その6
綺麗な微笑と、柔らかな声音に一瞬だけ――そう、一瞬だけ意識を絡めとられ惑わされそうになったが、アルファレス・セイフェリングは冷水を浴びせられたかのようにはたりと気付いてしまった。
脳裏で弾けたのは、小生意気な末の妹エイシェルの得意気な顔。
まるきり「それみたことか」と言わんばかりの表情だ。
相変わらず右手で掴んでいたままのコリン・クローバイエの手首を掴む手が更に力を増すような気がして、すっと引き離した。
何を喜んでいる。
アルファレス・セイフェリング――喜ぶなど気の迷いだ。
コリンに笑顔を向けられたからといって何だというのだ。そんな感情は間違っている。この女は意味不明で、理解不能で、自分にとって好ましい女であろう筈が無い。
挙句の果てに、エイシェルの兄だと知ると途端にコロリと手のひらを返すなど。頭がイカレているに違いない。
体内を巡る奇妙な冷ややかさに身を任せ、アルファレスはゆっくりと唇を舐めて湿らせた。
自分自身を落ち着かせる為に。
心臓がぎしりと音をさせているかのようだ。こんな風に心が軋むなど、感じたことが無かった。なんという不愉快な感覚か。
下がった血の気が、墨のようにどろりとくすぶり始める。
「へぇ……つまり、キミときたら……あの子の兄であるぼくになら価値を見出す訳だ?」
言葉は冷たい色を滲ませた。
今まで散々冷ややかな態度を向けてきた癖に、エイシェルの兄だと知った途端に仲良くしようなどと――よくも言えたものだ。
「貴重な君の時間を割くのもやぶさかじゃないって?」
むかむかとこみ上げてくる憤りはいったいどういうものなのか。
悠然と椅子の背もたれに背を預け、ゆっくりと足を組みなおして相手を無遠慮な程に見つめ返す。面前に座るコリン・クローバイエはもはやその手を離したところで逃げ出しそうもない。
それはそうだろう。
この自分と仲良くしたいのだ――エイシェルとの繋がりの為に。
どれ程虫唾が走る相手であろうと、その笑顔を向けられる程に。
麗しい人形は、口の端に作り物めいた笑みを浮かべた。
「友好的な態度ですね」
「この上なくね」
――アルファレス・セイフェリングは自分が他人に対してこれ程までに憤りを感じることを初めて気付かされた。
もちろん、大切な幼馴染であるアリーナ・フェイバルが受けた屈辱を思えば腹が立つ。だが、腹はたつもののそこまでの憤りを覚えていた訳では無かった。
アリーナに持つ感情は友情とも言えるだろう。子供の頃の楽しい思い出を共有した幼馴染が辛い目にあったといえば、誰でも感じるであろう感情。
だが、今――確かに今感じているものは到底信じられぬ程の憤りであった。
ここまでコケにされたことなど、おそらく無い。
「キミの婚姻を白紙に戻すなら、仲良くしてもいいかな」
腹が立つ。
腹が立つ。腹が立つ。腹が立って仕方が無い。
苛立ちがぐるぐると自らを押しつぶしていくようだ。
底意地の悪い微笑を、面前の相手は真っ向から受けて――一旦考えるそぶりで瞼を伏せた。長い睫が小刻みに揺れて、濡れた唇が小さく動く。
さすがに結婚を白紙に戻すなどすぐには了承すまいと思うのに、考えを定めた眼差しがついとあがってアルファレスを見返した。
信じられない程綺麗な翡翠の眼差しは、いつもの何を考えているのか判らない硝子玉の眼差しではなく、意思すら称えて見えた。
「エイシェさんと個人的に会わせていただける確約をいただけるのであれば、かまいません」
その言葉の意味がアルファレスの体をなぞりあげ――その瞬間、怒りに染まった。
さらりと落ちた言葉に、面前に置かれていたカップの中身をぶちまけてしまいたい気持ちになったのだ。
その回答を願っていた筈だというのに。
あっさりとその決断をはじき出した相手に対して苛立ちと怒りさえも湧き上がる。
それをしなかったのは、突然割り込んできた声に気勢をそがれたからに他ならない。
「――その判断はどちらかといえば賛成ですが、少々お待ち下さい。
この方は、何故かコリン様のご結婚を破綻させたくて仕方が無い様子ですから。何かしら意図があるのかもしれませんし」
凜と響いた言葉に驚いて視線があがれば、アルファレスの背後からゆったりとした足取りで現れた男が一人。
長い髪を緩やかに束ね、苦い表情でちらりとアルファレスを見たかと思えばそ知らぬ調子でアルファレスの脇を抜け、胸元に手を当てるようにしてコリンへと一礼してみせる。 その服装は最近流行の艶の消された黒の上下。ふんわりと巻かれたクラバットに、胸のポケットにはさらりと精密な金鎖が飾られている。
肩口に相手の横顔しか見えないが、相手が着用している衣装や物腰は立派な紳士階級を思わせた。
――ふと、知っている女に良く似ている気がしてアルファレスは眉宇をひそめ、落ち着かないような気持ちになった。
例えて言うのであれば、本妻と居る時に愛人と出くわしてしまったような奇妙な……いや、そんなたとえは適当ではないのだろうが。
面前のコリン・クローバイエと言えば突然現れた男をじっと見つめ――先ほどまで浮かべていた平坦な微笑すら霧散させた。
――冷ややかとも言える程に。
「……来るなと、言った筈ですが」
「申し訳ございません。屋敷にお客様がいらっしゃっております。
命令に背くつもりはございませんでしたが」
紳士かと思わせた男だが、コリン・クローバイエの言葉に従う様は彼女の家の家人なのか。それはなんとも不釣合いな二対となり奇妙にアルファレスの視界に写りこむ。
「お迎えに参りました」
慇懃な口調で言葉を吐き出し、するりと右手を伸ばして座ったままのコリン・クローバイエの手首へと触れる男の指先。
そこは先ほどまでアルファレスがずっと掴んでいた場所で、わずかに跡すら残っていることに気付いたアルファレスは、なんとなくうろたえた。
女性の体に跡を残すような不躾なことをした自分に。
そして――その跡にわざと触れる男に。
そう、それはわざとだろう。
そっとコリンの手首をなぞり、吐息を落としてもう片方の手で逆の手に触れて、半ば無理矢理席を立たせる。
その行為は使用人としても紳士としてもあまりにも無作法だ。
「リアン」
きついコリンの言葉にそっと首をふり、まるでアルファレスから隠すように自らに引き寄せる。
「どなたがいらっしゃっているのか判りませんが、私は今こちらの方と――」
「そんなことはどうでもよろしい。
抱き上げて馬車に押し込められるのと、自らの足でお歩きになるのとどちらを選択なさいます?」
棘のあるような言葉にコリン・クローバイエが憤慨するのを感じる。
だが、それ以前にアルファレスが憤慨していた。
「失礼じゃないかな。今はぼくと――」
「女性に対して無礼を働く人間に対して向けるような礼節は持ち合わせておりません」
すっと向けられた言葉と眼差しに絶句して、アルファレスはこくりと喉を上下させた。
「……キミ、姉か妹がいる?」
「姉がおりますが。何か?」
「良く似ているな」
いつだって微笑を称えている姉に対し、弟はどうやら随分と冷徹だ。
だが、持っている雰囲気がまるきり一緒。双子か何かであろうか――アルファレスは苦いものを感じながら、肩をすくめた。
「姉上には世話になっているようだ。今は引くよ」
「姉があなたの世話をしているとは到底思えませんけどね」
冷ややかな口調のままの捨て台詞を残されたアルファレスに、コリンが唇を引き結んでいたが、最後にひっそりと口にした。
「また、会えますか?」
「会えるさ――君が望まなくとも」
ざわりと腹の中で何かがざわめく。
会いたいというなら歓迎だ。
ただし――コリン・クローバイエが会いたいのはエイシェルなのだろうが。
握った拳を振りほどけば、手のひらに爪の跡がくっきりと残された。
会いたくないと言ったところで、無理矢理にでも会ってやる。
アルファレス・セイフェリングを前にしているというのに、それ以外の人間を求めるなど絶対に許さない。
遠ざかる二人の背を冷ややかに見送り――当初の遊戯など忘れきり、アルファレスは奥歯がぎしりと噛み締めた。
――自らの望む通りに彼女は婚約を破棄すると示したというのに、ふざけるなと怒鳴りあげてしまいそうだった。
彼女にとって婚姻とはどれ程に軽いのだろう。
彼女にとってエイシェルがどれ程の意味を持っているのだろう。
口の中に血の味が滲み、アルファレスは顔をしかめた。
まるで……エイシェルすら疎んじてしまいそうな気持ちが腹の中でくすぶっている。
腹立たしい。腹立たしい。どうしようもなく――認めがたい程に。
何が腹立たしいといえば、あの女にとって自分がどれ程の価値も無いという事実がむしょうにこちらの感情を揺さぶるのだ。
遊びなど――知るものか。
いや……
店の出入り口で上着を受け取る男の背を冷ややかな眼差しで見つめ、アルファレスはゆっくりと口元を緩めた。
いや、遊戯をしよう。
あの娘の心を絡めとり、あの唇から自らの名を囁かせ、他の誰よりも好きだと言わせれば――きっとこの憤りも溜飲も全て消し去ることができるだろう。
ふと、下げた視線の先――テーブルの上に小さな包みが残されていることに気づいたアルファレスは、そっとその包みの表面に指先を沿わせた。
***
忍耐に自信はあるつもりだったが――リアンは自分の底の浅さを目の当たりにしてしまった。
会員制のカフェの二階吹き抜けの横に作られた席で階下の主と、そしてアルファレスとを眺めていくうちにどうしても我慢ができなくなってしまったのだ。
何を話しているのかも気に掛かるし、何より――何故、あの男はずっとコリンの手首を掴んでいるのだろうかと。
無礼にも程がある。
気になり始めるとイライラとしたものが体中を支配し、さっさと階下へと足を向けていた。
ただし、今は後悔している。
「あの、見ないで下さいますか?」
もともと無遠慮に他人を見る主ではないが、今は確実にその眼差しを感じる。たとえ、半眼に伏せられていたとしても。
「見られたくない姿はするものではないと思いますが」
同じ馬車に居ながらこれ程居たたまれない想いをしたことがあったであろうか。
いや、無い。
相対にある席であることも災いした。片面だけの席しかなければこんな風に真正面から見られることもなかっただろうに。それとも――それを無視してでもコリンの横に座るべきであっただろうか。横顔程度であれば何とか耐えられ……
「アンリと呼ぶべきでしょうか」
冷ややかな物言いに、ぱっとそむけていた視線がコリンへと戻る。
いつもと変わらぬ半眼を伏せたような主は、けれどいつもと違う苛立ちを確かに示していた。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありません」
恥ずかしさに逃げてしまいたいが、馬車の中だ。
狭い場で相手と自分しかいないという空間が居心地の悪さを膨れ上げさせる。まるで世界が二人だけで閉ざされているかのように。
「不快です」
コリンはあっさりと叩ききり、リアンは喉の奥でぐっと言葉を飲み込んだ。
自分自身嫌っている姿だ、主も同じように思っていたところでおかしいことは無い。だが、そうすっぱりと言い切られると胸が苦しくなる。
そんなリアンの胸中を知ってか知らずか、コリンは涼しい表情のまま続けた。
「ですがあなたの姿のことを言っているのではありません」
慌ててコリンの姿を確認するように見返すリアンだったが、その視線が合うことは無かった。
「居ない間、どんな悪さをしていたのです?」
「――」
「私は動くなと命じた筈ですが」
「……何のことでしょうか」
悪あがきで空とぼけてみたものの、コリンの空気は変わらない。
もしかしたら更にかもす空気が一・二度下がったかもしれないが。
「アイリッサ叔母さまがあの方にどんな世話をしているというのでしょうか。叔母さまはもう半年以上もこちらを離れておいでで、つい先ごろやっと戻ると手紙を下さったばかりだと思いましたが。それに、貴方とアイリッサ叔母さまが良く似た姉弟とは到底思えませんが」
アイリッサの抑えたクリーム色のような金髪に対し、リアンの髪は漆壷を落としたかのように黒い。血が色々と混ざっているのか、その肌の色も若干アイリッサの白さとは違う。アイリッサは日に焼けると真っ赤になって皮がむけてもとに戻るが、リアンは多少の太陽などものともせずに健康的に色をつけるのだ。
「――」
リアンは両手を広げた。
「あの男は目が悪いのでしょうね。眼鏡を作るように勧めましょうか」
軽口で肩をすくめると、より一層コリンの雰囲気が悪くなる。おそらく心底怒っている。感情の起伏がはっきりと出る性質ではない為判りづらいが、今のコリンの感情が判らない人間は随分と鈍感だろう。
一旦息をゆっくりと吐き出し、コリンはいつもは伏せがちな眼差しをついっとあげた。
真正面から向けられる冷ややかな眼差しに息が凍りつく思いで視線を逸らそうとすれば、それすら許さぬ叱責が飛んだ。
他人が耳にしたのであれば叱責ともとられないであろう一言だけの。
「アンリ」
低く言われた本来の名に、リアンは焦りを覚えるように早口でまくし立てた。
「私は動くななどとは命じられておりませんよ。私が言われたのは壷を買って来るようにと言われただけです」
――この婚姻は反対です。
そう言った途端、コリンは静かに言ったのだ。
「壷の買い付けに行ってきて下さい」と。
その意味が判らなかった訳では無い。相手の言いたいことくらい汲み取ることなど容易い。ただ、汲み取ることなど無視しただけだ。
はっきりと言葉にされていないのだから、命令された覚えも無い。
何もするなと命じられた訳では無いという言い訳に、コリンは薄い唇を更に薄く引き結んだ。
「あの方が何かしらの理由があって私に近づいたことは判っています。
以前言っていましたね。クライス様が私に近づいたのは復讐かもしれないと」
静かに問いかけに、リアンは居住まいを正して生真面目な口調で返した。
「はい。クライスはある男に借金をしています。そしてその男は――ウイセラ様に個人的な恨みを抱いている確率が高い」
「叔父様……商談の関係ですか?」
「いえ、カロウス・セアンのサロンにて賭け事をしたようです。その時にカロウスは一旦相手の領地を巻き上げた」
「――お金の恨み、ですか」
嘆息するコリンは、小さく下らないと呟く。
「更に下らないことに、領地はすぐに返還したそうです。ウイセラ様はそんなものは必要が無いと」
リアンは言いながら肩をすくめた。
「爵位持ちが自らの領地を取られたことにより躍起になるならともかく、返されたことに矜持が傷つけられると憤る――下らないことに、それがこの国の貴族の考えのようですよ」
何も失っていないのであれば恨むのは筋違いだ。
感謝されこそすれ、恨まれるなど論外。
コリンは眼差しをふせて自らの手元を見つめた。
「貴族は例え領地を賭け事で失ってもこの国では国王に反することでは無いのだそうです。どうりで貧乏貴族がこぞって領地を担保に差し出す筈ですね。あの男――先ほどのアルファレス・セイフェリングに言わせると忠誠の証さえ手放さなければ、不敬にはならないのだそうですよ。そんな目に見えぬもの、どうとでも言いつくろえるというのに」
くすりと笑うリアンに、コリンは自らの指先をつっと反対の指でなぞりあげた。
「――原因はアレですか」
「コリン様?」
「もう少し考えるべきでしたね。
叔父様のことだから、何か裏でやったのではと思っていましたけれど」
コリンは珍しくそっと吐息を落として軽く首を振った。
「【忠誠の証】は目に見えるのですよ。
あなたも目にしたことがあるでしょう? 私の部屋、壁の中央に飾られている装飾華美な金色の銃。
あれが、【忠誠の証】です」
コリンは唇をそっと指先でなぞり、伏せた眼差しのまま小さく呟いた。
「良い商談となれば良いですが」
その言葉をリアンが問い返そうとした途端、がたんっと馬車の車輪が音をさせ、馬が甲高い声で嘶いた。
突然の停車に体制を崩したコリンの肩を抑えるようにリアンは手を伸ばし、御者に「どうしましたっ」と声をあげようとしたのだが、その声は立て続けに響いた二発の銃声、そして悲鳴と怒号によってかき消された。