その5
エイシェル・セイフェリングは不愉快そうに口元を歪め、苛々とした足取りで貴族達がこぞって暮らしている高級住宅街に建てられた四階建てのタウンハウスへと帰宅した。
馬車の中では好奇心を隠そうとしない付き添い人であるチェルシーが、まるでエイシェルの気持ちを引き立てるかのように「まったくなんて失礼な女でしょうか。エイシェル様をお人形だなんて」とぶつぶつといいながら、ちらちらとエイシェルの様子を伺っていた。
――試着してみます?
穏やかな口調で言われた言葉の意味が、エイシェルには理解できなかった。
まるでそのへんの花売りのように、コリン・クローバイエは質素な外着でそこにいた。淑女ならまったくありえない一人きりでの外出。挙句、彼女はその服装を裏切る美貌で――
馬鹿にしているとしか思えなかった。
何故なら、エイシェルは『人形』なのだ。
事実そんなことはありはしなくとも、エイシェルはあの女にはそう名乗っている。
どっかの馬鹿な男爵次男の『人形』だと。
あのおかしな女の婚約者の愛人だと名乗ったというのに、何故あんな態度で平気で話しかけてくるのかまったく理解できない。
「よろしければ、一着贈らせていただきますわ」
気安い口調で言われた言葉に、更にカチンとエイシェルの中で何かが弾けた。
自分が欲しいと思うものを躊躇うのは嫌いだ。
それでも、ショーウインドウに飾られているドレスが簡単に贈ったり贈られたりできるような品物ではないことくらい理解できる。
――少なくとも、エイシェルが立ち止まって十分以上悩んだ程度には。
腹の底に鉛のようなものが落ちて、エイシェルはぎろりと面前の女を睨みつけた。
「あたしとあの人を別れさせたいの? モノで釣ればどうとでもなると思われたのかしら」
低く言ったのは、チェルシーの耳にあまり届いて欲しくなかった為だ。
チェルシーは行き送れの下級貴族の女で、退屈をもてあましたハイミスだ。下らない噂話に興じられてはたまらない。それでなくとも口うるさくてうんざりとしているのに。
「まぁ、とんでもありませんわ。別れてなどしてもらわなくて結構です。そんなもったいない」
さらりと語尾に付けられた言葉の意味がまた理解できない。
――もったいない?
エイシェルは確かに未だ子供だが、愛人と本妻の間には深い溝があることは理解している。一人の男を奪い合う、まさにドロドロと陰湿な関係の筈だ。
少なくとも、道端でばったりと遭遇した時に作り物めいた美貌に笑みを浮かべて「ごきげんよう」と挨拶した挙句、さっさとすれ違うでもなくテーラーに誘い込むなど暴挙、もしくは頭がいかれているとしか思えない。
「頭がおかしいのではないの?」
エイシェルは奥歯をかみ締め、引きつった口調で相手をののしった。
「失礼するわっ」
「お人形さんは、お名前を教えては下さいませんの?」
更に追いすがる声に「あんたに名乗る名前なんてないわよっ!」とエイシェルは声を荒げ、ふいっと身を翻した。
「あら、怒らせてしまいましたか? そんなつもりはありませんでしたが……そう。わたくし、デバル・サロンの仮面舞踏会に出席の予定なのです。お人形さんもいらっしゃいます? クライス様もお喜びになられるのではないかしら」
――婚約者を招いた舞踏会に愛人と鉢合わせ。
クライス・リフ・フレイマは喜ぶだろうか?
この現状を喜べるのは、おそらくコリンくらいのものだろう。
「あんた……」
エイシェルは絶句し、言葉を失い、口を幾度もあけて閉じてを繰り返してなんとか無難な台詞を引っ張り出して怒鳴りつけた。
「あんたあたしの年齢なんだと思ってるのっ!」
まだデビュー前の淑女が仮面舞踏会?
冗談もたいがいにしろ。
きぃぃぃぃぃぃぃっっっっ。
エイシェルは金切り声をあげるようにして、手に持っていた手提げ袋を大好きな猫足の椅子に叩きつけた。
――何より許せないのは、馬鹿にされたという感情と同時に、相手の誘いにのりたいとちらちらと思っていた自分自身だった。
エイシェルは誰はばかることなく物欲が強い。
ふわふわのレースやシフォンに目がなく、可愛いものは自分の為にあるのだと信じている。与えられるのが当然だと思っているのだ。
もし、あの誘いにのっていれば――もしかしたら、あの薄い桃色のふんわりとした愛らしいドレスが自分のものになったのかもしれない。それをちらりと思うのが口惜しいのだ。
悔しい。
悔しくて叫ばずにはいられない。
エイシェルは小さな拳を握りしめ、くるりと身を翻して一目散に駆け出した。
「エイシェル様っ?」
「リーファ姉さまのトコよっ」
次女の元に行くのだから付いて来るなと怒鳴りつけ、エイシェルは信じられない速度で屋敷の廊下を駆け巡り、途中で執事に「エイシェル様っ。廊下を走ってはいけません」というありがたくもない忠告を受け、ノックの一つもせずに次女リファリアの作業場の扉を開いた。
「フレリック! ちょっとどこにいるのっ」
***
「ご機嫌がすぐれないようですが」
コリン・クローバイエは義姉であるアイリッサが経営するテーラーの店長の言葉に、吐息を落とした。
コリンの肩には柔らかな生地が当てられ、数名の針子達がどの生地が肌を引き立てるかと囁きあっている。
それを椅子に座った格好のままで甘受しながら、コリンは半眼を伏せて吐息を落とした。
「人の心はままなりません」
「まぁ、コリン様。まるで恋する乙女のようなお言葉ですね。まあ、コリン様自らこちらにいらっしゃるだけでも素晴らしく珍しいことですのに。これはアイリッサ様にご報告しないといけませんね」
穏やかな口調で笑い、店長は抜け目なく針子達に「淡い色ではコリン様の雰囲気には合わないわ。花の顔をひきたてるように、はっきりとした色彩で――そうね、淡いものを使うのであれば、もっと薄い生地を幾重にも重ねて」とてきぱきと指示を下す。
「ただわたくしは仲良くしたいだけなのですが」
下心はたっぷりあるので、ただなどという言葉はもしかしてそぐわないかもしれないが。
それとも、相手に下心が丸見えだっただろうか。
――愛らしいドレスを着せて、広告塔にしたい。
写真をとり、店舗に飾り、ドレスを存分に引き立ててもらいたい。あのお人形にあわせてドレスと宝石をデザインさせて、大々的に売り出し、果てには彼女自身に舞踏会などでしっかりと宣伝をしてもらいたい。
できるだけ経費は安く。
愛人なのだから、経費自体は削れるのではないだろうか。やはり婚約者殿を通さないと色々とまずいだろうか?
――婚約者殿に仲介料を払うのは避けたかったが、そこは削れない経費だろうか。
コリンはまつげを僅かに振るわせた。
そもそも婚約者殿は愛人手当てをどれ程払っているのだろう。その辺りも気にかかる。
勿論――あの愛らしいお人形にはそれだけの価値があるが。
愛人があの御人形でなければ、是非ともそういった相手は愛人として囲うのではなく、娼館で済ませていただきたい。
月々の手当を与えなくとも良いし、屋敷を提供することもない。
日替わりで相手をかえることもできるというし、給金だとて月額ではなく回数で済む。どう考えてもそのほうがずっと得だと思うのだが――結婚したらそこは是非考えて頂きたい。
ああ、だがお人形さんを手放してもらっては困る。
なんとも歯がゆいことだろう。
コリンは伏せた瞼を震わせ、吐息を落とした。
「相手の方には嫌われてしまっているようです」
「殿方との駆け引きは難しいものですよ」
くすくすと微笑をこぼす相手に、コリンは軽く首を振った。
「女性です」
「ああ――友人ということでしたか」
微笑ましさを深める店長だったが、コリンと完全に意思の疎通を図るのは難しいようであった。
「仮面舞踏会では女性は大胆な衣装が多いものですが、逆にきっちりとしたドレスに致しましょう。スカート部分にスリットを入れて、けれど生地を重ねることで決して見えないように。胸元のカットも大きく――その上で下品にならないように可憐な花のコサージュとシフォン生地をふんわりと」
「任せます」
家の女中には決して任せられないが、アイリッサの部下であれば信用できる。
「それより、今日はリアンさんはいらっしゃらないのですね?」
「リアンは仕入れの仕事に出しています」
「残念です。うちの子達はリアンさんのファンが多いですから」
その言葉でちらりと針子達に視線をめぐらせると、数名の少女達がリアンの名に手を止め、くすくすと笑いあった。
――リアンを手放して一月以上が経過している。
名がでると寂しさがふっとよぎるのは、ウイセラが「護衛」としてリアンをコリンに差し出して以来そんなに長く離れていることが無かったからだろう。
あの時、ウイセラに肩を押された年若いリアンは苦痛を覚えるような顔をしてコリンを見返し、ふいっと視線を逸らして自分の二の腕を強く掴んでいた。
「二度とお会いするつもりはありませんでした。
叱責なら、お受けいたします」
やっと搾り出された言葉に、コリンはただ静かに問うたのだ。
「何故? 会いたかったわ――会ってお礼を言うつもりだったのだけれど」
「――礼? あなたを誘拐したのは私の姉なのに? 私だって、あなたに嘘をついて近付いたのに?」
噛み付くような口調に、コリンは淡々と――相手の心を抉る口調で言った。
「でも。わたくしを救い出したのはあなた。
自らの姉からわたくしを救い出したのは、あなた。嘘は一杯言われたけれど――目の前に立つ今のあなたには、何一つ嘘はないわ。
ありがとう――そして、ごめんなさい。
あなたの手であなたの姉を殺させてしまって――本当にごめんなさい」
その時に、求められるままに新しく名を与えた。
それまでの人生を捨てるというから、気休めのような名を。
もう二度と離れずに守ると誓ったリアンを――ほんの意趣返しで手元から弾いたのはコリンだ。
「ああ、困りました」
「どうか?」
コリンは店長の手から紅茶のカップとソーサーを受取りながら、ふいに思い出してぽつりと口にした。
「仮面舞踏会は――ダンスをするのかしら」
「……コリン様。何をしに行くおつもりなのですか?」
――踏むのは私の足だけにしておいたほうがいいですよ?
リアンの嘆息が耳に蘇ってしまった。
***
かちゃりと僅かな音をさせ、ソーサーに白磁のティ・カップを戻したアルファレスは、突然何の応えも待たずに入室した末の妹の姿に肩をすくめた。
「エーシィ、いくらなんでも行儀が悪いよ」
そう窘めようとしたものの、全身から怒りをたぎらせたエイシェルはアルファレスの存在を無視し、リファリアの雑多な研究室の中を見回した。
「フレリック! ちょっと、どこにいるのよっ」
「フレリックならお使いよ。ねぇ、エーシィ? あんたあたしの弟子を自分の手足と勘違いしていない?」
机に向かい、執筆に励んでいたリファリアは相手を見ることも無く言葉を投げかける。
「もぉっ、フレリックの馬鹿。使えないっ。
せっかくいい情報があるのにっ」
地団駄を踏むエイシェルに、アルファレスは片眉を跳ね上げた。
「いい情報?」
「そうよっ。あの女狐ってばデバル・サロンの仮面舞踏会に出るんですって! 近付くチャンスよ」
そしてあの女をぎったんぎったんにしてっ。
憤りのままに言うエイシェルは、やっとその場にアルファレスがいることに気づいた。
出窓に腰を預け、左手でソーサーを持ち、右手でティカップを軽く抑える青年は苛立ちを撒き散らす末の妹を眺めやっていたが、やがてゆっくりと口の端に笑みを浮かべ、紅茶で湿った唇をぺろりと舐めた。
「それは――確かに。
お近付きになるいい機会かもしれないね?」