりながら唇をぱくぱくと動かし、ついではっと息を飲み込んだ。
咄嗟に周りを確認し、彼女の事実上の夫であるウイセラがいるのでは無いかと危ぶんだがその姿は認められない。更に言えば、彼の船はきっちりと船渠の内で今のところ目につく筈もない。
何が彼女の機嫌を損ねたのかと言えば――
「アイ……義姉さんっ」
手を振るようにして船子達に合図を出していたアイリッサが、ぴたりと動きを止める。眼鏡の奥の瞳を和ませ、アイリッサはもう一度くるりと身を翻して自分を見上げてくるリアンを見下ろした。
じっと、不恰好な黒縁の眼鏡の奥の瞳を細めてじっとリアンを見回し、彼女は笑みすら浮かべずにゆっくりと唇を動かした。
「もう一度」
「……お帰りなさい、義姉さん」
搾り出すように言葉にしながら、リアンはかぁっと自分の顔が真っ赤に染まるのを感じていた。
義姉さんと呼ぶのはどうにも未だに抵抗がある。いや、本人がいないところであれば口にするのもたやすいのだが。
戸籍上の姉と弟となって四年――そう、挙句そう長いこと一緒にいる時間があった訳ではなくて、ただ便宜上のことと思えば気安く「義姉さん」などと言い難い。姉と弟になった当初は彼女は未だ独身で、彼女の好意として本国キドニカではなくコリンの暮らすシュトラーゼに一年近く滞在してくれた。その間にもリアン自身はコリンの屋敷に暮らしていたのだから、昼間の間だけ顔を見せる義姉と姉弟としての時間をたっぷりと共有していたとは言いづらい。
だというのに、彼女はまるで産まれたその時からの付き合いとでもいうようにリアンに接した。
下町で食べ物にも困る有様であった彼を。
彼女の友人であるコリンを誘拐した犯人の弟である彼を。
実の姉を、殺した彼を。
そして、唯一の肉親となっていたリアンの祖母を医者に診せ、看取ったのもアイリッサであった。
リアンにとってアイリッサとは、決しておろそかになどできない恩人である。
そのアイリッサもさすがに独身時代には船を所有していたりはしなかった。
彼女が現在使用している船【ホープスグリーン号】はヴィスヴァイヤが結婚の祝いの品として彼女に進呈したものだ。
――このことについてウイセラは今も時々恨み言を口にする。
彼の実質上の夫婦生活と言えば、新婚時の三ヶ月がせいぜいで、落ち着いたと思った頃合、船を贈った途端、アイリッサは仕事に生きる女になってしまったのだから。
そのアイリッサはじろじろと甲板から不躾にアンリを眺め回し、やっと口元に笑みを浮かべてみせた。
「ただいま、リアン」
先ほど「出港します」と言ったことなど忘れたかのようにほんわりとした微笑みを浮かべるアイリッサに、リアンは顔を赤らめながら応え、ドゥマーニは更に汗を流しながら「おくさーまぁぁぁ」と泣き言をもらした。
***
親指を第二関節のところで折り、同じく人差し指を折る。
順番にゆっくりと、数字を数えて――片手では足りなくて、今度は反対側、小指を起こし、薬指を起こしてゆく。
そうして八つ。
八、そう八日。
「よし、そろそろいいか」
アルファレスは脳内で思った言葉をそのまま音にした。
アルファレス・セイフェリング。
ふわりと多少癖のある淡い金髪の猫毛に、翠の瞳。その口元には柔らかな笑みがあり、淑女の溜息を誘う美貌の持ち主であることを十分に意識した青年は、自分の中で八日という日数を納得させた。
一日や二日では駄目だ。
三日やら四日でもまだ少し早すぎる。五日を過ぎればそろそろ良いだろうとは思うが、いやいや、まだじっくりと間をあけるのが良い。
何事もしっかりと熟成期間が必要だ。
八日。
そう、このくらいが丁度良い頃合。
――少し間をあけて、相手になど少しも興味がないようなそぶりで。ほんの偶然を装って。
今頃彼女は少しでもアルファレスのことを考えているだろうか。
いや、未だ彼女が考えているのがエイシェルのことであろうと構わない。あの女は自分を無視などできないだろうから――何だか激しくムッとするものがあるが。
「会いたいならさっさと会いに行けばいいと思うのですけどね」
思わずぼそりと本音を口にしてしまったフレリック・サフィアは慌てて自分の不用意な口を両手で塞いだ。
「――誰が会いたいなんて言ったかな?」
「……」
「そもそも、誰の話だい、フレリック?」
突然の指摘に実際は心臓が跳ね上がったことなどおくびにも出さずに、アルファレスはテーブルの上のティカップへと手を伸ばした。
多少動揺の為に指先が震えたが、それに気付いたのは誰もいないだろう。
そう、自分ですらも。
「え、えーと、あのっ。ぼく、ちょっと用事がっ」
フレリックは自分の失態をいやというほど理解していた為、愛想笑いを浮かべてひゃーっと部屋を飛び出した。
「――あんまりうちの子を苛めないでちょうだい」
アルファレスのすぐ上の姉、セイフェリングの次女であるリファリアが嘆息交じりに言いながらビスケットに手を伸ばす。その眼差しはあきれ返り、そして口元には軽い嘲笑が浮かんでいた。
「自分の思う通りにいかないからって」
「リーファ、姉さん――ぼくはいつだって完璧だよ」
「あらそう?」
その「あらそう?」が明らかにあけすけでアルファレスは自分の敗北を認めて肩をすくめた。
完璧。
もちろん、完璧なんかではない。
自分の思う通りにいかなくてどれ程苛々を募らせているか、リファリアにまで見透かされてしまうなど末期もいいところだ。
アルファレスはこのままこの話題を続けたくはないと話題を変えた。
「ところで、最近は何を研究しているんだい?」
リファリアは自称錬金術師だ。
そして、フレリックはその弟子という名目でこの屋敷内で走り回っている。
話題を変えて姉に問えば、リファリアはつまらなそうにぱりんとビスケットを齧った。
「農薬の研究。
植物の育成を助長させる為の農薬の研究。既存の野菜を今のままの味で大きくできたら役に立つでしょ」
「いつも思っているけれど、それは錬金術なのかい?」
錬金術とはその名の通り、金を練成するものではないのであろうか。
「あら、錬金術よ。
私はね、お金になる研究をしているの」
確かに最終的に金に変わればそれは錬金術なのか?
アルファレスには少し理解のできない話だが、リファリアは昔からこの調子なのでこの先もかわることは無いだろう。
「ところで、リーファ」
「なによ?」
「最近クロレア姉さんを見ないね」
ふと思い出したようにアルファレスが言えば、リファリアは微妙な表情を浮かべて眉を潜め、更に追加のように首をかしげた。
「そう、何でかしらね?」
もちろん、アルファレスが追い出したからなのだが、追い出した当人はすっかりとそれを忘れたらしい。
何故なら、彼には他に色々と考えなければいけないことがあるのだから。
……主に暦を数えたり。