その9
コリン・クローバイエの辞書に敗北の文字は無い。
だが、生憎と――「一晩幾らだ」という耳慣れない単語も存在していなかった。
コリンはじっと面前の相手をただ静かに見つめた。
純粋に観察という言葉を当てはめてもいい。
面倒な仮面の奥の眼差しで、ただ静かに。
フレリックの友人、もしくは知人と思わしき相手だが外見的特長を見る限りフレリックとは身分がまったく違う。
中流階級を地でいくフレリックの服装、態度、言葉遣い。
しかし面前の青年は身長こそフレリックよりもやや低いものの、栄養をたっぷりと取った挙句適度な運動をしたと思わせる健康的な体躯。肌の様子をみても肉体労働など微塵も知らぬであろう細やかさ。
できれば指先を見たいが、生憎とそれは白手の中。だが、見なくとも判る。
労働を知らず、カードに興じるだけの細く繊細な指。
ヘタをすれば女性なみに手入れでもしているのではないかという有様だろう。ふと、叔父であるウイセラが浮かんだが、身分で言えばそれを上回るだろう威猛々しさ。
緩く結ばれたクラヴァット。
中央をピンで留めるのは最近の流行だが、留めているピンは大きな一粒のダイヤ。光の反射で色が時折ブルーに変化する。コリンの頭の中は瞬時にその値段をはじき出し、心のうちで冷笑した。
――裸石の原価は三分の一。
加工は残念ながらお粗末なものだ。良く見なければ判らないが、台座の形がよろしくない。
果たしてこの相手はいったいそれを幾らで購入したものか。たかが身を飾るだけの代物に。
しかし、商人としてはできればお近づきになりたい相手だ。
幾らでも素晴らしい商品を斡旋しよう――十倍値辺りで。
素敵な鴨がここにも一羽。
だが、挨拶代わりに蔑む口調で落とされた単語は別の問題だった。
「一晩幾ら」
幾ら、という単語は金銭を示す言葉だ。
商人の娘であるコリンにとってはたいへん馴染み深い。
では一晩。こちらは一夜を示す単語。
ではこれが合わさるとどういうことになるのか、コリンはじっくりとその意味をかみ締めて、ゆっくりとその唇を開こうとしたのだが、ソレより先にフレリックが憤慨の声をあげていた。
「アルファレス様っ。どうしてそう失礼なことをおっしゃるんですかっ」
気弱なフレリックといえど、女性相手に言っていい言葉といけない言葉の判断はつく。そして、アルファレスが口にした言葉は到底許容できる範囲のものでは無かった。
「失礼? 馬鹿だね、フレリック。
彼女はどう見ても貴族の令嬢とはほど遠い――外見は実にそれらしく化けているが、そういう匂いはそこはかとなく漂うものさ。ならば、こんな場にいる女性はナニかなんて愚か者にもわかる」
完全に蔑むようにふっと息をつき、アルファレスはコリンへと意味ありげに目配せを送って見せた。
「そうだろう?」
コリンが冷ややかな空気を身にまとうのを楽しげに眺め、アルファレスは強引にコリンの腕を引いた。
「とりあえず一曲踊ろうか。
まさか、ダンスカードに記載しろなんていわないだろう?」
コリンは一度抵抗するように足にぐっと力を込めたが、すぐに口元に冷淡な微笑を浮かべてみせた。
「後悔なさらなければよろしいですが」
無機質な硝子玉のようであった透明な瞳がきらめき、コリン・クローバイエは同じく冷ややかな色合いを称えている相手の瞳を見返した。
「カドリールか……残念、独り占めはできそうにない」
流れるゆったりとしたテンポの曲調を耳にしながらホールの中央、すでに何名かが輪になって向かい合う場に進みながらぼやくアルファレスに、コリンは逆にほっと息をついた。
ワルツは苦手だが、カドリールであれば未だ踊ることができる。
何より周りには見本となるべき女達がいる。息さえ合わせればなんということはないだろう――四名づつのカップルに混じり、円を描き、次々とパートナーを変えていくダンスは、ミスをしにくい踊りやすいものだ。
基本中の基本。
コリン自身もう幾度も練習させられた覚えがあり、ダンスが嫌いだと言っていても、得意な演目であるといえるだろう。
コリンは半眼を伏せ、自分の足元を見つめて決してミスはするまいと心に決めた。
踏むのはこの男のみ。
この横柄で無礼な高慢ちきな男のみ。
確実に、的確に、何がなんでも――踏む。
リアンを相手にするよりも容赦なく。
右手に立つ男の横顔をちらりと見上げ、コリンは第一音のステップを踏んだ。
***
神経質そうにとんとんっとテーブルに置かれた書類の上を跳ねる指先。
苛立ちを覚えている時のその癖に、ウイセラは片眉を跳ね上げて嫌そうな顔をして見せた。
「他人の執務室を偉そうにぶんどったあげく、いつまで居座る気だ」
「ああ、まだいたんですか」
たんっと一度テーブルを中指が弾き、次の書類へと視線を向けながらリアンは静かに応えた。
「自分の縄張りに嫌いなヤツが堂々と居座っている中、悠長に帰宅できると思うのか」
「ご自由にどうぞ」
「おまえこそ帰れと言っている」
「コリン様の邸宅に戻る訳にはいきません。コリン様にまた買い付けに出されてしまうかもしれませんし、身動きが取れなくなりますから」
リアンは淡々と事実だけを述べた。
――この婚姻は反対です。
確かにはじまりはそんな台詞一つだった。
主の元に舞い込んだ縁談に、リアンはうろたえたりはしなかった。
リアンの主は年頃の女性で、縁談などいつ話しが持ち上がってもおかしくはなかったのだから。
来るべきものが来ただけの話で、リアンにとって何かが変わる訳ではない。
コリンが誰かの許に嫁ぐのであれば、自分もその家に赴き今までと変わらずコリンに仕えることになる。
――おまえは置いていく。
そう、主がその口から告げない限り。
たとえコリンの婚姻相手が使用人を連れて行くことをよしとしなかったとしても、主が許す限り気にかけることではない。
だが今回の婚姻について、リアンは反対だと進言していた。
そんな愚かしい進言など、する筈ではなかったというのに。
あの日、コリンは一旦伏せた瞼をゆっくりと持ち上げ、そして静かにリアンへと命じたのだ。
「壷の買い付けに行きなさい」
壷の買い付けには幾度か行ったことがある。
ただし、それは主の供として。
だから今回もそうなのだろうと一瞬思いはしたが、コリンの眼差しはそれを否定した。
――これは罰だ。
主が下す裁可。
リアンは自らの心が恐怖に引きつるのを感じた。
十四歳の頃から主人と定めた相手と、こんな形で引き離されることなど想定していなかった。
今も、できればすぐさま主の許にたちもどり、その背後に控えて以前のように軽口をたたきあいたい。
その身を守り、共に食事をし――まるで共に産まれた双子のように時を共有したいと願っている。
だが帰れない。
今は、まだ。
「何を熱心に調べているんだ?」
「ネズミの動向を」
リアンはさらりと返し、ふと思い出すように視線を上げた。
「一つお尋ねしてよろしいでしょうか」
「おまえがそう口にする時はこちらの了承など求めていないだろ」
ふんっとふて腐れるようにいいながら、ウイセラはキャビネットからボトルを一つ取り出し、片眉を跳ね上げた。
「減ってる……おまえ、オレの事務所を勝手に使ったあげく酒まで飲んでるな?」
「気にしないでください」
悪びれる様子もなくさくりと言い切り、リアンは続けた。
「こちらのサロンの会員にギフォート子爵の名がございますか?」
ウイセラは目減りした酒を忌々しそうに見つめながらグラスに落としつつ、口の中で「ギフォート……ギフォート、さぁ、いくらオレでも全ての会員の名を把握はしていない。聞いたことがあるような気もするが、知りたいのであれば他の人間に聞け」とやけくそ気味に口にした。
「ではそうさせていただきます」
「そのギフォートとやらが何だって?」
「いえ――関係があるかどうかは判りませんが、クライス・リフ・フレイマが他の賭けサロンでギフォート子爵に借金があるようなので」
その言葉に、ウイセラは鼻で息をついた。
馬鹿にするように。
「どこの三流サロンだ。賭博で借金? いまどき未払いで店から出られる場所があろうとはね! たとえ友人同士であろうとうちなら認めない。小切手を切るか、書類や物で決済させるべきだろうに」
そうは言ったところで、いまどきの貴族など誰も彼も借金の一つや二つは持っているものだ。
ヘタをすれば公爵家すらフタをあければ火の車などざらなこと。
――だからこそ、ヴィスヴァイヤが儲かるのだが。
「金貸し業に手を出せないのが残念だ」
その為の資格は保有していない。
その代わり、物品の代金の支払いを停滞させた場合などはそれなりに上乗せしたりし商品を抑えたり――はたまた、こっそりと領地の一部を切り売りしてこちらが儲けさせてもらっているのだ。
「貴族の借金などさほど問題にはならん」
「弱みをさぐるのは損にはなりませんよ」
リアンはウイセラの言葉を受け流し、ゆっくりとウイセラに近付くと、自分も盆に伏せられているグラスをひっくり返した。
ウイセラの了承も得ずに、さも当然のように置かれている酒瓶から琥珀の液体をなみなみと注ぎいれると、肩をすくめて見せた。
「ギフォートに借金があるとして、ギフォートがうちの会員だとして、で、何をする気だ?」
「少なくともギフォート子爵はクライスがどんな人間だかご存知でしょう。来店された時に聞き出すだけですよ」
「セコイ仕事だな悪魔」
いつもの嫌がらせの名称に眉間に皺を刻み、リアン自身相手が一番嫌がる名称で応えた。
軽く持ち上げたグラスをウイセラのグラスに合わせるように振って見せながら。
「情報こそが金――確か、あなたの言葉ですよ、義兄さん」
***
アルファレスは引きつっていた。
表面上決して出してはいないが、思い切り引きつっていた。
コリン・クローバイエは確実にアルファレスを狙って足を踏んでいる。
四人の女達が色とりどりの華やかなドレスを身にまとい、ゆるやかなカドリール・ワルツに合わせて男達の間をくるくると乱舞する。
手を重ね、引き寄せ――くるりと回し、そして離れていく女達。
受ける男達もそれに合わせてステップを踏み、流れに沿って歩み、女の手を取っては離していく。
他の誰も何の疑問も持たずに楽しげなのに対し、アルファレスは警戒心を露にして最後の最後――元のパートナーへと戻るコリン・クローバイエの姿に不自然に足を引き戻すようにしてたたらを踏んだ。
――まるで、最後の最後でアルファレス自身が無様にしくじったかのように。
「あら……」
本来であればアルファレスの右手に収まる筈の片手を緩く宙に浮かし、コリン・クローバイエは小さく呟いた。
「どうかなさいまして?」
淡々とした口調で小首をかしげた女の仮面の奥の眼差しは、どこまでも透明で冷ややかにアルファレスをまっすぐに見返し――アルファレスは陥れられたかのような羞恥と苛立ちに、その浮いたままの手を掴み上げ、腰を引き寄せ。
人々のざわめきの中で無理矢理その唇を奪った。
ぶつかるように無様に触れ合うだけの口付け。
歯すらあたり、ガチリと音をさせた衝撃にコリンの瞳孔がすぅっと広がり、無機質な瞳に強い意志が蘇る。
「べつに、何でもないさ」
それを上から見下ろし、侮蔑を込めた言葉を落としながら湧き上がる勝利感のままにコリンの仮面を引き剥がす為に手を伸ばした。