その3
賭博サロン【ラ・ファレル】の手伝いをしているというアンリと名乗った相手は、中性的なほっそりとした肢体を従僕の衣装に包み込み、けれどうっすらとした化粧で目元と口元に女らしさを漂わせる。
腰までの黒髪を緩く結い上げ、先ほどまで酒のボトルを傾けていた白手に包まれた手で、今は滑らかにカードを操って見せていた。
「では、そのお嬢さんはあのヴィスヴァイヤのご令嬢なのですか?」
「そうだよ」
「ならばこの賭けは難しいですね――ヴィスヴァイヤの令嬢であれば持参金は計り知れません。その縁談をみすみす壊すような人間はまずいないでしょうね」
抑揚も無く淡々と返される言葉と、更に淡々と配られるカード。
ディーラーと一対一で行われる単純なカードゲームはすでに五回程続き、はじめの二回は勝ち、そして一回は負け、三度目で勝ちと順調に惰性のように続いていく。
指先でカードを求め、弾き、とんっとレートを引き上げ――アルファレスは相手の言葉に異を唱えようとしたが、ふいにディーラーは、ふと気づいたとでもいうように口を開いた。
「ですが、ヴィスヴァイヤに令嬢がいるとは知りませんでした」
問いかける眼差しには不信感のようなものすら滲む。
その言葉に、アルファレスはとんっとカードの上に指先を落とした。
「無理もない。僕自身、知らなかった」
――いや、古い記憶を呼び起こせば、一時期確かに彼女は新聞の紙面をにぎわしたことがある。
余りにも古すぎる記憶ゆえに、アルファレスといえども抱えの事務代理人に言われてさえも理解できなかった。
アリーナに商家の娘と言われた時に浮かんだのは、ヴィスヴァイヤでは無かった。
認識としてヴィスヴァイヤには跡取りしかいないものと思っていたのだ。
「ヴィスヴァイヤに娘……」
「一般的にはもう死んでいるとか、臥せったままだといわれているようですが――どうやらご健勝のようですね。令嬢自身を発見するのに十日以上も掛かりましたが、どうぞご容赦頂きたい。令嬢が暮らしているのは小さなコテージのような家屋です。信じられませんが……ヴィスヴァイヤの家長であるクローバイエの屋敷の裏の更に裏手の小さな家屋で令嬢はお暮らしのようです」
優秀な事務代理人は数名の人を雇い上げ、それでも十日かかったと自らに呆れていた。
「寝込んでいるというのもどうやら嘘ですね。令嬢は更に驚いたことに、頻繁にお一人で外出されている。まるでそのへんの街娘のように」
決まった日があるわけではないが、時折街を一人で散策しては道具屋などで楽器用のグリスなどを購入しているという。
――誘拐を恐れているのか、それとも誘拐など気にかけていないのか、不思議な人ですね。
事務代理人は肩をすくめてそう締めくくった。
「どのようにその話を見つけていらしたのか、興味深いことですね」
ふっと柔らかな声音に現実へと引き戻され、アルファレスは面前のディーラーへと視線を戻した。
生き物のようにカードを操るディーラーは意味深に身を伏せ、唇を引き結ぶようにして問いかけてくる。
「未だそのお二人についての婚約発表は紙面をにぎわしてもいない。だからこそ、他のかたはこの話に興味をお持ちではない――だというのに、貴方様はこの御話をどちらで見つけなさったのです?」
まさか、貴方様が件の男爵家の次男でいらっしゃいますか?
面白がるような問いかけに、アルファレスは口元を緩めた。
「このぼくが、たかが金目当てに商人の娘如きを妻に迎えるとでも? 馬鹿も休み休み言うことだね」
伸びた指先がアンリの顎先に触れ、ついで艶やかな唇をなぞりあげようとした途端、アンリはすっと身を引き戻して微笑んだ。
「では、あなたのご友人のお話というところでしょうか。たかが金目当てにとおっしゃるのであればご友人に嫉妬してということでもなさそうですね」
ぱたりとカードをひっくり返し、面前の相手はにっこりと微笑んだ。
「残念、二十一、私の勝ちですね」
「――嫉妬? それこそありえない。ぼくは男爵家の次男を哀れんでいるだけさ。おかしな女に目をつけられた哀れな男。自由になって欲しいと願っているだけさ」
手元のコインが回収され、新たな賭け金を要求するように指先がむけられる。
アルファレスはあざけるように更にコインを追加した。
「金で買われる哀れな男を」
――家、金、そんなものでアリーナを傷つける男を殴りつけてやりたいのは山々だ。だが、それはできない。
アリーナは喜びはしない。
ならば自分にしてやれることと言えば、アリーナが望む通り――この縁談を破綻させてやることくらいでしかない。
果たして、この縁談の破綻を男が望んでいるかどうかなど知る由も無い。
果たして――その先にアリーナとその男が幸せになれる未来があろうとなかろうと、所詮これはただの遊戯に過ぎない。
誰も幸せになどなれないだろう不毛な遊戯。
その考えを、アルファレスはぐしゃりと握りつぶした。
「哀れでしょうか? むしろ男爵家にこそ利がありそうに見えるのは短絡的思考でしょうか? 男爵家の次男と結婚することで、ヴィスヴァイヤに利益がありましょうか?」
「貴族とのコネクションはそれには値しないとでも?」
賭けていたコインがディーラーにわたり、新しいゲームがはじまる。指示は全て視線と指先だけ、考えるともなしに惰性の遊戯は淡々と勧められていく。
「貴族様らしい考えですが、失礼ながら私などから見れば、爵位を持たない次男と結婚しても意味はないように感じますが?」
「縁戚から利益を絞ろうと考えてもおかしくはないだろう」
――自分で言いながら、アルファレスは眉間に少しばかり皺を刻んだ。
商家の娘が男爵家の次男に横恋慕したのだとアリーナは言うが、二人が共にいる姿を見た時にそのような雰囲気を掴むことは適わなかった。恋しい男と共にいる女というより、むしろ――無機質。
むしろ、あの娘が心を動かした瞬間を示したのはフレリックと共にいたあの噴水。
ふわりと口元に浮かんだ可憐な微笑が頭にちらつき、アルファレスは思わず奥歯を噛み締めそうになり、そんな自分に動揺した。
――いいや、あれはただの男好きだ。
男を手玉にとることを好む、悪辣な女。
「商人の娘だからね。頭の中は人を騙して利益をあげることばかりさ」
アンリはくすりと微笑を落とした。
「実に貴族的な考えですね。商人は下賎ですか? 貴族の婚姻など、あなたのような身分高き方には納得できないというところでしょうか」
ディーラーの手の中で新たにカードが生き物のように規則的な動きでシャッフルされ、一枚づつ弾かれる。
アルファレスは多少の不快に口を開こうとしたが、相手はそ知らぬ様子で手のひらをひらめかせ、遊戯の続きを促してくる。
「貴方様はこの縁談が破綻したら良いとお考えのようですが――そうですね、私もその考えには賛成です」
「だが、破綻するほうにばかり賭けられては賭けが成立しない」
当然破綻を望んでいるというのに、何故かその逆を口にし顔をしかめた。
何故か、こう話しているだけで落ち着かないような苛立ちを覚えるのは、自分の中にも何かの不自然さを覚えてしまうからだ。
もう一枚カードを引くようにと指先で示すと、相手はにっこりと微笑しカードを裏返してよこした。
「バースト、私の勝ちですね」
まるでその言葉に合わせるように、ゆっくりとした足取りで黒衣の給仕が近づき、頭を下げた。
「アンリ、カロウスがお呼びです」
「では、失礼させて頂きます。
この先、あなたの頭上に幸運が輝きますように」
そう頭をさげたその口で、アンリはぼそりと相手に聞こえるか聞こえないかの僅かな声音で囁いた。
「馬鹿なんですね」
***
「何をしてるんだ?」
カロウス・セアンことウイセラは神経質そうな指先で黒檀のテーブルの表面を弾いた。
「人の縄張りで」
きつく相手を睨みつければ、先ほどまでディーラーとして笑みを浮かべていた相手はわざとらしく肩をすくめてみせる。
背に流していた緩い三つ編みをくるくると軽く巻き上げ、胸のハンカチーフと共に差していた棒のようなものを軽く差して纏め上げた。
「貴方が珍しく手紙など送ってよこすからですよ、カロウス様。
貴方が賭けの台帳におかしな記載があるなどといわなければ、私は今頃はコリン様と一緒に夕食を食べておりました」
自分の手から白手を引き抜きながら、アンリ――ことリアンはつまらなそうに瞳を細めてこの館の主を見返した。
決して表立って顔を出すことの無い賭博サロンのオーナーは、貴族を相手にする為に当然貴族としての爵位を持つ。ただし――その爵位は隣国のものであり、その正体を正式に知るものはいない。
「まぁ、気に掛ける程でもないただの愚かな小物でしたが」
「まだそう公にもなっていない案件だというのに、何故こんな馬鹿げた話がでてくる? あれは侯爵家の嫡男だが、この件にどう関わってくる?」
「それはこちらで調べます」
リアンは冷たく言い放ち、片手でもてあそんだ二枚の白手でぐいっと顎先と唇とを拭い去った。
「コリン様はどうしておいでです?」
「あの子は仮面舞踏会に行くらしい――信じられるかい? そんな如何わしい場所に誘う婚約者など下衆もいいところだ」
吐き捨てられる言葉に、リアンの口元は嘲笑を浮かべた。
「コリン様が一般的な夜会や舞踏会に行ける筈がありません。婚約者殿はそれを考慮しただけでしょう。
カロウス様、そのように目を曇らせるものではありませんよ」
汚れた白手を屑入れの中に放り込み、リアンはウイセラの机の上に置かれている新しい白手に指を滑らせた。
「仮面舞踏会はカロウス様にとってはさぞ如何わしくも下衆なことをする場なのですね。奥方様に今度お会いした時にでもお尋ねしてみたいと思います」
纏め上げた髪から棒を引き抜き、リアンは言葉を続けた。
「まぁ、初夜の晩から二月も寝所から締め出しを食らったどこかの誰かさんは口ばかりだと思いますが」
「おまえが海の藻屑になってなくて本当に残念だよ」
「偶然ですね。カロウス様のお顔を拝見するたびに私も同様に思っております」