その2
古臭い建物にはもういい加減うんざりしていた。
雨が降れば天井と壁との境を拠点にじんわりと水気がにじみ、染み付いた煙草と黴のような臭いに至っては香を焚き染めたところで悪化するばかり。
絶えかねて窓をあければ、外にも悪臭がたちこめ、そして市井の喧騒すら耳にまとわりつく。
それでも、そんな生活もあとわずか、そう――あの男と、そしてあの女とが別れてしまえばこの遊戯の勝者は決まる。
「だというのに! どういうコトなのよっ」
苛立ちをそのまま末の妹にぶつけると、くるくると立て巻きにした髪を指先に巻きつけていたエイシェル・セイフェリングは大きめの瞳をさも胡散臭いものでも見るように見開いた。
「まさか、あんなネタを新聞に載せたのは姉さんなの?」
「そうよ。あの二人は破談になったのでしょう?」
気を取り直して勝ち誇るようにあごをそらすクロレア・セイフェリングの姿に、エイシェルは唖然とした様子で小さく首を振った。
「凄いわ」
かすれて落ちた言葉が更にクロレアの心を増長させる。
そう。男爵家の次男と商家の娘を破談に追いやるというこの遊戯を成功させたのはワタシ。他ならぬクロレア・セイフェリングだ。
勝者には褒美が――
「姉さまってば、ほんとーに馬鹿」
有頂天であった気持ちを、末妹の言葉がぐしゃりと叩き落す。
あまりの台詞に、クロレアはカッとなって相手を睨みつけた。
「なんて失礼なっ」
「だって、あいにくとまだ破談とかそんな話は出ていないしー。何より、姉さまそれってどう説明するの?
遊戯のルールは男に手出ししてはいけないのよ? 男の名誉を失墜させてはいけないの。だというのに、あんな風に思い切り醜聞をぶちまけて――それを自分の手柄だとアル兄さまに言うつもり?」
冷静な妹の台詞が、ゆっくりと小馬鹿にするような色合いを滲ませる。
その瞳にもさげすみが浮かんでいたが、クロレアは相手の言葉をゆっくりと我が身に浸透させながら、心のどこかが凍りつくような気持ちを味わった。
「わざわざ新聞種にして男に傷を付けまくって、まぁ破談にもち込めたとしたってよ?
それは最初の条件の女側からの破談にはならないと思うのだけど。まぁ、とりあえず報告してみたらどう?
アル兄さまがさぞや素敵な御褒美をくれるのではないかしらねぇ?」
最終的に笑いを堪えきれずに身を震わせる妹を――クロレアは真っ青になりながら睨みつけることしかできなかった。
***
「今日は遅いですね」
カロウス・セアンの持つサロン――その荷物置き場兼更衣室となっている部屋の扉を開けると、グラスを磨いていた従業員の一人が驚いたように声をかけてきた。それに対し、リアンは冷ややかな眼差しを向けた。
「昨夜はカロウスに執拗に絡まれましたから、寝不足です」
そういう目元には、確かにクマさえある。
義理の兄との会話はたいへん楽しいが、酒が入ると実に面倒くさい――実際は普段から面倒くさい相手なのだが、リアンは完全に無視するという手法を空気のように得とくしている。
アイリッサが夫に対して冷たいだの何だのと、実にどうでもいい話を延々とされてしまったが――アイリッサとの婚姻のおりに「世界で三番目に好きだよ」と臆面もなくほざいた男の台詞とは思えない。
自分は三番目に妻を好きだというのに、妻からは一番目に好かれていないと許せないなどとまさに傲慢、片腹痛し。
この話をアイリッサから聞かされた時、リアンは心底呆れたものだ。
「そんなことを言う相手と結婚するのですか?」と呆然と言えば、アイリッサは首許で揃えたふわふわとした短い髪を手の甲で払いながら首を傾けた。
「正直すぎて怒る気にもなれないし、他に私と結婚したいなんていう男はいないと思うから」
確かにアイリッサは貴族の娘としては奇抜なほうだろう。女性にとって結い上げる髪は命ともいうべきものだが、彼女は毎日の手入れが邪魔臭いという理由で首筋まで切ってしまうような斬新さを持っているし、視力が悪くとも不恰好だからと眼鏡を嫌がる女性達が多い中、外見よりも実をとって黒い縁の大きな眼鏡をかけている。
だが、だからといってウイセラの他に結婚相手がいなかった訳ではないはずだ。リアン自身、本国の邸宅に届けられた贈り物やら花だかを目にしたことがある。
「実際は、ウイセラ様がお好きなのですか?」
その質問は未だに口にできていない。
もし、アイリッサの口からウイセラが好きだなどと言われてしまったら、自分の内の何かが傷つくような気がする。
――姉をとられたくない弟の心境だろうか。
血など一滴も繋がっていないが。
「でも丁度良かった。
‘アンリさん’は居ないのかっていうお客さんが数名いらっしゃいましてね」
「鴨ですか? 大量の葱を背負ってらっしゃるならいくらでも遊んで差し上げましょうとも」
ついでにチップも巻き上げてやる。
ふふふふっと鼻で笑いながら、リアンは食器棚とは反対側に置かれている衣装用のロッカーから自らの衣装を引き出し、現在着用している質素なドレスの包みボタンをぷちぷちとはずしていく。
女性用の衣装は基本脱ぎ着できにくいが、十歳過ぎからこんなことをしているのだからもう慣れたものだ。
「鴨かどうかは判りませんが――以前リアンさんが楽しそうに苛めて……じゃなくて、仕事していらした方もいますよ」
「それは楽しみですね」
ここは男だけのサロン――そういう名目だというのに、何故何の疑問もなく自分を女として扱おうとするのだろうか、馬鹿どもが。
自分は少しも嘘は言っていない。
「このサロンは女子禁制ですよ」にっこりと口元に笑みを浮かべて言えば、それだけで勝手に男装の麗人だと思い込む。なんともおめでたい。
男装の男だ。どこをどうしたら女だと決め付けるのだろう。
鼻で笑いながら、リアンはばさりとドレスを足元に落とすと、ロッカーから引っ張り出した純白のシャツに腕を通した。
「それにしても、そうやって堂々と着替えられると――こっちが微妙な気持ちになるんですけど」
「男同士で遠慮など不要でしょう」
「判ってはいるんですけど……ドレスを脱ぐと胸が無いのは理解してるんですけど、なんとうか……脱いだら女性の体だったらどうしようという変な気持ちになるんですよ」
顔をしかめる相手に対し、リアンは一瞬片眉を跳ね上げたが、すぐに営業用の微笑を浮かべて見せた。
「変態ですか?」
――変態は大嫌いだ。
思わずヒールの高い靴の先端でぐりぐりと踏みつけて、あご先をあげさせて「ブタ」と罵ってやりたいくらいに大嫌いだ。
勿論、そういった相手を苛め抜くことは嫌いではないが。
などと軽く言い合いながら着替えを済ませ、おかれている姿見の前で肩口にまで伸びている髪を器用に手早く結い上げ、ついで目元のクマに女性用のコンシーラーをぽんぽんっと当てていると、部屋の扉が開いて名を呼ばれた。
「リ――アンリさん、そろそろ出ていただいていいですか?」
***
サロンに置かれている賭けの台帳をめくり、何か楽しいことはないかと探している時に気づいた。
――自らが提案した賭けが、無い。
賭けには金が発生するものだから、賭けの最中にその存在がなくなることは滅多に無い。
つい最近男爵家の次男、クライス・リフ・フレイマについての醜聞が新聞の片隅に踊ったことで、興味を持ったものもいるだろうと、その確認もあって覗きに来たというのに、無い。
アルファレス・セイフェリングはあご先を中指で二度なぞり、そして丁度グラス盆を手に現れた給仕係に視線を向けた。
「アンリ、で良かったかな」
「名前を覚えていただいていたとは、光栄です」
リアンは微笑むと、盆の上にあるグラスをつまみあげ、アルファレスへと差し出した。
「ぼくの名前は、覚えていてくれているのかな?」
「セイフェリング様でいらっしゃいますね」
営業中のリアンは鴨一号とはさすがに言わない。
以前にこのぼんぼんから巻き上げた代金は、コリンの為のみやげ物の代金としてたいへん有意義に使用させて頂いた。本来であればコリンが一番喜ぶであろう銃を贈りたいのだが、銃を贈るとウイセラとアイリッサが怒るので――前者は銃を贈るのは自分の特権だと何故か思っているし、後者はそんな危険なものは駄目だと言う――今回は細かな文様が刻まれた美しいティ・ポットにした。
コリンは陶磁器が大好きだから、きっと喜んでくれることだろう。
戻る時のご機嫌伺い用にきっと役に立ってくれるものと信じている。
リアンが心内でそんな幸せな夢想に浸っているとはつゆ知らず、アルファレスは台帳を示した。
「ぼくが提案した賭けが無いね」
「そうですか? 何かの手違いでしょうか」
勿論、その部分を破り捨てたのはリアンだ。自らの主をネタにしたものをこんな場に載せ続けておくことなど我慢ができない。
もしそれで問題になったところで、それはサロンの問題だ。自分とは何の関係もない。評判が落ちたところで「残念ですね」とそ知らぬ顔で言いきるだろう。
「キミに証人になってもらおうと思ったんだけどな。
だって、キミはあの賭けを知っているからね。でもさすがに良い従業員というところか。サロンを守ろうとしているんだね」
アルファレスはリアンの態度をそうとったのだが、勿論そんな訳は無い。
サロンを守ろうなどという心は欠片も無いが、勝手に解釈したらしい。
おめでたくもこの男は思い込みが激しいのかもしれない。
リアンは相変わらずの営業用の微笑をたたえ「台帳に記載されていたセイフェリング様の賭けた代金については保証いたしますし、他の方のフォローもさせていただきます。それでよろしいでしょうか?」
「それで納得できる人は少ないと思うけどね」
「でしたら――」
リアンは軽く手をあげ、他の給仕を呼び寄せると自らの荷物を手渡した。
「ゲームをいたしましょう。ポーカー? ブラックジャック? それともナインボールはいかがです? セイフェリング様がお勝ちになられましたら、台帳の代金の三倍を。もし私が勝ちましたら、元金のみでというのはいかがでしょう?」
小首をかしげて微笑むリアンをじっと見つめ、アルファレスは意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「カードは分が悪い。ナインボールといこうか――悪いけれど、ぼくは弱くは無いよ?」
「ではそのように」
「ただし。ぼくが勝ったら――」
アルファレスは手の中のグラスの中身を飲み干し、空になったグラスをリアンへと差し出した。元金を三倍にして戻されたところで面白い訳がない。
もとよりあんな賭けなどただの嫌がらせのようなもので――大事なのは賭けの中身だけだ。
男爵家の次男の醜聞が流れたせいで破談というあっけない幕切れをみるかと思えば、その後事態が動いた様子は見られない。
喜ぼうにも喜べない複雑な状態に苛立ち、アルファレスは自分の中に鬱屈が溜まっているのを感じていた。
この縁談が破談すれば、コリン・クローバイエは泣くだろうか。
今、あの女はいったいどんな心境か。
それが気に掛かって仕方ないというのに、自分ときたらその場に居合わせることもできないのだ。
泣いているのか、憂いているのか。
それとも――相変わらず人形のように無表情でいるのか。
考えれば考える程、自分の中に何かが淀んでいく。
あの作り物のような顔が感情を覗かせることがあるのだろうか――微笑みを向けられたことは一度だけある。
糞不味い茶を勧められたあの時に、コリン・クローバイエは確かに自分に笑みを向けた。
うっとりする程可愛らしい微笑。
喉の奥がからからになる程の……と思った途端、またしてもあの不味い茶の味が鮮明に思い出されてしまい、アルファレスは思い切り呻いた。
「セイフェリング様?」
問いかける声にふるりと首をふり、アルファレスは気持ちを切り替えることにした。
あの女のことは考えるべきじゃない。
ほんの一時でもいい。
他の――
「ぼくが勝ったら、今夜一晩一緒に過ごしてもらおうかな」
一瞬真顔になったリアンだが、すぐにいつもと変わらぬ微笑を浮かべ、差し向けられた空のグラスを受け取った。
「お受けいたしましょう」