その1
――親愛なるリアン、元気にしておりますか。
そんな冒頭から始まる手紙を見るたびに、どこかこそばゆいような痒いような気持ちにさせられる。
それはごっこ遊びのようなものかもしれないし、もしかして生涯をかけての虚飾かもしれない。それとも、本気なのか。
その真意はわからぬまま、それでも、変わらずその手紙は何くれと届けられる。
薄い緑色の封書に作成時から押されたエンボスはA。
今では義理の姉という立場の女性から届けられるメッセージ。
すずらんの香りを放つのは、封書を作成の段階でそのように香りをしみこませているのだ。この手の商品は義姉の得意とするもので、女性には受けがいい。そして義姉はすずらんを自らの印としてさまざまなものに引用している。
何故か息を切らしたニッケルがその手紙を差し出して来たのは、リアンが食堂で冷めたスープを温めなおしていたころのことだった。
昼間の時間、サロンに客は居ない。
その為夜には食堂に常駐している料理人もいず、ゆっくりとした時刻におきだしたリアンは、昨夜の残りスープで遅い朝食をすませるところだった。
義姉――当時は独身であったアイリッサ・シェルト・ウィザーが義姉となったのは、リアンが天涯孤独となり、本来であれば刑務所に収監されるというあの時。
警察はリアン――当時アンリと名乗っていた彼を誘拐の共犯として逮捕した。そのことを否定はしない。実の姉がしでかしたことの片棒を、アンリは確実に担いでいた。だからその場で収監されることに対しても何の気概もおきはしなかった。
姉へと向けた銃が、本当にその弾丸を発したことは衝撃だった。
もちろん銃が危険なものであると知っている。だが、そんな簡単に人をあやめることができるとは想定していなかった。
殺すつもりで撃ったのでは決して無かったのだ。
「アンリ、お嬢様の良い友人となり、お嬢様をお守りしてね」
姉さん――あなたはそう言ったのに。
姉は標的であるコリン・クローバイエと年齢の近い弟を利用した。コリンと更に親しくなれるように、弟を妹と偽ってまで。
「俺イヤだよっ」
女の子としてお屋敷に上がるといわれた時、どれだけ抵抗してみせたろう。だが、姉は取り合わなかった。
「お嬢さんの身の回りの世話係りと、その妹という条件なんだよ。
アンリ、あんたは細いし綺麗な顔立ちをしている。スカートをはいてしまえば女の子で通る。この仕事がうまくいけば、お祖母ちゃんの薬代だって楽になるんだよ」
お屋敷にあがれば、きちんとご飯だって食べさせてもらえるし服だって、靴だって綺麗なもんが着れるんだから。
姉が重ねて言う言葉にすら、アンリは顔をしかめた。
「それだって女モンじゃないか」
綺麗な衣装も新しい靴も、何より食べ物は魅力的だ。
アンリ達が暮らす場所はイーストエンドに近く、治安が良くない。浮浪者も目につくし、アンリ達にはかろうじて屋根のある部屋があるが、雨が降れば壁は水が染み出すし、天井から雨漏りもする。
食事に至っては、食べられずに三日を水だけでやり過ごすこともある。
その水だって、井戸水を買えずに川から汲んだばかりに腹を下すこともしばしばだ。姉が言う食事という単語に、いちいち腹がくきゅると寂しげに鳴く。
「ある程度したらあんたはやめてもいいんだからさ」
頼むよと幾度も懇願されて――そのときは、あんな風に姉と相対することになるとは思ってもいなかった。
姉とコリンとを天秤にかけて、そして……
警察の薄暗い面会室に現れたのは、誰とも知らない男が二人。
一人は言葉も違う壮年の男で、もう一人は若いけれど眼鏡をした怖そうな男。
若い男は通訳かと思ったが、すぐに弁護士だと名乗り、隣の男を示した。
「こちらの方は隣国キドニカの男爵位をお持ちのドミナ・シェルト・ウィザー氏です」
それが誰だかまったく判らなかった。
自らのうちで警戒心が滲み、毛をさかなでるように背筋がざわついた。貴族とやらに対して抱く感情などもともと無かったが、自らとそんなものが交わることなど決して無かった。目に見えない恐怖にぐっと奥歯をかみ締めたところで、面会室の扉がおそるおそるというように開き、眼鏡をかけ、短いふわふわとした髪をした女性が顔を出した。
「どうして先に行くのですか」
彼女はぶつぶつと口の中で文句を並べ、異国の言葉で男性に話しかけ――そして、反対側にいる縄でくくられたアンリを見て顔をしかめた。
「まぁひどい。縄など取ってしまってちょうだい」
「しかし、お嬢さん」
警棒を手にして監視している刑務官が言う言葉に、彼女は顔をしかめた。
「もう話は終わっているのでしょう? あら、終わってないの?――」
自らの早とちりをわびて、彼女はまっすぐに不振顔のアンリを見た。
「こんにちは、アンリ。
私はアイリッサ・シェルト・ウィザー――杖を持っているのは私の父よ」
「……」
「私の小さな友人が、貴方を助けてほしいというの。判るかしら? 私の小さな友人は、あなたのことも友人だと言ってる。可愛いコリンよ」
その名前に、心臓がぐしゃりと握りつぶされるかのように息苦しさを覚えた。
もう絶対に会えないと思っていた小さなお人形のような――お嬢さん。
アンリを女の子だと思っているかわいそうな娘。
「それで、どうやって貴方を救おうかと思ったの」
アイリッサはすっと何の躊躇もなく手を伸ばし、薄汚れたアンリの頬に手を添えて、何で汚れているのか判りもしないその表面を親指の腹で撫でた。
「出してあげるのは簡単なのだけれど、身元引き受けとか色々あって――それで、私考えたのよ」
アイリッサはにっこりと微笑んだ。
「あなた、私の弟になりなさいな」
***
本来リアンの手元に届く手紙は封が切られているようなことは滅多に無い。何故なら、中身を確認するのがリアンの仕事のひとつであるから。
主へと届けられた手紙をいちいち開封して中身を確かめる。当然のように行っていた事柄だが、いざ自分宛の手紙が開封されているのを見るのは気持ちの良いものでは無かった。
――主の手紙へは、主を守る為だという大義名分もあるが、自分に宛てられた封書を開けられてしまう意味は理解不能。
「……何故?」
「あの、すみません。手紙の選別をしていたらカロウスが」
カロウス・セアンことウイセラの秘書であるニッケルが視線を泳がせる。
「手紙の贈り主がアイリッサ様であることに気づかれまして、リアンさん宛てと気づかずに開けてしまいました」
ニッケルがいくつもの封書を開封しているそのさなか、通りかかったウイセラは目ざとくその封書を見つけ、ぱっと取り上げたのだ。
薄緑のすずらんの模様がうっすらと入った特注品。更に封書の端にやはり押されているエンボスはA――ぱっと上機嫌で手紙にナイフを入れたウイセラは、親愛なるリアンと書かれている手紙を前に激怒した。
「危うく破られそうなところを死守したんです」
「……まったく、義姉さんはどうしてあの人と結婚してしまったかな」
ぼやいたリアンの言葉を打ち破るように、滅多に台所に顔を見せないこのサロンの主は苦々しい顔を突き出した。
普段であれば飄々として余裕を見せる表情が、今は不快そうにしかめられているのを見ると、リアンはニッケルが何から逃げて来たのかを想像して苦笑した。
「おまえにとやかく言われる筋合いは無い。
それより、アイリッサは何だって?」
「おや、おはようございます。ウイセラ様」
義兄と言わずににっこりと微笑んだリアンは、心得顔でうなずいた。
「この手紙は私のですよ。ウイセラ様の元にもちゃんと手紙がきているでしょう? 義弟の私に週一で手紙をよこす筆まめな義姉ですからね。愛する夫にはそれこそ毎日」
――当然ウイセラの元にアイリッサが手紙を送ってなどいないことなど承知していながら口にした。
義姉であるアイリッサは、確かに何事にもマメな方だが、こと夫に関して言えば完全にその反対だった。
「まぁ、それでも今回のこれはこちらからお尋ねしたことの回答です」
少し意地悪が過ぎたかと反省し、リアンは肩をすくめて封書を振って見せた。
「アイリッサを煩わせたのか?」
「ちょっとお尋ねしただけです。ギフォード子爵について何かご存知ではないかと思いまして」
「アイリッサが?」
ウイセラは片眉を跳ね上げ、リアンは微笑んだ。
「義姉さんは今でこそ結婚してしまいましたけれど、以前は社交界にも出ていられしたレディですから。何より、本国よりこちらの社交界に顔を出していたと聞いておりましたので、貴族である子爵の話も何かご存知ないかと」
「そもそも、どうしてお前はそのギフォードとやらにこだわるんだ? コリンの婚約者候補は違う男だろうに」
しっかりと候補という単語を強調しつつ、名前すら覚える気のないウイセラだ。
顔をしかめて言われる言葉に、リアンは肩をすくめた。
「関係ないかもしれません。関係あるかもしれません。そういうのはきちんと調べておかないと気持ち悪いのですよ」
「ふんっ。
おまえがどれだけ調べ上げたところで無駄だ。コリンとあの男の縁談は破談だ」
鼻を鳴らして言うウイセラに、リアンは驚いた様子で瞳を瞬いた。
「そうなのですか?」
「――そうなるだろう。今はまだ……保留だが。相手の男も自分の不始末が新聞種になったことを恥じてコリンに頭を下げに来た。婚約を急くことはせず、まずは友人としてしばらく付き合いたいと。
まったく! 図々しいにも程がある」
ウイセラは先日本邸の居間で顔を合わせた婚約者候補の青年を思い顔を顰めた。
「――本当に申し訳ありません。
ですが、ゆっくりとコリンさんには理解して欲しいと思います」いけしゃあしゃあと言ってのける男に皮肉を返せば、まるで媚を売るようにウイセラ相手に「叔父上殿とも親しくさせていただき、家族ぐるみの付き合いを」などと笑みを向ける始末。
脳裏で相手を殴りつけたウイセラの思考など気にせず、リアンは小さく鼻を鳴らし「ふむ」と自分の中でウイセラの言葉を飲み込んだ。
まだ破談されていないのであれば、調べ物も無駄にはなるまい。
いや、無駄に終わったところで構わない。ことコリンに関することであれば――
ぶつぶつと不平を口にしているウイセラを放置し、リアンは思考を切り替えた。
「そんなことより、ウイセラ様は手紙の中身を確認したのですか?」
いいながらわざと封書の中身を取り出し、ざっと流暢な義姉の文字を確認してリアンはうれしそうに言葉を続けた。
「ああ、ほら。
ウイセラ様、義姉さんがウイセラ様のことも書いていますよ」
「え、そう?」
途端に不満に塗れていたウイセラは、ぱっとうれしそうに声のトーンを変えリアンを見つめ、それを受けてリアンも微笑んだ。
「カロウスが港を離れたら顔をだすから連絡してね。だそうです」
急激に地底に落とされた男を楽しげに見ながら、リアンは唇を歪めた。
「愛されていますね、義兄さん」
***
「フレリック、片付けしてちょうだい」
自称錬金術師のリファリアは目頭を揉みこむようにしてマグカップに手を伸ばし、ちらりと自分の研究室で暇をもてあそぶように珈琲を飲んでいる弟を見た。
出窓の辺りに腰を預けてむっつりとたたずむアルファレスは、普段の彼とは程遠い雰囲気をかもしている。できれば不穏な空気を持つ者など目の前にいては邪魔だと言いたいが、どうやら今の彼は機嫌が最高潮に悪い――触らぬ神に祟りなし。
リファリアは肩をすくめてさじを投げた。
それに、アルファレスが不機嫌な理由は推察できる。
新聞のコラム欄に載っていた醜聞記事。アリーナ・フェイバルと男爵家次男を思わせるあの書き込みが弟を不愉快にさせているのだろう。
アルファレスがアリーナをどう思っていたのかは知らないが、仲の良い幼馴染であったのは間違いなく、彼女の為に長女を追い出す程の怒りをのぞかせるのだから、今もきっとその為に不快に感じているのだろう。
リファリアは吐息を隠し、そっと首を振って匙を投げたが――
とうのアルファレスと言えば、自室で一人でもんもんとしていると、どうしても一つの事柄を考えてしまう為に人のいるリファリアの研究室を訪れていたのだが、その行動はすでに無駄なものになっていた。
だれがいようと、どこにいようと何も変わらない。
今、アルファレス・セイフェリングの脳裏を占めているのは考えたくもない一つの事柄……たった一人の女のことだった。
誰かを憎んだことは無い。
憎む必要も嫌う必要も無い。そんな感情は下賤なもので、生活に苦しむような人間が抱くものだ。
アルファレス・セイフェリングは今まで他人に対して羨むことも憎むことも無かった。
あの女以外は。
寝台で横になっても、書斎で本を読んでも考えることと言えばあの小娘のことばかり。
澄ました顔をしたあのお綺麗な顔を醜く歪ませてやりたいという黒い感情ばかりが腹を満たし、おちおちと眠ってもいられない。
その蓄積された鬱憤を他の女で紛らわそうと思いもしたが、いかんせん他の女を構っている時でさえ、ふいにあの顔が浮かぶのだ。
凜とした声に、けぶるまつげの下の瞳。
白い肌は陶磁器のようになめらかで、唇は――唇は、ふっくらと柔らかで甘い。向けられた瞳は無機質で、アルファレスに対して無関心だと示した。
しかし、だがしかし。
先日は違った。
あの古びたかび臭い雑貨屋で茶を入れた時の彼女は、確かにアルファレスを見つめた。
あの瞳で。
そして、アルファレスへと言葉を向けたのだ。
「お茶を、お飲みになられますか?」
優しく、誘いかけるように。
アルファレスだけに向けられた意思で。
他のだれかに向けられたのではない確かな意思に、胸の内に湧き上がった感情はいったい何だったのだろうか。
喉元に何かか競りあがるような満足げなものがとろりと湧き上がり、体の中にどうにも落ち着かないざわめきが浮かんだ途端。
あの糞忌々しいマズイ茶の味がよみがえり、アルファレスは口汚くののしった。
「くそったれ!」
あの女、あの女、あの女っ。
絶対に泣かす!
今まで抱いたこともない感情でぎしりと奥歯をかみ締めて拳を握り締めるアルファレスに、近くで研究用のフラスコを磨いていたフレリックはびくりと身をすくませた。
「ちょっ、どうしたんですか? アルファレス様。
ぼく何かしました?」
おろおろと言う間抜けなフレリックの顔を見返し、アルファレスは自分が余裕のない表情を晒していることに気づき、慌ててとりつくろうように笑ってみせた。
勿論、口の端がぴくぴくと痙攣するような、どこかうそ臭い笑みを。
「いや、すまないね、フレリック。
ちょっとイヤなことを思い出しただけなんだ。こういう時は楽しいことを考えたいね」
気を紛らわすように口にしが、アルファレスは更に苦笑した。
楽しいこと――今最高に楽しいと思わせてくれるのは、おそらくきっとあの女が、コリン・クローバイエが自らの前に跪くことくらいだろう。
あの瞳に涙の粒を一杯に溜めて、自分を見上げ――
「アルファレス……」
あの唇から名を呼ばれたらどれだけ楽しいだろう。
華奢な指先で頬に触れられ、微笑みを向けられたら……その姿を想像し、途端に背筋にぞくぞくと這い登る奇妙なざわめき、消入りそうな小さなささやきが「好き?」と囁き、それに応えて――その妄想に、アルファレスは手にしていたマグカップをすこんとその場に取り落とした。
「……」
ぬるくなった珈琲がびしゃりと辺りを黒く染め上げ、カップが無残に四散する。
それを無感動に見下ろし、アルファレスはゆっくりと首を振った。
「本当にっ、何してるんですかぁ、もぉぉっ」
「ちがう」
「アルファレス様、カップ落としたのは誰でないアルファレス様ですよっ。タイル張りだからいいですけど、絨毯だったら大惨事ですよ」
床を汚す珈琲を見つめながら唖然と呟くアルファレスは、ぐっと奥歯をかみ締めるようにして自らの妄想を振り払うようにして首を振った。
――違う。
惑わされてはいけない。
あれは妖婦だ。
悪魔だ。
魔女に違いない。
男という男を惑わす悪辣な女。
自分は決してあの女に惑わされなど、しない。