その2
――一発の銃声は空気を切り裂く残響とは違い、くぐもった奇妙な音だった。
それと同時に聞こえた悲鳴は無様な程に崩れ、クライス・リフ・フレイマはその瞳を飛び出すのではないかと言うほどに見開くことになった。
ドクドクと心臓が怖ろしい程に鼓動するのを感じ、灼熱の炎に焼かれでもしたかのように激しい熱さが点った。
そう、それは痛みではなく身を焼く程の熱。
「ぐっ、ぎゃぁぁぁぁぁっ」
耳鳴りが音にビブラートをつけ、まるで右と左とで同時に同じ雑音を奏でる。それが何だか判らずに更に瞳を見開き、顔が揺れた。
獣のような咆哮を上げる――自分。
のたうちまわる自分。
それは銃を向けられた相手が見せる筈であったというのに、右腕を押さえるようにしてその場でくず折れ、どさりと横たわったクライスは、視界の端々に時折うつる飄々とした男を見返すことすらできない程の混乱の中で回答を探した。
――何が、何があった?
記憶を手繰り寄せることすらおぼつかず、見開いた瞳は硬直して閉ざすことすら出来ない。
手の中で小さな銃を玩具のようにもてあそび、楽しそうに笑みを浮かべるカロウス・セアンは肩をすくめてみせた。
焦点の合わないぶれたものとして。
「その銃は銃身に細工がされていて暴発しちゃうよって――言おうと思っていたのに、キミってば、きちんと人の話は最後まで聞かないと駄目だよ?」
楽しげに言う男の言葉が耳鳴りと自らの呻きでどこか遠い。
「まったく。おかげでこちらもとばっちりだ。
見てご覧よ。銃がばらばらにはじけたおかげで、オレも怪我をしちゃったじゃないか。ま、予想はついたから君よりは随分と軽度にすんだけれど、痛いし血は流れるし散々だね」
はじめは一点を集中する熱であったものが、徐々に他へとその舌先を伸ばしていくように痛みが分散されていく。
どろりとした粘液のようなものが目の端を流れ、眼球に触れて視界がぼやけたが、それを振り払うことすらできかねるのは、強い力で掴んだ指が離れようとしないからだ。
「ぐっうぁっ」
噛み締めた歯の隙間から嗚咽ばかりが漏れ、舌が怯えた小動物のように喉の奥で縮こまる。
「腕が痛いかい? そういう時は」
カロウスは心配そうに相手を覗き込んだ。
「他の所も痛くしちゃえば、そっちの痛みは些細なものになるよ」
言葉と同時に足に熱が点ったかのような激痛が走り、更にくぐもった言葉がもれた。どこからか駆け込む足音と扉を乱暴に開く音に、クライスは自分が助かるような錯覚を覚えたが、ここはもとより敵地。
コリン・クローバイエの――ヴィスヴァイヤの屋敷であり、現れた男は部屋の惨状に呆れたような声をあげただけだった。
「ウイセラ様……部屋が汚れております」
「お前ね、オレの怪我より先に部屋の惨状?」
「貴方はほうっておいても治りそうですからね。それより、絨毯が酷い有様じゃありませんか」
そういいつつも、ウイセラの片腕であるニッケルは手早くウイセラに近づき額にできた傷から滴る血をハンカチで拭い取った。
小さな破片が額に刺さったままで、無理に取るよりは今は放置したほうがよさそうだ。
額と腕に三箇所、足にも小さな切り傷が見て取れるが当人はけろりとしていた。
「ごっめーん。絨毯なら前回いいのを仕入れておいたから、八掛けでどう?」
「執事さんにどやされますよ。汚したのはどう見てもウイセラ様ですから、ウイセラ様の懐からおとなしく修繕費を出して下さい」
クライスがあえぐように必死に息を整えている上で、なんとも暢気な口調が繰り広げられる。
舌が痙攣するようで、息がしづらくてのたうつ男の前だというのに。
「ニッケルお前つめたいね。
いやいや、汚したのはこの糞ぼっちゃんだからね。オレじゃないよ。オレじゃ。
ああ。糞ぼっちゃんにツケとこう。ついでに部屋の模様替えもしちゃえばいいじゃない。それと王宮のグリフォリーノ・バロッサに連絡を入れて。この事後処理は警備隊じゃなくてあっちにしてもらわないと、後々面倒くさいからね」
言葉と同時に腹部にもう一度痛みを感じた。
朦朧とした意識の中で、ふぅっと自分の中の何かか閉ざされるのを感じ、やっと……やっと気を失えるのだとクライスは半ば安堵しながら、落ちていく白い闇の中で何故こんなことになったのだろうと呟いた。
ただの……
ただの遊戯であった筈なのに。
賭博場で作ってしまった借金を無かったものにしてやると向けられた甘言に、本命に直接対峙するよりは女一人騙すことなど容易いと――実に単純な遊びだと飛びつただけであったというのに……
「……アリー」
次に目覚めた時には、アリーナがいるだろう。
きっとこんなことは全てが夢で、アリーナ・フェイバルが微笑を称えているに違いない。
捨てた訳じゃない。
少しの間我慢させただけだというのに、アリーナは幾度もクライスを詰った。こっそりと届けられる手紙にも辟易としたし、彼女と居ることにうんざりとしたこともあったが、あの頃のほうが正しかったに違いない。
次に目覚めた時には――
「ぐ、ぎゃあっ」
すぅっと遠のきそうになった意識を、今度は冷たい冷水でもってたたき起こされる。見開いた眼差しに、カロウス・セアンは相変わらずの心配顔で小首をかしげた。
「痛いかい?
そいつは良かった。生きているって素晴らしいね」
「なっ、何……何を……」
「うちの義兄にちゃんと婚約話は無かったことにするとキミの口から伝えてくれるかな?
誠心誠意謝ってくれないと。あの子に傷をつけてもらっては困るんだ。
何たってあの子はオレの女王様だからね。
眠いかな? ナイフでも刺しておいたら起きていられる?」
ぐいと力任せに襟元を引き寄せられ、心底心配する口調でせつせつと落とされる言葉は優しさの欠片も無い。
だが、あくまでもカロウス・セアンの口調は柔らかく続く。
「ああ、右手がぐちゃぐちゃだねぇ。血が流れすぎると危険だよ?
安心しておくれ。血止めをしてあげるから。ふふ、大丈夫だよ、人間この程度じゃ死なないから。ちなみに、二の腕の辺りできつくしばるより怪我の箇所を鉄の棒ででも焼いてしまうほうがオススメだけど、それでいい?」
くわっと見開かれた瞳を最期に、クライスがぐったりとその意識を手放すとニッケルは首を振って嘆息を落とした。
「カロウス」
「ん?」
「焼く前に傷口をすっぱり切ったほうが良いと伝え忘れていますよ?」
***
コリン・クローバイエの額に怒りのマークが見て取れた。
一つ二つ、もしかして三つくらいあるかもしれない。
リアンは心配を通り越して笑い出してしまいたいくらいの気持ちになったが、コリンの気持ちは良く判る。
――黄金の銃。
それに対していくらの値をつけるとグリフォリーノ・バロッサに申し入れたコリンにむけ、相手は一瞬驚いたように瞳を丸め、ついで口元に笑みを浮かべて見せた。まるで幼子を諭すかのように。
「生憎と、値はつきません」
「――」
「あの銃に関して言えば、値打ちなど少しも無い。
なぜなら、受けた人間自身にしか意味は無く――その交渉をなさるのであれば、元の持ち主である子爵に向けるべきでしょう」
すらすらと言い、ついで小さく息をつく。
「ですが、その子爵も今頃は強制的に出頭させられていますし。何より姫君。
問題の銃はすでにウイセラ殿から当方に引き渡してもらえるよう交渉済みですので」
つまり、ありていに言えば――今回のことで儲けは何一つ無い。
なし崩し的に婚約の話は無くなるだろう。何より、クライス・リフ・フレイマと結婚したところで何の旨みもないとコリンは結論付けている。
もとよりコリンを騙すだけのみで近づいたのであれば、凡庸とは違うが所詮小悪党としか言いようが無い。他にもいくらでも手はあったであろうに。
悪事を働くのであれば相応の器を持ち、貫いて欲しいものだ。完全に利益がでるように。クライス・リフ・フレイマがそのような男であったならば、コリンを騙そうとも利用価値がある男として目することができるのだが。
結局はクライスは他の人間に借金という下らぬ鎖で繫がれ操られていたに過ぎない。
何故――何故、父はコリンへとこの縁談を向けたのか。
この戦争は敗北か?
それとも勝利と言えるのか――否、これは決して勝利とは言えまい。こんなものを勝利と定義付けるなど、自らの矜持を更に傷つける。
ぎりぎりと自らを締め上げる感情に、コリンは逆に口元に笑みが浮かんできそうであった。
「……」
コリンは不機嫌という面を貼り付け、無言で歩む。
その冷ややかな雰囲気をかもす背を追いながら、リアンはどう声をかけるべきであろうかと逡巡していたが、ふいにコリンが独り言のように呟いた。
「つまり」
つまり、その言葉のあとは続かなかった。
続く言葉をしばらく待ってはみたものの、彼女は自分の中で完結させてしまったらしい。リアンがコリンの名を呼ぼうかと思ったところで、後方から訪れた馬車が二人を一旦追い抜いて路肩で停止し、その気配にコリンとリアンの視線があがる。
黒塗りの箱馬車には金色の枠がはめ込まれ、中央には家を示す紋が堂々と光る。その紋を備えた木製扉が内側から開き、顔を出した男の姿にリアンは一歩コリンの前へと出かけたが、コリンの手がすっとそれをさえぎった。
「コリン・クローバイエ。この騒ぎは何だい?」
いいながらコリンの後方を伺うアルファレス・セイフェリングは遠くに見えている傾いた馬車と駆け回る近衛隊という奇妙なものに目を眇めたていた。
「キミの馬車を追って出たつもりだが、途中であの惨状だ――実に控え目な造りの箱馬車だけれど、あれはキミの家のものだろう? あげく、周りをうろちょろしている奴等ときたら近衛達じゃないか」
近衛隊など祝い事でしかお目にかかれないようなものだというのに、何故それが道端にいるのかも理解しがたい。
近衛隊といえば、なんとなく馬の合わないグリフォリーノ・バロッサが突然頭に浮かび、アルファレスは一瞬だけ眉を潜めた。まさかあの男がいるのではないかと更に目を細めて遠くを眺めやってもすでに判らない程距離はとられているのだが。
脳裏に描かれたグリフォリーノの腕の中にコリンが納まる様相にざわりと腹の内がざわめく。
それを隠すようにふるりと首を振り、ふと何故追いかけてきたのかを思い出した。
テーブルの上に残された贈り物の箱を。
十中八九、末の妹であるエイシェルへと用意されたものだと判っているが、どんなものであろうと利用できるものであれば利用する。
彼女の馬車についての惨状については当然の如く回答は帰らず、アルファレスは嘆息交じりに本題を口にした。
「キミの忘れ物を届けに来た。
それに、良ければぼくの馬車で送るけれど」
コリンはじっとアルファレスを眺めていたかと思えば、ふいに口元にゆるい笑みを貼り付けた。
「喜んで」
一瞬――細められた瞳の柔らかさと、口元の愛らしさに喜んでしまいそうになる自分を叱責し、アルファレスはコリンへとその手を差し出した。
「――下心が丸見えだけれど、こちらこそ喜んで」
コリンの背後に控える従僕が彼女の耳元に唇を寄せてそっと囁く。そのしぐさに少しだけ眉宇をひそめるアルファレスの耳に、男の言葉に応えるコリンのわずかな囁きが届いた。
「赤字」
「それとこれとは」
「黙っていなさい」
……意味は判らないが、背後の男は吐息を落として引き下がった。
――赤字。
聞いたことがあるような気がするが、いったい何を意味する言葉であろうか?
首をかしげたところでコリンの手がアルファレスの白手の上に控え目に重ねられ、その手の僅かなぬくもりにアルファレスは半眼を伏せた。
エイシェルと懇意になる為であれば自らの婚姻も反故にするというのであればそうするように仕向けてしまうのみ。
アリーナ・フェイバルの為にではなく、もはや自分の為に。
数々のプライドを粉砕されたこの痛みを、幾倍にもして返す――そうして果てには誰もが嘲笑をむける程凄絶に捨ててやる。
硝子玉のような眼差しに意思を乗せ、自分ひとりをみればいい。
エイシェルではなく、他の男でもなく、この自分を。
胸の痛みを、疼きを、そのように処理したアルファレスは、微笑を称えてコリンの手を軽くもちあげ、その指先に口付けた。
「さぁ、お送りいたしましょう、可愛い人」
アリーナの為でもなく、暇つぶしの為でもない。
――新しい遊戯を始めよう。