その8
どこか埃臭さを感じさせる部屋に敷き詰められた絨毯は、いつから取り替えられていないのかくすんだ色と水を吸ったような染みをところどころに見せている。
ただじっとしているだけでどこか陰鬱にさせ、腹立たしさを覚えさせられるが現在のところ彼女に許される精一杯がこの部屋だった。
以前に陰惨な事件のひとつや二つあったとしてもうなずける安さの賃貸アパルトマンを探して来たのは、彼女が本邸から引き連れて来た使用人だったが、あまりのひどい部屋に声を荒げると姿を消してしまった。
「まったく! 何をぐずぐずしているのよっ」
苛立ちを隠すことなく相手にぶつけると、気の弱い侍女は息を吸い込み、身をすくませた。
もともといた女は逃げてしまった為、急遽本邸から引っ張ってきた侍女は、まるで叩かれるとでもいうようにおびえた視線を伏せている。
手にしていた新聞ががさがさと耳障りな音が耳に入り込み、その新聞をひったくるようにして取り上げ、さっさと紅茶をいれるようにと命じつけると、侍女は蛙のようにびょんと頭をさげて退散した。
洗練されたものが何ひとつとして無い部屋――それが、今の現実だった。
黴臭いカーテン。染み垂れた壁、キィキィと音をさせる窓と、たてつけの悪い扉。
何不自由もない暮らしを、たった一言だけで失った。
たった一言。
たかが弟の一言だけで。
悔しさに歯噛みをしながら頭をひとつ振り、指定されていた記事を読む為に意識を切り替えた。
今の状態を嘆いたところで好転することはない。好転させることができるとすれば、それはアルファレスが提案したあの下らない遊戯だけ。
男爵家の次男と商人の娘の破談。
本当にどうしようもなく下らない!
――噂なんていうものはじわりじわりと浸透させてくものですよ。
そう言ったイーストエンドのヘボ探偵が脳裏に浮かび、クロレアはぎりぎりと奥歯をかみ締めた。「時間がないのよ。さっさとしてちょうだい」とせっついたのは三日程前のこと。そして、その結果が昨夜届けられた小さな紙片に走り書きとして記された。
新聞を見るようにと、たった一言。
つぅっと滑らせた指先に、黒いインクの汚れがにじむ。
アイロン掛けされていない新聞に片眉が跳ね上がったが、クロレア・セイフェリングは苛立ちを飲み込み、ページを操った。
目的の場所は社公欄でもなければ、政治動向でもない。
ほんの数行のコラムだ。
期待をもって文字を追い求めていた瞳がぴたりと止まり、口元にはじわりと笑みが刻まれる。一度ざっと流し見て、そして二度ゆっくりと文字を指先で辿った。
やがてクロレアはまるで他人事のようにくすくすと笑みをこぼして呟いた。
「まぁ、かわいそうなアリーナ!
不幸なことっていうのは続くものなのよね」
でもきっと喜んでくれるでしょう?
だって、こんな風に醜聞を撒き散らされてしまったら、きっと貴女の愛しい男は立派に勤めを果たしてくれる筈だものね?
哀れな貴女の為に商人の娘とはすっぱりと手を切って、きっと貴女と結婚してくれる筈。
――たとえそうでなくとも、少しくらいはこの胸元にくすぶる溜飲が下がる。
アリーナも、そして誰より愛しい弟であるアルファレスも、きっと今頃苦い顔をしているのでしょうからね。
ああっ!
その顔を直に見られないのが、とっても残念だわっ。
***
ぱさりと乾いた音をさせた新聞紙に書かれた醜聞に、一番はじめに反応を示したのは誰だったのか。
すくなくともコリン・クローバイエでなかったことは確実であった。
コリンが普段からくつろぐ私用の居間には、相変わらず彼女のコレクションが異彩を放っている。
彼女の父親であるセヴァランなどは滅多にこの部屋を訪れることはないが、何かの折に訪れた際には、いつも片眉をぴくぴくと痙攣させている――口には出していないが、相当イヤなのだろう。
愛娘のくつろぐ為の居間の壁を彩る武器の群れと、そして特に贈り主あたりが。
「まぁ、これってつまり」
「婚約者様のことでいらっしゃいますよね?」
さすがに普段から姦しい女中二人組みも微妙な表情でもって目配せしあい、新聞を閉ざした主に困惑の言葉を落とした。
茶化してはまずいと思ったのかもしれないが、コリンは書かれている事柄について彼女達が感じている感想とは違うものを抱いていた。
――親元を勘当された淑女Aのお相手についての考察。
ほのめかす文字ばかりが躍っているが、相手を知っているものであれば確実に判る。それはつまり貴族であれば推察できるようにつらつらと書かれている記事が示しているのは、コリンの婚約者候補である相手と見受けられた。
当然、コリンにもその男性が誰であるのか推察ができた。
後ろに控える女中達と同様に。
「婚約者ではありません。候補です」
「そう、ですが」
言葉を濁す相手に紅茶のおかわりを頼み、コリンは唇の間からゆっくりと呼気を落とした。
頭の中をめまぐるしくめぐるのは、果たして恋しい男の不貞に漣のように心乱すものではなく――いったい何人の愛人を囲っているのかと、なんと不経済なことだろうという乙女心だった。
そんなに色々な女性とお付き合いをしたいのであれば、しかるべき店に行ったほうが経済的だろうに。
コリン・クローバイエ――愛人に対するお手当てに詳しくはないが、娼館の花代ならば知っている、いまどきの乙女だ。
酒と女は経済をまわす。
なんて素敵なことだろう。
もういっそのこと、娼館をひとつ購入してみようか。
頭の中で思案してみたものの、その権利の買い上げ、歓楽街の開拓など諸々の諸経費を考えていくと、収益がきっちりと見込めるようになるまでにかかる日数までなかなか先が長い。そもそも、どうせ経営するのであれば最高の妓達を集めたい。人生に絶望した妓ではなく、その仕事に対してプロ意識に徹底したスペシャリストを。
考えを突き詰めていくと、それ程悪い話ではない気がしてきた。
だが、その店の妓女達をたかが夫の遊び女になどもったいない。妓女といえども定期的にメンテナンスも欠かせない。ある程度の年齢になったら退職金を用意してやれば、精一杯働いてくれるかもしれない。決して売られた女ではなく、自分の意思で仕事をまっとうできる女であれば素晴らしい。
泣き喚くオンナではなく、強くたつオンナを。
「いいかな?」
珍しく扉をノックなどして顔を出したウイセラは、訳知り顔でちらりと新聞へと視線を向けた。
「朝から朗報だね」
鼻で笑うようなウイセラの言葉を無視し、コリンは涼やかな目元をゆっくりとウイセラへと向けて唇を開いた。
「叔父さま」
「さすがに決意ができたかな?」
もちろん、ウイセラが言う決意など言われずとも判っている。
このような醜聞に塗れた男との結婚など白紙にしてしまえというのだろう。
だがコリンはその事柄をさくりと無視した。今一番大事なもの、それはいったい何か。
「娼妓を雇いたいのですが、月契約なのでしょうか? それとも売り上げによって変わりますの?」
もちろん、経費削減だ。
無駄な出費は敵でしかない。
コリンの真摯な問いかけに、ウイセラはぴたりと動きを止めて愛しい姪をじっと見下ろした。
黙って座らせておけば何よりも美しい人形のような彼の愛しい姪は……
「ごめん、叔父さん、どうしてそんな会話になるのか理解できません」
彼の愛しい姪は、もしかしたらウイセラにはまったく理解できない辺境の国の出かもしれない。
時々ちょっぴり言葉が通じないのは、自分の頭が固いからではないだろう。
がっくりと肩を落としたウイセラは、いつも通り断りもなくコリンの座る円卓の反対側の席によれよれと座り溜息を吐き出した。
そうしてコリンの意味不明な問題発言の真意を問おうと口を開きかけたが、その耳は廊下をやってくる足音に気づき、視線を扉へと向けた。
規則正しい二度のノックは、この屋敷の家令のものだ。
主の返答を待ち、いつもの通りに一拍の間をあけて扉を開くと、お決まり通りに軽く頭を下げた。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。
ご予定にはございませんでしたが――本邸にコリン様との面会を求めてお客様がいらしてございます」
その手に掲げ持つ銀のトレイには一枚の名詞。
ウイセラは自らの脇を通り過ぎようとする家令のトレイにひょいっと手を伸ばし、薄っぺらい名詞を取り上げた。
上質の紙に記された金色の飾り文字。
「おやおや、言い訳に来たな若造め。
まぁ、そりゃあそうだよねー。
愛人暴露の挙句、女を孕ませたとあっては言い訳もたいへんだ」
不快そうに口にし、その名詞を真ん中から二つに引き裂き、更に重ね合わせてもう一度破くとそのままぱっと放り投げた。
ひらひらと無残に裂かれた紙片が踊り、起毛の絨毯にゆっくりと落ちる様を冷ややかに眺め、コリンは静かに口を開いた。
ひらひらと、まるで雪のように散る紙片はすき放題の場所に落ちていく。
「叔父様」
「なんだい?」
「きっちりと自分で拾って捨てて下さいませ」
――コリンの屋敷の使用人は、すべてコリンが給料を払っている為、無駄な仕事は一切不経済とみなすコリン・クローバイエだった。
***
おそらく、その日の新聞の醜聞について一番最後に反応を示したのはその人物だった。
「あああっ、駄目ですよ! まだ読んでないのにっ」
従業員のすべてが暇な時間に目を通すようにしている新聞は、低俗なデイリーから貴族院の人間が好む一流紙までそろえられている。もちろん、サロンの客が読む為の新聞も用意されているが、だからといって朝一番で暖炉の炊きつけにされてしまってはたまらない。
昼過ぎに目を覚まし、従業員用の控え室で読んでいた新聞をぐしゃりと丸め、そのまま暖炉に放り込もうとしていたリアンは、無意識の行動に肩をすくめて見せた。
「ああ、失礼。
不快な記事にちょっとばかり錯乱してしまいました」
ちっとも錯乱などしている様子もなく、本日もディーラーの衣装に身を包み込んだリアンはにっこりと微笑んだ。
白と黒ですっきりとまとめあげられたお仕着せに、首元にはリボン・タイが今は結ばれずにたらされている。
すでにうっすらと化粧をすませた顔には、控えめな口紅がそれと判る程度に塗られていた。
長い髪は未だ結い上げられておらず、さらりと肩口でゆれる。
手にある新聞は、ぎゅっと絞るようにしわくちゃにされていて、いまさらアイロンをかけたところで無駄だろう。いまさら元に戻るとも思われぬ。
ニッケルはこっそりと嘆息し、あとで誰かにもう一度買いに行かせなければと脳裏に刻んだ。
「世の中に下衆は多いですけれど、まさか嫁入り前の淑女に手を出した挙句、妊娠したら捨てるなどという鬼畜が私のコリン様に求婚とか、何かの間違いですね。ええ、本当に」
「……なんか、いつもと違いますよ」
ウイセラの片腕であるニッケルは薄気味の悪いものを見る視線を向け、なんとはなしに身を震わせた。
「そんな腐れた男が本当に存在するなら、そんな無駄なモノ切り取った挙句三枚におろして目の前でフカの餌なりブタの餌なりして、当人は簀巻きにして、野ざらしくらい当然ですよね」
「満面の笑みで怖いこと言わないで下さいよ。
下半身がなんか、こう、寒気をもよおすというか……微妙にきゅうきゅうするというかっ」
心なしか萎縮してしまう感覚にニッケルが身を震わせると、面前の相手は小首をかしげて微笑んだ。
「いやですね、ニッケルさんのことじゃ無いですよ?」
「当たり前ですっ」
いやそうな顔でぶるぶると顔を振り、ニッケルは相手から大事な部分を守るかのように一歩身を引いた。
「でも、きゅうきゅうするくらいじゃ打撃になりませんね。
もっと、血反吐を吐くくらい絶望を与えるにはどんな仕置きがいいでしょうねぇ」
「リアンさんっ。自分だって男でしょうにっ」
更に恐ろしいことを言われるのを恐れたニッケルが悲鳴をあげるように言えば、リアンはふいに身を伏せたかと思うと、一息にニッケルの間近に迫り――ぴたりとその首筋にナイフの刃を押し当てた。
「リアンはオンナですよ。間違ってもらったら、困る」
小首をかしげて確認するように問いかける相手に、一気に血の気を失ったニッケルは喉の奥が引き連れるのを感じながらゆっくりと――決してナイフにあたらぬように瞼を伏せて返答した。
「失念しておりました」
ニッケルの唇からは冷静な言葉が落ち、
「それに、サロンにいるのはアンリです。ああ、アンリは男でいいんですよ?」
リアンは冗談でも口にするように口元を綻ばせた。
今の自分をアンリと示す癖に化粧を忘れていないのは、ただたんに――趣味かもしれない。
滑らかにナイフが空をよぎり、首元から消え去るとニッケルの背にじわりと汗が浮かび、それが背骨の辺りをつっと流れていく感覚を覚えた。
腰の隠しから引き出したナイフを手の中でもてあそびながら、リアンは切なそうに吐息を落とした。
「今頃コリン様があの記事を読んでこの縁談をあきらめて下さるとよろしいのですが」
「――まぁ、普通に考えればやはりそのようになるのでは?」
ニッケルは水差しの水をグラスにあけ、一口飲んでから自らを落ち着かせて一般的な回答を口にしたが、リアンはその言葉にテーブルの上の果物籠の中にあるリンゴをナイフで刺して持ち上げると、まるで照れるようにゆるゆると首を振った。
「私のコリン様は何気に意地っ張りですし、時々思考回路が……時々、ちょっと……」
――果たしてこの言葉に追随してよいものか、ニッケルには判らずに曖昧な微笑にとどめた。
というか、なぜリアンがうれしそうに顔を赤らめて照れているのだろうか……どう突っ込むべきか、それとも放置するべきかとニッケルが途方にくれていると、従業員が忙しなく動くのが視界に入り込む。
「リアン……いえ、アンリさん。今日もサロンに顔を出されるのですか?」
「もちろん。いい小遣い稼ぎになりますしね。それに、クライスやどっかの子爵の情報をお持ちの方がいるかもしれませんし」
言いながらリアンはリンゴに歯をたて、口の端からこぼれそうになった汁を舌先でぬぐった。
「なんといっても、サロンの客程無防備な子羊はいない」
「頼みますから、ほどほどにお願いします。サロンの評判落とさないように」
「もちろん」
リアンは心底うれしそうに微笑んだ。
「そんなものどうでもいいです」
***
「あなたを傷つけるつもりはありませんでした」
その眼差しは半眼に伏せられ、恥じ入るようにとつとつと言葉がゆっくりと落とされた。
本邸の広い居間は居心地が悪かったが、だからと言って自分の屋敷に相手を招くことはできずに――コリンはなんとなく馴染みの無い椅子の上で身じろぎした。
父の趣味で揃えられた家具はすべて趣味が良い統一された繊細な家具で、足元の絨毯の起毛はうっかりすると足をとられる程に分厚い。
何より、本邸の居間の壁にはずらりと銃が並んでいたりしない。
かろうじてコリン好みの壷が飾ってあるが、もともとあの壷はコリンが収集しているもののひとつだ。週ごとに本邸の執事がコリンから借り受けに来る――もちろん、リース代金は一日単位でしっかりといただいている。時間で区切ろうとしたら、さすがに執事が嫌そうな顔をしていた為に自重した。
自分の趣味すら現金にかえる。
むしろ趣味だからこそお金にかえたい。
身内に厳しくお財布に優しいコリンだった。
「今回のことで、私との結婚に不安があるのも判ります。
いったん白紙に戻してもらったとしても仕方ない――あなたの心が私に向くまで、いつまでも待ちます。ですからどうぞ、友人として付き合いを続けることはお許し下さい」
とつとつと、ただ静かにとつとつと語る相手の瞳をじっと見返して、コリンはいつもと変わらぬ抑揚の無い口調で口を開いた。
「別に白紙にするつもりは今のところございません」
さらりと言われた言葉に、その言葉を向けられた当人のほうが戸惑うように視線をさまよわせた。
手ひどい言葉で結婚などできないといわれるものと思っていた様子がありありとこぼれる。
まるで救いを求めるようにして使用人すら見たクライスに、コリンは言葉を重ねた。
「不安も不満もございませんが、できれば愛人ではなく」
――娼館のご利用を検討していただけないでしょうか?
もちろん、あなたの大事なお人形さんは手放していただきたくありませんが、他の女性は手を切っていただいて、愛人手当ての必要の無い娼婦で事をすませていただけるとたいへんお得だと思います。
ついでにその女性達を斡旋させていただくと、これからのお仕事に明るい未来が見えそうです。
そう口にしようとしたというのに、それをすばやく察知した背後の女中は手にしていた茶器からぱっと手を離した。
確認するまでもなく、起毛の絨毯は柔らかく白磁の茶器を受け止め、割れることも大きな音をさせることもなかったが、かぶせるように女中はわざとらしい悲鳴をあげた。
「まぁっ大変!」
「コリンさんっ、お湯がはねませんでしたか? ああっ、これは大変っ。お部屋に戻って着替えなさいませっ」
ちっともコリンのドレスにかかっていないというのに、女中二人は無理やりコリンを引っ張り、にこやかに客人に微笑んだ。
「せっかくいらしていただきましたけれど、お召し替えが必要なようです。
失礼させていただきますねっ」
まるで嵐のように「オーホホホ」とわざとらしい笑いを撒き散らし、コリンを連れ去った女中に唖然としたクライス・リフ・フレイマはしばらくの間固まっていたが、コリンが連れ去られ、開け放たれた扉から、一人の見知った男が顔を出すと、はっと息を飲み込んだ。
止まっていた血流がざっと逆に流れるかくかくを覚え、クライスは乾いた唇をかみ締めるようにして湿らせた。
「カロウス……」
かすれた音が唇からこぼれ、意表をついた焦りに頭の中が忙しなく動く。
――これは……
「やぁ、慌しい姪ですまないね?」
ウイセラはカロウス・セアンの顔で――淡い微笑を浮かべて見せた。
――幸運だ。
クライスはごくりと口腔に溜まった唾液を嚥下した。