その5
イーストエンドのさびれた事務所の階段をおりながら、クロレア・セイフェリングはぎゅっと手提げ袋の紐を握り締めた。
探偵などという如何わしい職業の人間を使うことなど汚らわしいが、それでも手っ取り早いだろうと新聞の切り抜きを頼りに訪れたのだが、交渉は忌々しくも決裂した。
「セイフェリング家の」
自分の身分まで明かし、代金の支払いは本邸に言えばいいとまで言ったというのに、相手はまるきり胡散臭いものを見るかのような眼差しでクロレアを無遠慮に眺めまわした。
「うちらはね、情報を売り買いしているようなもんでしてね」
男はまずそう言った。
「あんたさんがセイフェリング家の長女だっていうことを証明してくれないと、指先ひとつ動かせませんよ」
「名刺を見せたでしょう」
「名刺ですかい?」
やれやれ、と無精ひげを生やした中年男はつぶやくと、おもむろに引き出しを開いて紙束をばさりとテーブルの上へと投げ出した。
「これ、ぜーんぶあたしが仕事上で使っているもンです。弁護士に警察官、医者なんてもんもあるなー。さて、あたしゃどこの誰でしょうな?」
ようは名刺一枚で信用などできるかという意味らしい。
むっとしつつも、クロレアは視線をきつくして相手をねめつけた。
「私の言葉を疑うというの?」
「セイフェリングといやぁ、名門だ。その資産も領地もこちとらきっちりと存じ上げておりますよ。もちろん、そこのご令嬢が三人さんもいらっしゃることも――クロレア・セイフェリングとおっしゃる未亡人がいることも」
「だったらっ」
「あたしの知るご令嬢というヤツは、たいてい一人でこんな場に来やしませんよ。うっとうしくも付添い人を一人二人引き連れてくるもんだ。しかも、あなたさんのように貸し馬車なんぞではなく、こちとら何年働いても手なんざ出やしない仰々しい煌びやかな紋章入り馬車でね」
鼻で笑うように言う台詞に、クロレアは我慢の限界を超えた。
もともと我慢強い性質ではなく、何より市井の人間に侮られていられる人間ではない。
勢いをつけて席を立ち「後悔するといいわ」と吐き捨てて、汚い事務所を後にしたのだ。
――あれもこれも、それも!
全てアリーナ・フェイバルのせいに他ならない。
自らの口が災いしたなどと決して認めないクロレアはぎりぎりと奥歯をかみ締めた。
薄暗い階段を苛々とした気持ちを抱えたままおりて、石畳の上に足をおろした途端にクロレアはぎりっと首を先程の事務所のある二階へと向けた。
窓からニヤニヤと覗き込んでくる男がひらひらと手を振る動作に、クロレアはかぁっと体温があがるのを感じた。
「お嬢ちゃん、嫡男に追い出されたっていう話をしないのはフェアじゃないぜ?」
ちょいちょいと指先で猫の子でも誘うように、不届きな男はクロレアを招いた。
「ちょいと真面目な話をしようや」
「私はお嬢ちゃんなんかじゃなくてよ!」
「失敬。あたしにしてみりゃ、ケツに殻をひっつけたひよこみたいなもんさ」
無精ひげをなで上げてあがってくるように言う男に、クロレアは屈辱を覚えながらもその足を階段へと向けた。
短気をおこしている場合ではない。
アパートの家賃だとて……あと二月は払えるかもしれないが、その間に実家に戻らないといけないのだ。
その為には、アルファレスの要望通り――コリン・クローバイエには泣いてもらわなければならない。
***
本家に届いたコリン宛の手紙は、一旦纏め上げて本家の執事の手からコリンの自宅の執事へと渡り、届けられる。
銀色のトレーの上に丁寧に乗せられた手紙の中に、婚約者候補からの手紙が入り込むのは最近よくある事柄のひとつ。
「熱心でいらっしゃいますね」
女中の一人が楽しげに言うのに対し、コリンはすでに開封された跡のある書簡を手に、じっとその重さを量るかのように停止した。
「コリンさん、なんだか手紙が爆発でもするような警戒はそろそろおやめになったらいかがです?」
「そんなことは思っておりません」
――コリンが考えているのは、どうしてこうも無駄に郵便を出すのだろうという根本的な事柄だ。
内容はこれといって変わらない。
親愛なるからはじまり、時節の挨拶、コリンの体調を気遣うような文言。自分の近況――この近況にしたところで、一日二日で何が変わるのか。市場価格が変動するとでもいうのであれば大事だが、たかが人間一人なにがどうしてそんな無駄なことを繰り返すのだろう。
そういうコリンは、合理性を考えて週に一度手紙を返すようにしている。
――むしろ返事などまとめて一月でもいいような内容だが、さすがに女中二人がうるさいので仕方ない。
そして、この三回程の手紙の内容は――
「あの、差し支えなければ進言させていただきますけど」
無遠慮に手紙の内容を背後から覗き込んでいる二人組は、ちらちらと視線を交わしあい、うーんっと一つ唸って口にした。
「差し支えます」
コリンは手紙をぱたりと閉ざし、さっさと封筒の中に戻し始めた。
「いや、あのっ」
「憶測ですけど!」
二人は声を合わせた。
「きっと婚約者様はコリンさんにお茶に招待していただきたいのではないでしょうか!」
やっと言い切ったというようにほっと息をつく二人を胡乱気に見返し、コリンは「そうかもしれませんね」とあっさりと認めた。
この三回。
手紙の中でお茶の話題がたびたび記されている。
親しい人のお茶会に出席した。
招かれた。
――そして今回に至っては、とうとう率直に「コリンさんの入れて下さるお茶はきっととても美味しいでしょうね」と記されている。
鈍感なコリンといえど、何かを必死で匂わせているのだろうというのは感じる程度には判りやすく。
「ご招待されてはいかがですか?」
「きっとお喜びになられますよ」
何故か必死で相手を後押しするような二人を冷たく見返し、コリンは淡々と口にした。
「ここに?」
――女中二人はやたらとゆっくりとした動作で部屋を見回した。
コリンにとってたいへん居心地の良い彼女の邸宅の居間には、銃を手入れする為の小道具をびっしりと収めたチェスト。帽子立ては帽子ではなく作業用のエプロン。
そして何より、壁には一面びっしりと短銃が飾られている。
「ここに?」
コリンは確認するようにもう一度問いかけた。
ほんのりと冷ややかさを更に深めて。
「えっとぉ」
「まぁ――駄目ですよねぇ」
***
カロンっと鈍いカウベルの音と共に、老いた店主が「いらっしゃーい」と愛想の良い声を出入り口へと向けてくる。
その手にはハタキが握られ、乱雑に積まれた荷物の上をはたはたと叩いていた。
ぷんっと鼻についたのは、カビ臭いような微妙な香り。さらにはたはたと叩かれて落ちる埃とがあいまって、アルファレスは片眉を一旦跳ね上げ、苦笑した。
「雑貨屋なんてはじめてだけれど、なんだか色々なものがありすぎてすごいものだね」
「何か目当てはあるのかい? それとも、冷やかしかい?」
背中を向けたまま、相変わらずはたはたと埃をはたいている店主に肩をすくめ、アルファレスは「お使いで来たのだけど――まあ、ちょっと見せてもらっていいかな。色々おもしろいものがありそうだ」と、ところ狭しと置かれている商品の一つに手を伸ばした。
「お使い? 品物が決まっているなら言っておくれ。この宝の山からたった一つのモノを探そうったって一見さんには無理ってもんさ」
「フレリックから頼まれたんだ。なんだったっけかな――えっと、ガラス板? なんとかっていう塗料が塗られている」
あやふやなことを口にするが、店主には思い当たる節があるらしい。
「そりゃ届いているけど、あんたがフレリックさんの使いだつていうのはどう証明すりゃあいい?」
言われて、アルファレスは自分のジャケットのポケットからカード・ケースを取り出し、一枚の名刺を示した。
「これでいいかな」
その言葉でやっと動作をやめて振り返った店主は、そこにたっていたのがどうみても紳士だと気づいてギョッとした。
貴族が好んで出入りするような店ではないのだ。
だが、相手は一目でそれと判る仕立ての上下。そして貧乏人には決してかもせない雰囲気をまとっていた。
「ああ――おや、あんたがもしかしてアレかい?」
金色の文字で飾られた名刺をしげしげと眺め、店主はふいに探るようにアルファレスを見返した。
「フレリックさんの師匠って人かい?」
錬金術師の?
その問いかけに、アルファレスは迷惑そうに顔をしかめた。
「違うよ。まぁ、錬金術師の兄ではあるけれど――」
「へぇ。いやね、一度弟さんにお会いしたいとは思っていたのだけどね」
苦笑するように言いながら、店主は片手を振った。
弟と言われたのをわざわざ訂正する気にもならず、アルファレスはさらりと流した。
「とにかく、品物は奥だ。取りに行く間、好きに見てくれたらいいし。そこのすみでお茶を飲んでいてくれてもいい」
ハタキで部屋の隅を示されるという普段は滅多にない体験をしたアルファレスは、面白そうに瞳を瞬いて誰もいない店内をもう一度見渡した。
フレリックは嫌がっていたが、荷物をかわりに取りに行ってあげるといって無理やり聞き出した雑貨屋は、まさに倉庫という有様だ。
竹の子のようにずんずんと棚が置かれ、そのすべてが天井ぎりぎりにまで荷物を載せている。棚と棚の間も狭く、片面を見る間。その反対側を見ることすらかなわないだろう。
雑多という言葉がこれほどぴったりな場もない。
そう思いつつ、どんなものがあるのかと手を伸ばし、白手にうっすらと埃がついたことに苦笑した。
お茶を飲んでいて良いといわれたが、どう考えてもこんな場で楽しく美味い茶が飲めるとは思えない。
それでも言われた隅をみれば、客の為なのだろう――お茶のセットが置かれていた。
樽を逆さまにしたモノの上に。
「うわぁ……」
思わずおかしな言葉が口から漏れ出てしまい、そのことに苦笑した。
こんな店にあの娘が来るというのだろうか?
――フレリックに騙されたのではあるまいか?
高慢な令嬢が訪れるような店とは到底思えない。
何より、フレリックが言っていたように、こんな欠けた茶器に埃が入りそうな場で、あのビクスドールのような女がお茶を飲んでいるなんて……
すっと手を伸ばし、欠けた茶器の淵に触れたアルファレスは、この場にいるコリン・クローバイエを想像した。
テーブルの代わりも、椅子の代わりすら何を入れていたのか判らないような樽を逆さまにしたもの。
そこに、あの美しい生き物が座っている様を。
「冗談――」
ふんわりと揺れる後れ毛に、陶器のような白い肌。
滑らかで華奢な身を包んでいるのは、重ね合わせた絹地。
伏せた瞼に揺れる硝子玉の瞳。
想像しているだけで何故か喉の奥がからからに乾き、こくりと喉仏が上下に動く。
下げられた視線があがり、アルファレスを捕らえた途端――彼女の瞳はさらに冷たく、無機質に変化した。
途端に血の気が引くような気持ちがざわめき、息を押し殺したアルファレスの耳に――
カロンっとカウベルの音が響いた。