プロローグ
遠く、近く耳を掠めるのは急遽建設が急がれる奥宮の建築音。
それまでは本宮で自由に暮らしていたというのに、急遽前宮を含めて三つ――彼女の安全の為にその園は急激な勢いで造られていく。
それは何よりも大事な姫君の為の……棺。
決してもう二度と害されるようなことのないように。
ふんわりとしたシフォンのドレスに身を包み込み、生誕の儀式に下賜されたという紅玉の首飾りを下げた小さな少女は、薄い唇をぐっと強く噛み締めて身を震わせて涙を堪えていた。
決して泣くものかと決意に溢れ、けれど潤む瞳は今にもこんもりとした涙粒を落としてしまいそうに揺れていた。
――そっと、小さく名を呼べば感情を決壊させぬようにと睨み付けてくる。
「私は……泣く資格など無い」
泣くことに資格などもとより必要がない。
そう伝えても、まるで憎むように睨み付けてくるだけで必死に耐え続ける。
それは未だ稚さの残る細い体にはあまりにも痛々しい姿であった。
泣くことも笑うことも、誰も止めることなどできないし、そんな権利はありはしない。けれど彼女はその時に決めたのだ。
――もう決して泣かないと。
今にも溢れてしまいそうな涙を称えた眼差しで、必死に宣誓した。
「いいえ、泣いてもいいのです。
泣いても、怒っても、笑っても。あなたの望むままに」
切々と訴え続けても、彼女はその頑固な性格のままに自らの内に涙を封じた。たとえ何があろうとも泣いたりなどしない。涙は唯一定めた相手の為のもので、それ以外の為には落とさない。
「私は、もう友など作らぬ。
誰も……誰も裏切ったりしないように!」
悲痛な声が脳内ではじけて、そして……――ばしゃりと顔に掛けられたものが何であるのか判らず、グリフォリーノ・バロッサは呆然としながらみずからの前髪から滴るものを眺めた。
さらさらと落ちずに、少しばかり粘つくような感触。
近すぎて焦点が合わずにそれを諦め、ついで視界に入れたのは冷ややかな主の姿。
「……甘い」
滴る液体が唇に触れ、その味が広がる。
「喜ぶが良い。私の為の木苺のジュースをたっぷりと受けたのだから、さぞ幸せな思いをしておろう?」
冷ややかな言葉と同時に、横合いからタオルが示される。侍従から手渡されるそれで顔をぬぐえば、純白のタオルが確かにほのかに苺色に染まった。
それを眺め、主の手元から従僕の手へと移るゴブレットを眺め、そしてグリフォリーノは眉間に皺を刻み込んだ。
彼の主は時折とても理不尽ではあるが、だからといってこのような暴力を振るうことは滅多に――たまにはあるが、滅多には無い。たいていの理不尽には一応の理由はあるものだ。
「殿下。私の何が殿下の不興を買ったのでしょうか」
「私の宮で堂々と昼寝をしておいてそういうのか?」
「僭越ではございますが、私が昼寝をしているのは良くあること。
水を掛けられるまでは想定内ではございますが、殿下の大好きな木苺のジュースをかける程のこととは思えません」
何かがとても我慢ならなかったに違いない。
寝言で女の名前でも口走ったであろうかとグリフォリーノは訝しんだが、たとえ女の名を口走ったところで主がそんな可愛らしい反応を返すとは思えぬ。何より、先ほどまで見ていた夢はどう考えても主の夢だ。
――はじめて主の心に傷ができてしまった日の。
正確に言うのであればその数日後の出来事。
何故なら、当時グリフォリーノは主の許にいなかった。全ては終わってしまった後の話で、慌てて駆けつけたところで後の祭り。
広い部屋で一人身を縮めて、泣きたくても泣けない状態で次期女王であるシルフォニア皇女はぎゅっと自らの手を握り締めて遅参したグリフォリーノを睨み付けていた。
――お前が居なかったから。
お前が居れば。
そう、罵ってくれた方が何倍もマシであった。
小さな体で全て自らが悪いと決め付けて。
「私が何も知らないとでも思っておるのか?」
「……何のことでしょう?」
「シラをきりとおせると思っておるのか?」
厳しい言葉に、その憤りに――グリフォリーノは全面降伏を強いられた。
乱暴に髪から滴る木苺ジュースをぬぐい、肩をすくめて。
「――うさぎを穴倉から追い立てるくらい何ほどのことでもない」
「このっ、愚か者がっ」
言葉と同時に、シルフォニアは本気の憤りをぶつけた。
もしその手に未だにゴブレットが握られていたのであれば、彼女は何の躊躇もなくグリフォリーノへとそれを投げつけていただろう。
もちろん、甘んじてそれを受けるだろうが、だからといって嬉しいことではない。
「殿下。
殿下はコリン・クローバイエを召喚なさりたいのでしょう? だが相手は病気を口実に幾度もそれを断る。
ならば病気などという理由で断ることのできないようにしてしまったのみ。何故そのようにお怒りになるのか……」
今までも病気などという戯言を信じていた訳ではない。
だが、それでもその病気の原因が王宮にあるのだから無理強いしなかっただけだ。そして少なくとも今は病気などでは無いと暴露されてしまった今、あちらとしても容易く王宮の召喚を逃れることはできない。
偽りの病で逃れ続ければ、今度こそ不敬罪なり強制的に引き立てることもしよう。
いつまでもいつまでも我が主を蔑ろになどさせおくものか。
その思いでついでに動いた行動だ。
だが、面前の麗しの皇女はそれに対し身を震わせて怒りを見せた。
「殿下?」
「お前には――」
ぐっと引き結んだ唇を噛み締めたシルフォニアに、グリフォリーノは眉間に皺を刻んだ。
「殿下。いけません。そのようなお顔をなさっては」
「お前がさせておるのであろうがっ」
ぎしりと奥歯を噛み締めて怒鳴ると、シルフォニアはくるりと身を翻した。
「殿……」
「呼ぶな――」
ばっさりと切られた言葉に言葉が止まる。
しかし、グリフォリーノが思うのとは違う返事がその背より返された。
「彼の者を、もう……呼んではならぬ。
もう二度と――よけいな真似はするでない」
すたすたと遠ざかる背に、追いすがるように手だけが伸びた。
だがその手は相手を留めることができずに宙をかく。
小刻みに震える肩が、声が、シルフォニアの怒りを――哀しみをおしかくし、グリフォリーノは唖然とそれを見送った。
――会いたいのだと思っていた。
会いたくない訳がないと。
唯一彼の方が友と言うコリン・クローバイエ。
幾度の召喚にも応じず、病気と偽り続けた女。
幾年も過ごして尚、シルフォニアの心に傷をつけ続ける女。
「グリフォリーノ様」
そっと呼びかけられ、その相手に木苺色に染まったタオルを乱暴に押し付け、グリフォリーノは乾いた笑いを浮かべて見せた。
「ロット」
「湯をお使いになったほうが宜しいですよ。今準備させておりますから」
「ああ――なぁ、ロット」
髪をかきあげれば未だに木苺で濡れた髪が流れて張り付く。白手すらも汚れ、それを多少の苛立ちとともに引き抜きながら、やれやれと肩をすくめたグリフォリーノは冷ややかな眼差しでそれを眺めた。
「どうやら不興を買ったようだ。
どうせなら蟄居とかお休みを下さればいいのになー……きっと暫くは外勤か、外の井戸掃除とかやらされるぞ」
「丁度溝掃除がありますよ」
自らの従僕が楽しそうに言う言葉に、グリフォリーノは嘆息した。
「この間ネズミ捕りしたばかりじゃないか」