その6
馬車道を有する石畳の上をゆっくりと歩みながら、コリン・クローバイエは自然と自分の身の内に冷ややかな何かが蓄積されていくことに気付いていた。
結婚とは何か。
それは女にとって最大の投資だ。
では、現在面前にある自らに向けられた結婚はそれに値するものだろうか?
――幾度考えをめぐらせ、可能性を突き詰めてみたところで答えは微妙なものにしかならない。
つまり、否。
この婚姻は最大の投資というにはお粗末過ぎる。
だが、父は口元に笑みを浮かべて見せた。
数々の投資を指先ひとつで決めるその眼差しを緩めて。
よく考えろと。
では、自分は何か見落としているのであろうか。
この婚姻にはもっと深い何かが存在し、自分にとって――いいや、ヴィスバイヤにとって最大の恩恵を得られるような何かなのだろうか。
苛々としたものが体内をめぐり、八つ当たりのように「父さまは意地が悪い」などと考えてしまう自分に本末転倒な恥ずかしさを覚え、鼻にわずかな皺が寄った。
そう、これは父との戦いなのだ。
父を打ち負かす為の戦いに、相手からの助言などあろう筈が無い。
そんなものがあったところで信じられるものでもないだろう。商売とは相手の裏をかき、騙し、騙され、そしてわずかな利益にすがるもの。
コリンは目当ての雑貨店の扉を前に、意識を切り替えるように深い息を腹の底から吐き出した。
伏せた瞼、睫毛が振るえ――先程まで苛々と考えていた事柄をゆっくりとリセットさせる。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりとまわし、そしてカウベルのカロンっという軽快な音を耳に入れた。
***
物事がうまく進まないのはよくあることで、人生の内の大半はそんなものだった。
たとえば、何故自分は産まれたのかと言えば――スペアだ。
ただの代替品。
組み込まれる血統というシステムのうちの、ただのスペア。
本物ではなく、本物に支障が生じた場合のみ、その真価を問われるだけのただの駒だ。
そんな状態で生きていく人間が、聖人君子の如き高潔さと潔癖さを発揮しているなど滅多にないものだ。
結局は飼い殺される人生に気付き、足を踏み外したところで正規品である人間がいるかぎり、自分に目をむけられることは無い。
無くては困るが、あったところで邪魔臭い。
たかがそんなものでしかないただの偽者。
世の中にはいくつもの爵位を持つモノがいる。
数多の領地を拝領し、いくつもの称号を持つ――選ばれた者。
だが、それはマレだ。
爵位を持つ貴族にも上には上が存在し、そして持たざる者も数多存在する。
そう、運が悪かった。
ただそれだけ。
「いい加減にしろっ。いつまで手間取っているのだっ」
低く脅しつけられた言葉が脳裏によぎり、忌々しさに手の中のグラスがちいさくぎしりと悲鳴をあげた。
繊細なそれがきしむことに身をすくめ、割ってしまわないようにとテーブルへと引き戻す。
――運が悪かった。
ギフォート子爵との付き合いは、それほど深いものではない。
それでも、相手はすでに子爵としての爵位を持ち、やがて父親が持つ伯爵位を継ぐことになるだろう――つまり、自分のようなスペアとは違う生き物との付き合いは後々にも影響が大きい。王宮にも出入りし、果てには元老院にも列席する筈の身。
だれが邪険にできるだろう。
いや、それ以前の問題で、誰が逆らえる。
借金の肩代わりを申し出た人間を。
「金のことなど気にするな。その代わり――ちょっとした頼みがある」
その頼みが、今自らの首をきりきりと締め上げることになろうとは、誰も判る筈など無い。
「くそっ、冗談じゃない!」
はき捨てた言葉は、けれど誰の耳に届くことなくシンとした闇の中に消えうせた。
ギフォードの尻拭いの為に、何故こんなことにならないといけないのだ。
ああ、ああそうだ。
簡単なことだと思ったのだ。
たやすい事柄ひとつで、莫大な借金が清算できると思えば誰だとて手を伸ばす。この取引はそういったものだった筈だ。
「何をぐずぐずとしているのだっ。
貴様を失脚させることなど簡単なことなのだぞっ」
気色ばんだギフォードの顔を思い出し、その滑稽さに喉の奥が小さく鳴った。
失脚?
そんなもの、もともと自分には関係が無い。
むしろ自分のほうがヤツの失脚の足がかりを手にしているのだと、何故ヤツは気付かないのだろう。
――だがそうはしない。
伯爵にでも、元老院にでも何にでもなればいい。
この先ずっと、金をすすり取れるネタとしていくらでも肥え太るがいい。
口元にうっすらと浮かんだ笑みを打ち消すように、わずかなノックというには遠慮がちな引っかくような音が耳に入り込み、嘆息が落ちた。
ゆっくりと扉に向かえば、下女の娘がおどおどと顔をもちあげる。
その手にある薄桃色の封筒をこそこそと差し出してくるのに、ポケットの中にある一番安い硬貨を数枚手渡してやると、娘はぱっと笑みを浮かべてぺこぺこと頭を下げ、手紙を押し付けるようにして姿を消した。
封書に一瞥を向けることもなく、ただ暖炉の中に放り込んだ。
わずかに裏面に記されたAの文字にもうんざりとしていた。
***
場違い……
咄嗟に脳裏に浮かんだ単語は、実に滑稽なことに二人ともほぼ同時に感じていたことだった。
日々の鬱憤を晴らす為に雑貨屋を訪れたコリン・クローバイエは、店内の今にも倒れてきそうな積み上げられた荷物の間にいる紳士然とした男の姿に、
――場違いすぎて阿呆くさい。
と思ったものだし、コリン・クローバイエが来ないものかと偶然を装って雑貨屋で待っていたアルファレス・セイフェリングは、その埃まみれで清潔感の欠片もない店内に忽然と現れた陶器の人形のような少女に息を飲み込んだ。
――場違いすぎて悪夢のようだ、と。
繊細な細工を施された庭用の椅子。
もしくは猫足にたっぷりの綿をビロードでくるみこんだ高級な椅子に黙って座らせておきたい美貌の少女は、作り物めいた眼差しでちらりとアルファレスを一瞥し、アルファレスは咄嗟に口元に笑みを浮かべてみせたのだが……コリンはすたすたと店の奥、カウンターの上におかれている年代物の呼び鈴をつまむようにして鳴らした。
リリンと涼しい音色が店内に響く中、アルファレスは視線だけで町娘のような格好をしたコリン・クローバイエを追いながら口元を引きつらせた。
今……完全に無視された。
ほんの少し笑みを向けられただけで、数多の娘達が頬を染めることが日常であるアルファレスは、まるで道端のポスター程度の関心すら示されなかった現実に口元を引きつらせた。
――ありえない……
ありえないのはアルファレスの思考回路だが、そんなことに頓着することもなく、コリンは奥から顔を出さない店主を呼ぶ為に、さらにもう一度ベルを鳴らした。
「今、倉庫に行っているよ」
それでも苛立ちを隠して親切ごかしにアルファレスが声を掛けると、コリンはベルをつまんだままちらりとアルファレスへと視線を戻し、じっとアルファレスの瞳を見上げた。
頬を染めることもなく、無機質に。
「さようでございますか」
控えめな声が、確かにアルファレス自身へと向けられるのを確認すると、先程までの黒い感情を消し、余裕を浮かべたアルファレスは微笑を浮かべて胸のポケットに収められたハンカチを引き出し、店の隅に置かれている椅子用の樽の上にハンカチを載せた。
「座ってまつといい」
「……」
コリンはじっとそのハンカチを眺め、絹地に銀糸で控えめに施された刺繍に瞬時に値段をはじき出した。
というか、はじき出す時間すら意味もない。
――もったいない。
樽とコリンの木綿のスカートの間に絹地のハンカチがプレスされることを思えば、コリンはそのハンカチを無視して他の樽にさっさと腰を預けることにした。
「……謙虚だね、というべきかな」
「わたくしのスカートよりもあなたのズボンが汚れないようにしたほうが損失は少ないものと思いますが」
樽は毎日ふいてはいるだろうが、あいにくともともと埃っぽい場所なのだから、店主の気遣いなど無為に等しい。
「男の気遣いには乗るものだよ、淑女なら」
「あいにくと淑女ではありません」
つまらない会話を交わしつつ、ふとコリンは相手の瞳をじっと見つめた。
そして淡い金髪に猫毛。
途端に不愉快なものが喉許をせり上げ、コリンはわずかに眉間に皺を寄せた。
――何故か激しく不快な気持ちがよみがえる。
吐き気とも思わせる感覚は、まるで自分の中に張り付いたヘドロのような気持ち悪さだ。
高い身長は栄養をしっかりと受けて育った証拠であろうし、その鼻につくような優美さは貴族だと示している。
一見して場違いだと思ったとおりに、こんな店に来訪するような身分では決してないだろう相手の姿に、コリンは自分のうちではっきりとしたものを感じた。
すなわち、嫌悪。
だからそれは無意識だろう。
不快、不愉快。
はっきりと理解できない苛立ちと腹立ち。
何故に自分はこの面前の相手に対してこんな感情を抱くのだろうかとゆるりと精査を繰り返し、やがてたどりついてしまった回答にコリンは腹部に鉛を落とされたような気持ちを味わった。
――歯を磨きたい、今、切実に。
それが回答だった。
とどめておいても仕方ないと放り出した記憶が、腹立たしい程にほいほいと舞い戻る。
――死ぬまで封印しておいても問題などなかった筈だというのに。
屈辱と共によみがえったモノは、コリンの中の何かを思い切り刺激した。
無造作に手提げ袋にもう片方の手が触れ、布越しの指先に小さな異物感を感じた。それが何かを考えるまでもなく、コリンはふいに微笑を浮かべてみせた。
口元に淡く、その瞳に無機質ではない何かを秘めて。
「お茶を、お飲みになられますか?」
「え?」
突然、それまで作り物の人形めいたしぐさしかしなかった相手が、ふいに口元に浮かべた淡い微笑にアルファレスは戸惑いの表情を浮かべていた。
おそらく、今はじめてコリン・クローバイエはアルファレスをしっかりと見返した。
その硝子玉の眼差しに意味を深めて、面前の男がどんな男であるのか探るように。
自然と口腔に唾液がたまり、アルファレスは瞳を細めて微笑んだ。
そう、そうだ。
それでいい。
アルファレスの体内にとろりとした何かがめぐり、やっと納得したように気持ちが落ち着いた。
その眼差しで見上げて欲しかった。
他の誰でない自分を認識して欲しいと願った。
その奇妙な気持ちは、まるで体内で自由になれない鳥がざわめくように。
やっと――コリン・クローバイエはアルファレス・セイフェリングをその身の内に認識したのだ。
何故か満足するような気持ちが広がり、アルファレスは示されるままに滑稽な樽に腰を預けた。
先程までこんな場所で茶など冗談だろうとあざけっていた気持ちも忘れ、コリンが示す誘いに――渇きを癒すように。
「煎れてもらえるのかな」
「もちろんです」
作り物ではないにっこりと微笑を浮かべたコリンは、手提げ袋の中から小さなアルミの缶を引き出し、その瞳には期待に満ちた喜びを示していた。