その10
その眼差しは、苛立ちを倍増させる。
――華やかな色彩、幾つもの宝石がドロップのようにしゃらしゃらと揺れる猫面の奥にあるのは、まるで硝子玉のように無機質で冷たい瞳。感情を寄せ付けず、ただ泰然とそこに存在する。
まるで、目の前に立つ相手など気にかけることなど無いと切り捨てるかのように。
足元から湧き上がるのは苛立ち、怒り。
アルファレスはただただ腹立たしかった。
自分の感情がぐずぐずとくすぶっているのとは裏腹に、相手は自分のことなど少しも気にかけてなどいない。
だがそれは、むしろ当然のことだ。
今までコリン・クローバイエの前に立ったこともなく、相手に知られるような行動を見せたこともない。彼女にとってアルファレス・セイフェリングは今日、この時に突然面前に現れた不躾な男意外の誰でもない。
――その時に考えたことと言えば、アリーナ・フェイバルのことでは無かった。
恋人に捨てられた哀れな幼馴染。
自分を捨てた男にではなく、女へと憎しみを向けた愚かな女。
アリーナの涙でも、苦しそうな笑みでもなく、ただ腹立たしさだけだった。
フレリックへと向ける笑みでもなく、婚約者へと向ける作り物めいた表情でもなく――アルファレスへと向けられた表情はただの無。
何でもないものを見る無。
否――何者も認識していない、無関心。
口付けは無様に歯を打った。
頬に手も沿えず、身を伏せ、ただ相手の唇に無遠慮に唇を寄せた行為は、拒もうとする相手の動きで目測を誤った。
がつりと歯に受けた衝撃は小さな痛みと、ほんのささやかなミントの香り。
そのミントを消し去るように口の中にじわりと血の味が広がる。
自分の、血。
それを舌先でなぞり、瞳を細めて。
その時にあったのは――その顔が見たいという、ただそれだけ。
突然の口付けに、面前のイキモノをはじめて認識したであろう、腹立たしい女。
他の誰でなく、アルファレス・セイフェリングへと向けられた表情を。
その仮面を剥ぎ取って、驚きに縁取られたその表情を見たいと願った。
***
結い上げた髪のサイド、ピンで留められた仮面が無理に引かれる感触は気分の良いものではなかった。
目の端を外れたピンが殊更ゆっくりとくるくると回り、スローモーションのように落ちていき、視界に目障りに存在していた仮面が遠のいてゆく。
コリンは咄嗟にどう対処して良いものか判断ができなかった。
仮面を押さえることも、声をあげることも。
ただじっと面前に立つ男が口の端を心持ちあげるようにして笑みを浮かべるのを無感動に見つめ――それは突然闇に閉ざされた。
ふっと影が差し込み、目元に押し付けられたのは――大きな、何か。
それが何かと理解したのは、目元を覆い尽くしたソレがくんっとコリンの体を後ろへと引き、コリンの肩が温かな壁にぶち当たってからのことだった。
それは、手。
むき出しの手ではなく、手触りの良い白手に包まれた手の平がコリンの目元を覆い隠し、そしてそのまま自らの腕の中に閉じ込めたのだ。
「無粋が過ぎるなぁ」
耳元の囁きは憤慨を示し、けれどどこか面白そうに響いた。
「途中までは楽しい見世物だったけれど、やりすぎは笑えない」
言葉を操りながら、その男性はもう片方の手で自らの仮面をもったいぶった動作で外し、そしてコリンの目元を押さえた手に重ね合わせた。
するりと手が引き抜かれ、新たな仮面がコリンの目元を覆い尽くすと、その仮面の持ち主はしなやかな動作で仮面を固定した。
「貴方はっ」
ざわりと辺りの空気が揺れたのは、仮面を外した男への注目だった。
コリン自身激しく気になったものだが、真後ろに立たれている為にそれを知ろうとすればぐるりと無遠慮に振り返るしか無い。
それでも心持ち振り仰ぐように見てみれば、その横顔に覚えはなかった。
癖のある暗褐色の髪に、瞳の色は生憎と淡い光のこの場、下から伺うコリンには確認することも適わないが、おそらくその髪と似通った暗褐色。
「じゃあね。夜はもっと楽しく過ごすものだよ」
肩をすくめて落とされた声音に、コリンはやっと相手が誰だか思い当たった。
コリンの腰に手を添えてくるりと向きを変えさせて促すのは――道化師の衣装の青年だったのだ。
「お礼を、言うべきですわね」
コリンは広いホールから連れ出されたテラスで淡々と口にした。
ちらりと視界の端で自らの婚約者候補を探したものの見つからず、それならとそのまま道化師のエスコートに任せ、テラスへと出たのだ。
ひんやりとした風が、先ほどまでの気持ちを弾き飛ばしてゆく。
不快で、そして冷ややかなものを。
口の中に広がった、僅かな血の味を。
「あなたの素顔を晒してしまいました」
「うん? 別にこんな顔、晒して減るものではないしね。何かあったところで、たいした害は無いよ」
そう言う相手はテラスの柵に背を預け、肩をすくめて見せる。今、この時も晒されたままの顔は笑みを称えたままだ。
「ですが、貴方は高名な方なのではないのですか?」
仮面を引き剥がした時に生じたざわめきと呻き声のようなものとに純粋な驚きとを感じ取り、コリンは好奇心で尋ねてみたのだが、相手は逆に驚いた様子で大仰に片眉を跳ね上げた。
「これは驚いた。高名というのであれば、貴女だとてご存知でしょうに。ですが、貴女はお判りでいらっしゃらない。つまり、私はその程度のものということでしょう」
仰々しく言いながら、青年は胸元に片手を芝居じみた動作で運び、にんまりと微笑した。
「私はただの道化さ」
それよりも、と青年は小首をかしげた。
「あの男とは知り合いで?」
「いいえ、今宵はじめてお会いしたと思います」
「そうですか……それなら良いのだけれど」
片眉を跳ね上げて考えるそぶりで言う青年は、すっと体制を整えて仰々しく一礼した。
「本来なら正式なるパートナーへと送り届けてあげたいけれど、生憎と素顔を晒して歩き回ると主催に叱られる。一人で戻っていただかないといけないが」
「大丈夫です」
コリンが淡々とした口調で返すと、相手は微笑を浮かべてコリンにテラスの外――緋色の重苦しいカーテンの向こう側を指し示した。
「臆することは無いよ。今頃は顔を晒した不調法者の話題のほうが彼等にとって楽しかろうし――おいきなさい。
ああ、その前に」
青年はふと思い出した様子で言葉を止めた。
「本当に私のことが判らない?」
高名な相手であれば、人に知られていないことに矜持が刺激されるのだろうか。
コリンはじっと相手の眼差しを見つめ返しねゆるりと首を振った。
「生憎と、人前に出ることはあまりありませんので。あなた様のお心を傷つける結果になりましたのでしたら、お詫びいたします」
「いや……いいんだ。
使い古された手のようだけれど――以前、どこかで会った気がしたものだから。まぁ、こういう物言いで貴女の仮面を剥ぎ取ろうとする男もいるから、やすやすと乗ってはいけないよ?」
からかうような口調を最後、コリンは目礼してその場を離れ――その後ろ姿を静かに見送りながら、青年は自らの背をテラスの柵に預け、両の手を絡め、闇に包まれた空を見上げた。
「……さて、困ったな」
――喉の奥に引っかかった魚の小骨のように、何かしっくりとこないものがジクジクと突き刺さる。
「サー」
ふいに入り込んだ呼び名に、青年は身を起こして軽く手を振った。
「やぁ、助かった」
呆れた様子で近付く男は、その手に替の仮面と、そしてドミノとを吊り下げて唇を尖らせた。
「あなたがいらしているとすでに広まっておいでですよ」
「たまに遊びに来ると碌なことがないなー、ご主人様の耳に入ったら怒られるかな」
困ったなどといいながら楽しそうに衣装をその場で着替え、仮面から下がるリボンを頭の後ろで結びつける。
口元に貼り付けた笑みは、しかしその次の瞬間に凍りついた。
「セアンだ」
ぱっと脳裏にはじけた一つの事柄。
「はい?」
「隣国キドニカのセアン伯ハディント家の娘、アリシェイラ」
あの透明な瞳、そして背筋をぴんっと伸ばした張り詰めたような雰囲気。
幼い頃に見た麗しい女性とあまりにも酷似しすぎて、そしてそれが導き出す唯一の解答に青年は緩く首を振った。
「その方は亡くなっているでしょうに。突然何事ですか」
青年はその場でしゃがみこみ「マズイ」と意味不明に声をあげるとがしがしと自らの髪をかき回した。
「まずい、まずいよ。ロット――見なかったことにしよう」
「まさか幽霊でも見たとかおっしゃるのでは無いでしょうね、グリフォリーノ様」
「……幽霊のほうが良かった。ご主人様にばれたらシャレにならない」
アリシェイラ・ハディントの娘。
コリン・クローバイエを目撃した挙句、それをみすみす逃したと知れたら――
「一週間くらい背中に役立たずって紙を張りつけられて公務をさせられる」
「何をおっしゃっているんですか?」
「いや、本当だって」
***
あっさりと自らの前からコリン・クローバイエを連れ去ってしまった道化姿の男に、アルファレスは完全に太刀打ちができなかった。
何よりも、仮面を脱いで晒されたその顔に絶句してしまったのだ。
「今のは、どなたなんです?」
会場内の囁きが気にかかり、フレリックはおそるおそるというようにアルファレスに問いかけた。
「グリフォリーノ……グリフォリーノ・バロッサ。ディメア公爵の次男――シルフォニア皇女の側近だ」
無機質に回答を口にのせながら、アルファレスは奥歯をぎりりと強くかみ締めた。
その素顔を身近で暴こうとした途端に、奪われた。
勿論知らない訳では無い。
幾度も隠れてコリンの顔は見てきた。
だが、彼女は面前にいたのだ。遠く離れた場ではなく、ただ一歩はなれただけのその場に。
透明な眼差しで、はっきりとアルファレスを意識し――その感情をアルファレスへと向ける筈だったその瞬間に、コリン・クローバイエは道化師姿の男の腕の中に囚われた。その瞳を白手に包まれた大きな指先に隠されて。
――手の中に残されたコリン・クローバイエの猫面を握れば、施された細工の飾りがしゃらりと音をさせる。
アルファレスは苦い敗北を意識し、その面を自らの胸ポケットの中に入れ込み、ぽっかりと何も掴むことの無かった手でもって自然と自分の唇をなぞった。
腹の中に煮えるのは……理解不能な消化不良。