その2
円卓の端に無造作に置かれた猫面――
雨粒のようにカットされた宝石が縁取られゆれる猫面を眉間に皺を寄せながらにらみつけながら、アルファレスは唇を引き結んだ。
瞼を伏せれば、脳裏に鮮やかにその姿が浮かび上がる。
冷たい無機質な眼差し。
まるで石ころや野草でも眺めるかのように、何の感慨すら浮かばない瞳。
結い上げられた髪は、耳の辺りだけおろしてゆるくコテを当ててカールさせ、それがふわふわとゆれていた。
その瞳にわずかに色を見せたのは、ダンスの後にたたらを踏んだアルファレスに対して蔑むような声をかけた時。
――そして、おそらく、口付けをした後。
あの眼差しはどんな表情を見せたのだろう。
まるで壁でも相手にしているような対応をしていた女は、あの時――どんな表情を浮かべ、アルファレスを捉えたのだろうか。
その表情を知りたいと切望しても今となってはもう遅い。
その表情は男の顔によって塗り替えられた。
アルファレスはぎしりと奥歯をかみ締め、口の中で口汚く罵った。
あの瞬間、相手を陥れようとか、アリーナのこととかを考えた訳ではない。
ただ見たかったのだ。
あの取り澄ました女が。
目の前に立つアルファレス・セイフェリングを決して自らの意識の中に入れようともしない腹立たしい女が、自分を間違いなく認識する表情を。
あの無機質なガラス玉の瞳を粉々に打ち砕いて。
そう切望した瞬間――道化姿の男がその瞳を白手で覆い隠し、皮肉な笑みでアルファレスを捕らえた。
嘲り、嘲笑、そして、呆れ。
一瞬のうちにそのすべてを示し、アルファレスを見下したのだ。
皇女シルフォニアの側近にして道化師。
普段からふざけた姿や言動で有名でありながら、その地位の高さで国中の女達の視線を集めるグリフォリーノ・バロッサ。
その素顔を晒したことにより、その腕に捕らえられた女の存在などすべて消し去った。
元々の予定であるコリン・クローバイエの名誉の失墜などもろともに。
もう少しで掴みかけたものを横から連れ去られた苛立ちが今も自分の中で鉛のように滞る。
ただ一度の失態と笑ってすませばいいこと。
だというのに、口惜しい思いが体中で暴れている。
コリン・クローバイエ――おまえはあの時、どんな瞳をしていた?
あの口付けを、お前はどう感じた?
苛立ち、嫌悪、腹立ち。
どんな感情でも構わない。
その瞳の奥にあるものを見たい。
――アルファレスは眉間に皺を寄せ、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「さて……次はどうしよう」
もう遠くで見ていることはやめた。
近く、触れるほど近い場所で。
***
エイシェル・セイフェリングはその愛らしい顔を思い切りゆがめた。
エイシェルの趣味といえば、買い物だ。
買う買わないは別にして、様々なかわいいものを見るのが大好きで、付き人を引き連れ、家の紋章が刻印された馬車で街をゆくことを楽しみとしている。
この日も可愛らしいハンカチーフを見つけることができたし、愛らしい髪飾りも購入した。もちろん、どの商品も兄の名前でツケてある。
宝石やドレスを勝手に購入するのとは違い、小物に関していえばアルファレスは寛大なよい兄といえるだろう。
機嫌よくエイシェルが雑貨店を出ると、それに合わせて店のベルが小さな音をさせる。それを耳にいれつつ、付き添いのチェルシーの無駄な小言を無視しながら、店の前で待たせておいた馬車に乗り込もうとした。
侍従が当たり前のように馬車のステップを引き出し、頭を下げる。
その顔がどこか引きつっていることに首をかしげ、それでも馬車に乗り込んだエイシェルだったが、やがてその表情は思い切りゆがんだ。
「何してるのよ、クロレア姉さま」
「ちょうど見かけたから少し話しがしたいと思って」
馬車の中で扇を動かす姉の姿に、エイシェルはうんざりとため息を吐き出した。
屋敷を追い出されたクロレアの行方については、おおまかな見当をつけている。どうせどこかの男の家にでも入り込んでいることだろう。
二度の結婚を破綻させた女は、外聞など鼻にもかけない。
だが、今眼前にするクロレアにはいつもの華やかさが無い。
――どこで何してるんだか。
エイシェルは鼻に皺を寄せ、どさりと馬車の座席に腰を下ろした。
わざと大きな音をさせて。
「言っておくけれど、お金を貸してと言われても無理よ」
先手を打って言えば、クロレアはエイシェルを睨み付けた。
「あなたの買い物がすべてツケだなんて承知しているわよ。何より、あんたにお金を借りるほど落ちぶれてはいないわ」
「まぁ、そうよね。で、その落ちぶれていない姉さまがあたしにいったい何の用かしら?」
面白がる口調にクロレアは歯噛みしたい気持ちをおしとどめ、余裕の笑みを浮かべてみせた。
「あなたはコリン・クローバイエの姿を見ているのよね?
で、相手の男のことは? ちょっと教えて欲しいのだけれど」
猫なで声で囁くと、とたんにエイシェルはすとんと無表情に変わった。
――脳内を駆け巡るのは、コリン・クローバイエの姿と、そして声。
何故か共にいるだけで馬鹿にされていると感じるあの話し方と、そしてなんともいえない不快さ。
愛人相手に余裕たっぷりのあの態度!
あのふてぶてしい女っ。
「あんな女だいっきらいよっ!」
エイシェルは八つ当たりするように金切り声で叫ぶと、姉の腕に引っかかる手提げ袋を引っつかんで無理やり馬車の外へと投げ出した。
「何するのよっ」
「あたし帰るんだから、さっさと出ていって!
早くしないと、誰かに手提げ袋もっていかれるわよっ」
せっかく機嫌がよかったというのに――エイシェルはあまりの腹立たしさに馬車の中におかれたクッションを振り回し「キィィィィっ」と奇声をあげていた。
***
王宮の敷地内――皇女シルフォニアの為に作られた宮は小ぶりながらも敷地内奥深く、強固な守りを見せている。
深い森に三方を囲まれ、正面には王城と、そしていくつかの砦のような検問すら築かれている。
現王にはシルフォニアしかその血をつなぐものが無く、果てにはシルフォニア皇女が他国の皇族と姻戚を結び、この国の女王となると目されている。
その皇女に面会を求めるのであれば、本来であれば数日前に打診の為の書簡を送ることが定められているが、ウイセラは手土産として持参した焼き菓子と、仕入れたばかりの商品の中から上質の生地と宝石を手土産に面会を申し入れた。もう幾度も送られている皇女自らの記名のある召喚状と共に。
前宮、中宮と幾つもの扉を経由し、幾人もの人間の案内を経てたどり着いた場で最後にウイセラを受け入れたのは、近衛のすらりとした隊服を着用した優美な男だった。
身長はウイセラと同等、もしくはそれよりもわずかに低い。筋肉質ではなくすらりとした体躯を近衛の制服の中にすっきりと収め、爽やかな微笑を浮かべてみせる。
「お久しぶりですね」
ウイセラが普段のふざけた笑みを消し、丁寧に挨拶をすれば、相手はいったん意味ありげに片眉を跳ね上げたが――すぐにまたにこやかに応じた。
「再三の呼び出しを無視なさるウイセラ殿がご来訪とは珍しい。うちの姫様も驚いておりますよ」
「無視などとは人聞きの悪い。こちらは商人――働かねば食べていけません。仕事を捨てて参上するには、船出中はどうにも厳しい。ご理解いただけるものと思っておりますが」
「理解しておりますとも。ですので極力港に寄港したタイミングをみているつもりなのですが、不思議といらっしゃらないと報告が参ります」
近衛のグリフォリーノ・バロッサは人の良い笑みを浮かべて嫌味を並べると、くるりと身を翻すと片手をかざすようにして促した。
「こちらへ」
「――」
ウイセラはグリフォリーノの言葉に内心顔をしかめ、その背を睨み付けようかと嫌でも視界にいれ、思わず息を飲み込んだ。
正面から見たグリフォリーノは、皇女シルフォニアの近衛として申し分ない程の美丈夫である。
その衣装もきっちりとノリが利き、折り目も正しい。
きっちりと撫で付けられた黒髪。
薄く引き結ばれた唇も、その眼差しも不足ない。
だが、その背にべたりと貼り付けられた紙はそのすべてを裏切っていた。
――エロ親父。
赤い飾り文字でかわいらしく書かれている表現は、おそろしく可愛らしくない。
「……」
息を呑みつつ、これはもしかして気づいていないのだろうかとウイセラが口の端を引きつらせると、ウイセラの息を呑む音に気づいたようにグリフォリーノはちらりとウイセラを見た。
「何か?」
「――いえ」
気づいていない?
ならばここは進言するべきなのか?
――背中におかしなものがついていますよ、と。
だがしかし、普通に考えて気づかないものだろうか。そもそも、誰があんなものを近衛に貼り付けるのだろうか。
実はグリフォリーノ・バロッサは嫌われ者か?
さすがのウイセラもこの場をどうしてよいのか判らなかったが、グリフォリーノは肩をすくめた。
「ウイセラ殿はこういった場合放置プレイですか。まぁ、嫌いではありませんが、できれば放置プレイよりは突っ込みが欲しいなぁ」
「なんなんですか、それは」
どうやら気づかないうちに貼られた訳ではないらしい。
ウイセラは何故かほっと安堵の息を吐き出した。
「昨夜仮面舞踏会に行ったことがご主人様にばれまして――今日一日貼り付けていろと命じられたのですよ。ちなみに、二十人の心やさしい人に突っ込みを入れてもらえたり、こっそり剥がしてもらえれば晴れてはずす許可がおりますが、残念なことにウイセラ殿はノーカウントだ。今のところ言ってくれたのも二人だけで、後の人はこの話題に触れることもなかった」
ウイセラ殿がこれほど不親切とは、残念です。
嘆息を落とし、その後にこやかに言葉を続ける相手に、ウイセラは何故か敗北感を感じた。
――自分も相当ふざけた人間だと自負しているが、グリフォリーノには適わない気がした。
ものすごく理不尽なことに。
「――ところで」
ふと、グリフォリーノは思い出したように言葉を続けた。
「わざわざこちらを訪れたのは、やはりアレですか?
私が貴方の姫君に気づいたかどうか確かめに?――あなたは切れ者だと思っていただけに、残念ですね。迂闊すぎる。こんなに早く反応してはいけませんよ。
ああ、先に言っておきますが――今回のことはうちのご主人様は知りませんよ。知っていたら背中の文字はきっと【役立たず】だと思うな」
時節の挨拶でも口にするようにさらりと流し、グリフォリーノは小首をかしげた。
「私は貴方の姫君に貸りがある。だから今回は敬愛する主人を欺こうと決めました――でも、できれば自らあの方にはお出まし頂きたい。
うちのご主人様、傲慢で意地悪で時々お尻を引っぱたいてやりたいくらい小憎たらしいですけど、でも――あの方に対して抱いている思いは根本のところでいつまでもくすぶっている。アレでか弱い女性なんですよ。心の重荷を解いて頂きたいとそちらに言うのは僭越で傲慢かもしれないが」
ウイセラの肩に埃でもあるかのように軽くはたき、そっと囁いた。
「お二人はオトモダチだ。
早く仲直りしていただきたいものですね」
「――友達とは、知らなかったな」
ウイセラは低く呟いた。
「うちの姫君が臥せった原因は貴方の姫君の心無い仕打ちでしょうに」
「おや、こちらが何も知らないとでも?」
グリフォリーノは笑みを冷たいものに切り替えた。
「愛する姉を失ったどこかの弟が――その八つ当たりに自らの姪に何をしたのか……こちらの見解とはどうやら隔たりがあるようですね」
ウイセラの表情から血の気が引くのをじっくりと眺め、グリフォリーノは満足げにひとつうなずいて見せた。
「ご案内しましょう。皇女がお待ちだ」
冷ややかな舌戦を繰り広げた男が身を翻せば、その背には未だに張り紙がはためいた。
――エロ親父。
それはやけにシュールな……