その4
カチャリと音をさせて衣装用の部屋を開いた女中は、頬に手を当てて面白がるように苦笑した。
コリンが仮面舞踏会の為の衣装を用意しておいて欲しいと頼んだことがきっかけであったが、その言葉に女中二人は心底楽しそうに目配せしあい、コリンに「では衣裳部屋に参りましょう」と彼女を居間から連れ出したのだ。
「どう致しましょうか」
「仮面舞踏会でしたら多少の奇抜さは必要かと思いますが――」
交互に言われはしたものの、コリンにしてみれば自分の衣装など勿論関心のある事柄ではない。仕立て、布質、値であれば勿論コリンにとっては興味深い部類ではあるものの、実際に自らが身につけるのであれば話が違う。
売れる商品ならともかく、自らに身につけたところで損することはあっても得などしない。
こうして衣裳部屋につれて来られたことも意味不明に近かった。
適当に衣装を出しておいてくれればそれで構わなかったからだ。
舞踏会に行く為の衣装が無いというのであれば仕方の無いことかもしれないが、こうして簡単に眺めてもコリンの衣裳部屋には呆れる程の衣装が納められている――勿論、絶対に着用することは無いだろうという奇抜な衣装はウイセラからの土産であるし、また逆に実用一辺倒な普段着に至っては彼女の叔母であり、ウイセラの妻であるアイリッサからの定期便だ。
アイリッサは商売の一つとして自らテーラーを経営している。よそで買うより安いからという理由だが、その言葉には賛同できる。アイリッサはコリンにとっても話の通じる好ましい相手だが、未だに何故ウイセラと結婚しているのかは理解不能だった。
「仮面をつけるのですから、いっそ思い切って先日ウイセラ様がお土産で下さったものはいかがですか?」
「ああ! 新しいのがありましたわね!」
あきらかに楽しんでいる風の物言いに、コリンは冷たい眼差しを向けた。
女中はまったく気にかける様子もなく、言葉の通りに先日ウイセラが持参した衣装――ウイセラ言うところの砂漠の舞姫が身につけるというドレス……とは名ばかりの布切れをばさりと引き出した。
ハンガーに掛けられたその衣装を目にしたのは初めてであったが、明らかに布が少ない。
少ないというか、無い。
腹部の辺りの布はいったいどこにいったのか。
世の中にはコルセットという存在がある筈だが、そのコルセットは完全に無視している。
衣装とはまったくの名ばかり。布としかいいようのない物体だった。
首を支点に交差させて胸元を隠すだけの細長い布。
腰に巻きつけるものも一枚布を織り込むだけだ。女中は好き放題のことを言いながら布の形を整え、更に薄い紗の生地を重ねて喜んでいる。
「とりあえず着てみます?」
「何事も挑戦です」
心から楽しそうな二人をじっくりと眺め、
「それは衣装ではありません。もう結構です」
コリンは言い切ると、くるりと身を翻した。
駄目だ。
この二人はまったくアテにならないどころか、このまま放置しては奇抜なばかりの衣装を押し付けられてしまう。放置しておけば、当日にあの衣装を出されたかと思えば心が冷える程だ。
しかし、だからといってウイセラに相談もできない。
なんといってもあの布切れをよこしたのがウイセラ当人であるのだから――
仮面舞踏会への招待にコリンが応じる気になったのは、勿論、招待主である婚約者候補のことをもっと知りたいという事柄が一番ではあるが。好奇心もあった。
コリンは上質な生地も仕立ても知っている。
それにあわせた装飾品にも詳しい。だが、それを身につけた人間を見ることは滅多にないのだ。
それは自分にとって激しい欠点であった。
どんなに素晴らしい品物があったところで、それを身につける人間を知らずにいては商売が成り立たない。
需要と供給、バランス――所詮、コリンの知る世界は全て紙の上のこと。
前面に出て商売をしないコリンには必要の無いものであるかもしれないが、コリンは情報を手駒に使う。
だが、そんなものは時に何の意味もないのではないだろうかと耳を掠める。
コリンはじっと自分の手の平を見つめた。
――掴んでもつかんでも、何も掴んでいないような実感しか与えてくれない無力で無意味な手を。
もっともっとヴィスヴァイヤの為に役に立ちたい。
自分にできることならどんなことでもする。
母はヴィスヴァイヤの為に命を尽くした。ならば、その母が残した自分は――もっと、もっとヴィスヴァイヤに繁栄をもたらすべきなのだ。
コリンは自らの足を自室ではなく階下へと向けながら、ふと婚約者候補である相手と結婚することによって発生する利点を一つ思い出していた。
あの人はとても素敵な人形を所有している。
貸して欲しいといえば、貸してもらえるだろうか?
本妻が愛人と親しく付き合いたいなどと、誰にきいてもおかしいと思われる事柄を、コリンは至極真面目に思案していた。
***
エイシェルは自分の耳から下がるくるりと巻かれた髪を指にからめた。
ショーウインドウに飾られたドレープとレースがたっぷりと使われたドレスは呆れる程に愛らしく、どこからどう見ても自分の為に存在しているように見える。
腰の辺りできゅっと引き絞った大きなサテン・リボン。
シフォン・リンネルに触れたら、きっとうっとりと心が蕩けさせられてしまうだろう。何より裾を伝う銀糸の細やかな刺繍は職人の手でどれだけの日数を必要としたことだろう。
警告を発するように、付添い人であるチェルシーは「ドレスは出入りの業者だけと決められておりますよ」と口を挟んでくるが、そんなことは承知していた。
お金のことをせせこましく考えることは無いが、それでも幾つかの決め事があるのはセイフェリングには女ばかりが暮らしている為だ。
――彼女達の望むままにドレスや装飾品を購入していては、たとえ裕福と言われているセイフェリングの家も食いつぶされてしまう。
放蕩者のアルファレスは、彼自身湯水のように金を使っているが決め事だけは守っていた。
アルファレスの言いつけを無視してこの店でドレスを購入したら、アルファレスは怒るだろうか? 機嫌がよければ「よく似合うじゃないか」と褒めてくれるかもしれないが、機嫌を損ねてしまっては大変だ。
先日など、長女のクロレアはアルファレスの言葉の通りに屋敷を追いたてられてしまった。
今頃はいったいどうしているか知れないが――あまり楽しい状態では無いだろう。
「エイシェル様」
いつまでもショーウインドウを見つめるエイシェルに痺れを切らしたチェルシーが名を呼んでくる。
エイシェルは苛々と眉を潜めた。
我慢なんて自分には向いていない。
買ってしまえば――手提げ袋の紐をぎゅっと握りしめたところで、突然淡々とした声が割り込んだ。
「まぁ、お人形さんではありませんか」
その耳慣れぬ名称にぎょっとして振り返ると、到底貴族とは思えない安っぽい外出用ドレスにまったく似合っていない秀麗な顔立ちという冒涜丸出しのコリン・クローバイエは小首をかしげてエイシェルを見下ろした。
「今日もとても愛らしいですわね。ごきげんよう」
「なっ……」
馬鹿にされているかのような気持ちに怒鳴りそうになったが、相手はあいも変わらぬ平坦な口調で続けた。
「飾られているドレスなど本当にお人形さんには似合いそうですね。
いかがでしょう? この店はわたくしの義姉が主なのですが――一度試着なさってみませんか?」
できるだけ優しくを心がけたコリンは、完全に商談相手を捕らえていた。
自らのドレスを仕立てる為に訪れたアイリッサのテーラーの前にて偶然見つけたのは、婚約者候補の愛人。
本来であれば怒りや悔しさを覚えるべきところであろうが、コリンが覚えた感情はまったく恋敵を前にした女性とは思われない喜びであった。
また会うことは適うだろうと思っていたが、まさかこんなに早く――しかもこんな場で会えるとは、運命としかいいようがない。
なんて自分は運のいい。
コリンはうっとりと愛らしいエイシェルを見つめた。
――素敵、鴨が葱を背負ってる。
なんて美味しそうなのかしら。