エピローグ
新聞がぐしゃりと音をさせ、そのインクが手を汚すのも厭わずにボートル・フェミングは「よっしゃあっ」と唾を飛ばす勢いで声をあげた。
どんっとついでに机をたたいたものだから、テーブルの上にあったカップから煮出したようなコーヒーが零れ落ちる。
「なんなのよ、うるさいわねっ」
反対側のテーブルの掃除をさせられていたクロレア・セイフェリングはぎろりとボートルを睨み返したが、相手は上機嫌で歯をむき出して笑い出す始末だ。
「ギフォート子爵が事故死だってよ。
事故死? 事故死? ありえねーっ。
きたね、きたよ。これでオレのネタが売れるってなもんだよっ」
いいながらざかざかと自分の机の引き出しを引っ張り出し、中から文字がびっちりと書かれた紙片を引き出す。
その様子に呆気に取られたクロレアであったが、売れるという単語にすばやく反応した。
「私のお給金出るんでしょうね?」
「なんでお前さんの給料を出さないといけないんだよ? お前さんが働いているのはお前さんの依頼料だろ」
「なんですって? こんなに働かせておいて給金を出さないつもり? 訴えるわよっ」
ぎゃんぎゃんと吼えるクロレアに片耳をふさぎ、ボートルはふんっと鼻を鳴らした。
「ギフォート子爵の死の謎。
連載四回くらいでいけるんじゃねぇか? 事故死なんて嘘っぱち。馬鹿な賭けに手を出して【忠誠の証】を手放しちまった罪で、絶対に上に秘密裏にやられちまってるね。こいつは処刑さ。王宮の暗黒面ってヤツさね」
その上機嫌な男の手から新聞をひったくり、クロレアは問題の記事を探すように視線をさまよわせたが、そこに品の無い挿絵付きの記事を見つけて発狂し、あまりの低俗さにぐしゃりと新聞紙を丸め込んだ。
「こらっ、まだ全部読み終わってねぇのにっ」
「キャアっ、インクっ。インクがついたじゃないのっ。どうしてよっ。ありえないわっ。ちゃんとアイロンくらいかけなさいよっ」
手が途端に真っ黒に汚れたことに更に金切り声をあげるクロレアに、ボートルは「うっせぇよ」と言いながら新聞を取り返し、ぐしゃぐしゃに丸められた記事を平たく伸ばしたが、アイロンを掛けるなどという手間をかけない新聞の表面はインクが伸びてどうにも読みづらい。
顔をしかめて新聞を屑入れに放り込み、内心でクロレアのツケを更に上乗せしておいた。
――世の中の連中は未だ子爵が死んだ本当の理由を知りはしない。
これは絶対に金になる。
ほくそ笑むボートルであったが、丁度その時来客を知らせるカウベルの音に視線をあげ、途端に顔に苦いものを張り付かせた。
「おや、旦那……何かご依頼ですかい?」
扉を押して入ってきたのは一見してただの船乗りのようだ。どこかこすりつけたような汚れたズボンと色あせた生成りのシャツ。ズボンが落ちないように肩がけのベルトをして、汗を拭くためのスカーフを首に引っ掛けている。
同じくくたくたにくたびれた帽子をひょいと持ち上げて、相手はにっかりと笑みを浮かべた。
「ただの杞憂なんだけどさ――よけいなことをしでかす人間がいないかと思ってね」
「……世の中っつうのは色んな人種がいやすからね」
「ああ。困ったことにね。
自分の命を大事にしない人間が多くて困るよ」
まったくだというように話をあわせていた相手は、ふいにぴらりと一枚の写真を取り出した。
写真。
それは実に貴重な一枚だ。未だに写真機は高価すぎて一部の好事家――もしくは道楽家のもとにしか存在しない。
差し出されたそれを見れば、二人の人物が写りこむ。
男のほうはピントが少しずれているのかわかりづらいが、その着用しているものが近衛隊の隊服であることは見て取れる。逆に女のほうはしっかりとピントが合わせてあるのか、その麗しい面がはっきりと映し出されていた。
「先日偶然とれた一枚。お前さんにあげるよ。好きにしたらいい。
街道沿いでおこった馬車強盗を近衛隊が救い出したセンセーショナルな事件だ。救い出されたのは死んだと言われていた娘。その存在を消し去られていた娘、なんていえば結構ミステリアスだね。
どうだい? なかなか面白そうな話だろう? 売れると思わないかい?」
――確かに、悪い値ではないだろう。
だが、ボートルが書き溜めていた記事に比べるべくもない。
グリフォリーノ・バロッサ、そしてコリン・クローバイエからの依頼により色々と調べた結果自らが導き出した解答を面白おかしく記事に仕立て上げればどれ程大きな事件になるか。
貴族の没落は市民達にとっては何より楽しい娯楽であり、貴族達にしてみれば腹立たしいとは言っても所詮は他人のこと、やはり口さがなく嬉々として記事に食いつくこと間違いなし。
ボートルは写真と面前の相手――どう考えても写真の中の男と同一人物は口元を引くようにして笑っている――とを幾度か交互に眺め、先ほど引き出した自ら書き溜めて置いた書類をぐしゃりと丸め、屑入れの中に放り込んだ。
「……命の値段にしちゃあ安すぎる」
溜息交じりのぼやきに、相手は机の上に無造作に置かれている葉巻に手を伸ばした。
先端をナイフでカットして、同じくテーブルに置かれている燐付きのマッチで手早く火をつける動作はさらりと流れ、何の躊躇もない。
ボートルは頭の中でその値段をぼやいて舌打ちしたが、ぽぅっと息を吹きかけて炎を強めて今度は逆に紫煙を吸い込んだ男は、じわじわと先端を燃やす葉巻をぽいと屑入れへと投げ入れた。
はじめのうちこそ何の変化も見せなかった屑入れが、やがてかさりと小さな音をさせて白い煙をあげ――ぼわりと大きな炎になっていく様を見届けるのにさほど時間は必要としなかった。
「うわぁっ」とボートルが火事を懸念して慌てる声に重なり、それまでおとなしくしていたクロレアが「何するのよっ」と騒いだが、相手は実にあっけらかんとした様子で机の上にあったコーヒーカップを持ち上げ、中身をかけた。
もともと屑入れも陶器である。紙の束は一瞬のうちに大きな炎に包まれはしたものの、そのまますぐに沈静化し、コーヒーの水分によってすぐにくすぶった。
「安い? とんでもない。
自分の命より高いもんなんて無いさ。判ってないな」
楽しげにくるりと背を向けて出て行く相手を見送り、ボートルはぐったりと安物の椅子に座りなおした。椅子がぎしりと音をさせることすら今となっては忌々しい。
「何の写真よ?」
顔をしかめてクロレアがテーブルの上を覗き込み、写真の人物が誰かと気付いた途端に金切り声をあげてその手を伸ばそうとする。
慌ててボートルは体を起こし、相手の手からその大事な写真をひったくった。
「ふざけんなっ、コレまでなくなっちまったらこちとらおまんまの食い上げだっ」
そう、せめて。
小遣い程度の稼ぎにはなってもらわないと困る。
大事な雇い主を売るような真似――仁義に反するなどと言う気は無い。何より、新聞社と自分とは表向き関係が無いのだから。
ボートルは大慌てでその写真を手に新聞社へと駆け込んだ。
近衛隊の人気取り記事とは判っていても、それでも新聞屋は記事の穴埋めとして上等だと認めることだろう。
何といっても、映し出されているのはコリン・クローバイエ――この数年、病弱で臥せっているといわれ、もうすでに死んだだろうとまで言われていた娘が生きていたのだ。
しかも、その美貌は間違いなく母譲り。
隣国キドニカ、セアン伯ハディント家の令嬢アリシェイラの娘。
アリシェイラの死に深く関わったが為に家人に疎まれているとは有名ではあるが、もう一つ彼女には有名な事柄が存在する。
――母の死により母の財産及び王宮からの慰謝料として彼女には莫大な信託預金が存在するという。
この日、穴倉のウサギはキツネによって巣を追い払われ、草原に放り出された。