その3
何かに突き動かされるように大きく瞳を見開いて、コリン・クローバイエが息を詰めてその視界に入れたのは自身の部屋の天井であった。
視界の隅に写りこむリアンは――今やすでに普段通りの女装姿のリアンは、ほっとした様子で息をつき、すぐに水差しを持ち上げ、中の水をグラスに落とし込んだ。
氷が入れられているのか、グラスがからからとさせる音が本来であれば心地よい筈であろうに、今は僅かに心を引っかく。
「ご気分はいかがですか?」
「……叔父さまは?」
「ウイセラ様は本邸の方に。コリン様の近くにいたがりましたが、今は顔を合わせないほうがよろしいかと思いまして、こちらには顔を出さないようにと旦那様が留め置いてございます」
そう……
コリンは喘ぐように呟き、差し出されたグラスを受け取り、こくりと一口喉へと流した。
半眼に伏せた眼差しでグラスの淵を見つめながら、何故自分が寝台にいるのかと考える。
アルファレス・セイフェリングの馬車で帰宅し、アルファレスの手前本邸で馬車をおろしてもらった。
そのまま屋敷奥へと入れば中はあわただしく、執事すら出てこない。
もともとこちらはコリンの屋敷ではないのだからと勝手に客がいるという客間へと進んだコリンが見たものは、インク壷を盛大に転がしたかのように汚れた部屋であった。
一箇所だけ飛び散るのとは別に大きなシミを作る場所があるが、おおまかに言えば部屋を汚しているのは飛び散った血シミ。
そこで何が起きたのかと問いかけるその言葉は喉の奥で凍りついた。
転がっている男ではなく、コリンの意識を絡めとったのはその中で苦笑するウイセラであった。
額から血を流し、それを汚れたハンカチで押さえているウイセラは、その腕にも足にも小さな傷を受け、衣類は変色した血によって汚されていた。
――悲鳴と混乱。
むせ返るような血の香りと、そして鼻腔をついたものが火薬の燃えカスだと気づいた途端、まるで何かがカチリとはまり込むかのように自らの内で破裂した。
全ての色が失われ、黒と白の記憶がコリンを飲み込んでいく。
一発の弾丸の音は世界を分断し、もう一発の音がそれ以外の音という音を全て消し去った。
周りに居る人間達の口だけがやけにせわしなく動いているのだが、何かを言っていたのだとしてもすでにそれはコリンにとってどこか別の世界のものでしかなかった。
「母さまっ」
母さまっ、母さまっ。
――どうしてっ。
どうして母さまっ。
金切り声の悲鳴を一音。
それだけで、世界はもう一度音を取り戻し、色を溢れさせ、そして――意識は闇に、落ちたのだ。
波が引いていくように静けさを取り戻したコリンは、今一度自らの部屋であることをゆっくりと確認し、そっと息をついた。
「……叔父様のお怪我は?」
本来であればウイセラには色々と詰め寄って言いたいところだが、まずは怪我の具合が先だ。
勝手にグリフォリーノ・バロッサと裏取引をしていたことなどを責めるのは後。そう、今回の損害の多くを補填する為にその責任を取らせるのは後だ。
「怪我自体はたいしたことはありません。ただ少し切り傷の数が多いだけで――コリン様は大丈夫ですか?」
「私は、大丈夫です」
淡々と言葉を返しながら、何故自分がここに――寝台にいるのかは承知した。
ウイセラの怪我と、そして血を見て気を失ったのだ。
なんと脆弱なことであろう。
たとえウイセラが死んでしまったとしても、自分はきっと取り乱したりなどしないものと思っていたというのに。
蓋をあけてみれば、たかがあの程度の怪我と血で気を失った。
もちろん、ウイセラの怪我というものだけで気を失った訳では無い。母の死の瞬間を重ね合わせてしまった為だろうけれど。
「そういえば……もう一人転がっていたような」
「そちらの方はすでに役人に引き渡してあります」
さらりといい、そして今度は少しばかり言いにくいという様子で付け足した。
「クライス・リフ・フレイマ様です」
「死んだのですか?」
よく判らないが、血溜まりに転がっていたのがクライスであるという言葉に瞳を見開いて問えば、リアンは苦笑するように首を振る。
「それにしても、何故? 何があったのです」
「クライスは【忠誠の証】をウイセラ様に向けて撃ったそうです」
――本来の【忠誠の証】を撃てば、どちらにしろ自滅しか無い。だが、今回のはそういう意味ではないことは、コリンは良く判っていた。
あの銃が暴発するように銃身に細工をしたのはコリン自身なのだから。
――特別に作られたあの銃は鋲を焼いた嵌め殺しとして作られ、バラバラに分解することも適わない。作成の途中で弾丸が一つだけ入れられ、新たな弾も受け付けない。
たった一発だけ撃てる銃だが、その意味が示すものは自決だ。
逆らうのであれば死ねと示す王宮からの強い思惟。
「あの銃を……撃った?」
コリンは低く声を抑えて口にした。
そも何故にクライスがあの銃を手にできたのだ。
あの銃はコリンの自宅に飾られていたというのに。
ああ、だがそれは後でもいい。
問題は――
「はい。その為に銃はクライスの手元で暴発し、ウイセラ様は破裂した銃の破片を幾つか受けて怪我をなさったようです」
「あの銃を――」
コリンは起こしてた体をぱたりと横に臥せさせた。
無言の突然の動きにリアンが「コリン様?」と問いかけると、コリンからは「――痛手が、マイナスが」と怨嗟のような呟きが聞こえてくる。
慰める言葉も無いとリアンが諦めると、まるで頃合を見計らうように寝室の扉がノックされ、中の応えを待たずに外側から扉が開かれた。
ウイセラであればすわ嫌味を向けてやろうと身構えたリアンが、相手がヴィスヴァイヤの総領であるセヴァランであった為に一瞬ぎょっと息を詰める羽目に陥った。
柔和な顔に少しだけ苦笑を称え、リアンの姿に「リアン、そろそろ無理があるだろう」と揶揄するように肩をすくめて見せる。
「まぁ、もちろん。並の女性よりずっと美しいが――おや、コリンは未だ目を覚まさないかい?」
その言葉にコリンは顔をあげ、身を起こした。
「お父様」
「ああ、楽にしておきなさい。気を失ったときいて心配した」
リアンはそれまで座っていた席を退き、寝台の足元に立つ。
しかし、セヴァランは空いた席に座らず、コリンのいる寝台にどさりと腰を落ち着かせて身をひねるようにして娘へと手を伸ばした。
冷たい手がひやりとコリンの頬に触れる。
コリンはその手に幸福そうに瞳を伏せた。
「お父様、ご報告したいことがございます」
「うん? 何か急くような問題でもあったかな?」
コリンはゆるりと瞳を開き、父の眼差しにぴたりと合わせてゆっくりと呼吸を整えた。
「クライス・リフ・フレイマ様との婚姻は白紙に」
「うん。で、理由は?」
「あの方では何の利益もあがりません」
あっさりと言い切る娘に、父親であるセヴァランは喉の奥を鳴らして笑い、ついで楽しげに言った。
「はい、不合格」
あまりのことにコリンは呆気に取られた。
不合格――まさか、父がそんな言葉を口にするとは思ってもいなかった。
否、そういうこともあるとは理解していた。
これは自らに出された課題であったのだから。
だが、間違いなく合格と言われるものだと思っていたのに。
「まったく、まだまだだね、コリン。
まぁ、今回の話は白紙で結構。あとのことは全て私が引き受けよう」
珍しく呆然としてしまったコリンの頬に自らの頬を一回摺り寄せ、セヴァランはすっと立ち上がった。
「お父様っ」
「何だい?」
「私はっ、私は何を間違ったのでしょうっ」
すでに不合格が言い渡された事柄に、今まで父に求めなかった回答を求めた。
胸のうちに飛来するのは激しい動揺だ。
――父を失望させた。
その思いがぐるぐると体内を駆け巡り、鼻の奥からつんとしたものが競りあがる。セヴァランは一旦足を止めてそんな娘を見下ろし、苦笑した。
「利益は出ないと結論付けたようだけれど、コリンは一方の視点でしかものを考えていない。間違ったというのであればそこだな。
まぁいい。この話はもうこれでオシマイ。これ以上の回答を私に期待しても無駄だよ」
すっぱりと面前で切り捨てられた。
父の背を見送ることもできずに、コリンは動揺に打ちのめされ――そんなコリンにリアンはどう声を掛けるべきだろうと逡巡した。
「……別の、視点」
「あの、コリン様大丈夫ですか?」
別の視点とは何であろう。
クライスにまた別の見方ができたと父は言いたいのか? 箸にも棒にも引っかからず、むしろマイナスになってしまうのでは無いかと結論づけたが、それが早計であったと?
だがクライスは自ら【忠誠の証】の激鉄を起こす愚か者だ。
どう考えてもこの先の未来は明るくはない。たとえ、彼が撃った銃が彼自身のものではないとしても、それは王宮に弓引く行為に他ならない。
だがそれは結果論で、もっと別のアプローチをしていればコリンの手元にあった【忠誠の証】は最大の武器となり得、莫大な利益をもたらしたことだろう。
しかし、その銃も暴発してしまったというのであれば今は残骸。
――へたをすればそれが【忠誠の証】であったのかどうかすら判らない鉄と木片。何故、どうして暴発などという愚かなことに……それはもちろんコリン自身が仕掛けた細工だ。
その希少性もさることながら、ただたんに手入れも出来ないお飾りでしか無い銃を毛嫌いしてしまった結果。
「負け……敗北」
やっとその結論を納得し、コリンはふるふるとわずかにその肩を震わせた。
赤字で、惨敗で、敗北――
不穏な空気に包まれた主の姿に、リアンは左手で宙をかいてまさに手をこまねいていたが、やがてそっとその場を退いた。
八つ当たりで更に給金を下げられてしまってはたまらない。
「先物取引……いえ、先行投資? 別視点って――」
コリンが答えを求めてぼそぼそと呟いているのを尻目にそっと扉を閉ざし、その美しい二枚扉に背を預けてリアンは大きく息を吐き出した。
何はともあれ、婚約は白紙に戻った。
数日もたてばコリンも立ち直ることだろう。
どちらにしろこんな結婚はコリンには相応しくない。
ではどんな相手であればコリンに相応しいかと言えば――リアンはふと自らの手の平を眺めた。
今は白手すらつけていない手。
手入れが行き届き、女性のような滑らかさを見せるのはいちいちオイルを塗りこめてやわらかく綺麗になるようにとマッサージを施しているからだ。
滑らかな手でなければナイフもカードも鮮やかに扱えない。
この手はコリンの代わりに全てを成し遂げる為のもの。
――お嬢様を護ってね。
実の姉の言葉は……今もリアンの胸にいつでもよみがえる。
それと重なるように柔らかな声が囁く。
――コリンを護ってあげてね。
リアンはきゅっと唇を引き結び、何も掴んでいない手を握りこんだ。
***
暮れて行く太陽を背に泣き笑いの顔で立つ幼馴染の頬は扱け、目の下にははっきりとした疲れが見て取れた。
だが、彼女の笑みは――今にも泣き出してしまいそうな色を滲ませてはいたものの、それは以前見た表情よりは随分とマシに思えた。
それは自分勝手な希望かもしれないが。
聞き役に徹したアルファレスに、一つ息をついて言葉を切ったアリーナは、今度は苦笑するようにして問いかけた。
「薄情だと思う?」
「さぁ、どうだろうね」
薄情かどうかで言えば、薄情ととる人間もいるだろう。だが、もともと彼女を捨てたのは男のほうだ。
「キドニカはこちらの国とは随分と制度が違っていて、女性でも一人で仕事をして暮らす人もいるのですって。
知り合いの方が、女学院の講師として働いてみないかというから――」
「根っからのお嬢様なアリーナが働けるかな」
「自信はあまり無いけれど、ここで暮らしていくよりもずっと自分らしく生きていけるとおもうのよ」
揶揄するような言葉が口をついたのは、少し意地悪な気持ちになった為だろう。
アリーナはアルファレスなど必要とせずに勝手に恋をし、破局し、そして立ち直ったそぶりでそこにいる。
それが虚勢かもしれないとしても、彼女は自らの足で立っていた。
「婚約話は立ち消えになったの」
そう切り出したアリーナに、誰の?などとは言わずに「おめでとう」と口にした。
それが彼女のもともとの望みであった筈で、それはすなわち彼女の幸せの筈であったから。そのおめでとうが自らにも向けた言葉のようにも思えて、どこか皮肉な響きを持っていたのは否めない。
――アリーナの男の婚約解消はすなわち、あの女の婚約の立ち消えだ。
翡翠の眼差しに淡い金の髪。
今にも消えてしまいそうな程の麗しさを持つ癖に、その実その心は水晶で作られたハンドクーラーよりも冷たい。
その平坦な眼差しが、意思をもって自らの従僕に対峙した時の強さを思い出せば、腹の底にある鉛がどろりと溶けて不快が広がった。
叱責を色濃くした眼差しを、口調を――何故、ああも容易く手に入れる者がいるのだろうか。
無理矢理その頬に触れて面を上向かせたとしても、あの瞳は雄弁に語るだけだ。
お前など知らないと。
まるで面前にあって面前にないもののように。
当初思っていた女では無いのだろう。
勝手に決め付けた悪女ではないのだろう。
だが、あの女程アルファレスの心をずけずけと傷つける女はいない。
半眼を伏せて不快をやりすごすアルファレスの前で、アリーナは淡々と語り続けた。
「――詳しくは判らないけれど、あの人が言うには……もともと結婚するつもりは無かったとか」言葉にして、アリーナは呆れたように息をついた。
「好きじゃなかったとか、そんなつもりは無かったとか――挙句、あの女性のことは利用して捨てるつもりだったとか。言葉を募らせれば募らせる程、あたしの中で何かが砕けていくような気持ちになったわ」
――ことの真相は単純で、一方で見れば彼女もただの被害者だ。
だが、そう今更言われても素直に彼女に対して哀れむような気持ちになれないのは何故だろう。
差し出された婚約者がどんな者であろうと構わないというあの態度。
利害が合致すればそれでいい。
それは確かにある意味貴族的な思想だろう。
貴族の令嬢は結婚に対して「安寧」しか求めていない。それこそ、相手が父親より年寄りであろうとも、その後の生活が安泰であれば嫁いでいくのだ。
あの娘も――彼女も、それと同じ。
貴族と同じように、跡継ぎさえ産み落としてしまえば他に愛人でも囲うつもりであったのか。
否、彼女はそんなことを考えたりしないだろう。
何故か、そう……思う。
アルファレスは半眼を伏せた。
だが何故か許せなかった。
どうしても何かが引っかかるのだ。
誰でもいいのだと示し、簡単に婚約破棄すら決めてしまう。その思考がちっとも見えずにいらだつ。
利さえあえば――コリン・クローバイエはどんな人間でもいいというのか。
たとえば、あのグリフォリーノ・バロッサであろうと?
果ては――アルファレス・セイフェリングであろうと?
その考えに息が一瞬とまり、それを払うようにアルファレスは慌てて視線をあげ、面前のアリーナへと意識を戻した。
「今更何を言われても、心に響いて来なかったの。
戻ってきてくれれば、私はきっと喜んであの人の手をとるだろうって思っていたけれど、実際は違ったの。
ううん――これだけは言わせてもらうけれど、決してあの人の右手が……事故で失われてしまったことが原因ではないの。それとこれとは関係ない。ただ、あの人が強張ったような笑みで私に手を、左手を差し伸べても、あたしの心は喜びで満たされたりしなかった。むしろ冷たく凍っていくばかり」
未だ動揺を隠せないアルファレスの前で、アリーナは小さく笑むと、まるで内緒話でもするように声を潜ませた。
「アルファレス。
あなたがいろいろとしてくれたことは知っているの。リファリアが話してくれたから……」
次女であるリファリアがどのように脚色してアリーナに告げたのかは知らないが、アリーナはどこか困ったように眉宇をひそめた。
「それが理由で婚約破棄に至ったとは、残念ながらいかなかったようだよ」
「いいのよ。あなたがこんな私に何かをしようとおもってくれたこと、それが大事なの」
アリーナはきっぱりと言い切り、これで最後だというようにその手を差し出した。
「――結婚までしてくれようとした。
ねぇ、私……もしかして、貴方に酷いことをした?」
触れ合わせた手にしっかりと力を込めて、真剣に問いかけるアリーナにアルファレスは喉の奥を鳴らした。
「していないさ、アリーナ。
ぼくを誰だと思っているのさ?」
「そうよね?」
その言葉に落胆を見たような気がしたが、気のせいだろう。
――暗に自分のことが好きだったのでは無いかと示されて、アルファレスはそれを払拭する為にゆるりと首をふった。
「どうか、元気で」
幼い子供の頃に、無邪気に庭を駆け回った友人。
ころころと良く太っていて、それでも無邪気な笑顔が可愛かった。
今はそんな面差しも失くしてしまった友人を見送り、アルファレスは教会の屋根に飾られ、オレンジ色の太陽を反射させている十字架を見上げた。
――当初の思い通りの結末である筈なのに、胸に飛来するのは敗北感と気だるさという有様で、どうにも後味が悪い。
コリン・クローバイエとどこぞの男爵家の次男は破局した。
だがそれでアリーナは幸せになれたであろうか?
いいや、そんなことはこれからのアリーナ次第だ。
彼女は男のことをきっぱりと切り捨てて、他国に行くという。
男が差し伸べる手を拒絶して、多少ぎこちないまでもしっかりと二の足で立ち、進む。
「はなむけにもならなかったか」
ふるりと一度首をふり、アルファレスは寄りかかっていた柵から身を起こした。
「まぁ、いい」
今回は素直に敗北を認めよう。
見事なまでの惨敗だ。
なんとなく視線を落とし、自らの白手に包まれた手をきゅっと握りこむ。
何も得ることの無かった白い手を。
それはとても――苦い味をしているが、口元には奇妙な笑みが浮かんでいた。