その2
教会のステンドグラスの輝きが川面に反射し、きらきらと踊る様子をじっと見つめながらアリーナ・フェイバルは耳に掛かる後れ毛を指に巻きつけた。
潜められた眉にゆがんだ唇。
その顔立ちは幼い頃のふっくらとしたものではなく、今はやつれてさえ見えて、どこか危うい美しささえ感じられた。
「……聞いているのね?」
やがてゆっくりと落とされた吐息交じりの言葉に、アルファレスは手の中で帽子をもてあそびながらゆっくりと首を振った。
「生憎と」
「うそ――だって、あなた」
「アリーナ、君が何か悩んでいることくらいはぼくにだって判る。以前とはまったく持っている雰囲気が違うし、教会でぼくを見る君は、むしろ辛そうだった」
だから何か話しがあるのだろう?
そう誘いを掛けたのだと肩をすくめて見せたものの、それは本当であり、また嘘であった。
――アリーナ・フェイバルが勘当された。
その話しは耳に入っていた。
サロンの噂話しのひとつとして。
アリーナは社交シーズンをもうすでに三年過ごした女性であり、それはつまり三年の間売れ残っているという意味でもある。はじめの一年のうちに結婚を決める女性は少なく、まずは社交界に慣れて二年目に備えるというのはむしろ常識的なことになっている。焦って結婚相手を見つけ、損をしないように。だから翌年――二年目の女性達は今度は本格的に男性を射止めようと動き、三年目になれば男性人もその女性をく理解し、噂が色々と巡ることとなる。
――その容姿、性格、家柄。
アリーナは男性の間でも家柄も悪くなく、持参金も程ほどにあり、そして素晴らしい美人という程ではなくとも、家庭に入れば立派に男性を支えることのできる女性として目されていた。
だが、その全てを覆すように流れたのは、アリーナ・フェイバルが勘当され、家から出されたということだった。
父親から見放されたものの、母親側の親族によって小さなコテージを与えられて細々と暮らしているとはいうが――それは彼女の女性としての価値を思い切り下落させる噂であった。
「愛する人ができたのよ」
「おめでとう――と言ってはいけない相手ということかい?」
「そうね。めでたくはないの」
アリーナは言いながら小首をかしげた。
「結婚の約束もしていたの。相手は――男爵家の次男で、爵位は無いけれど……でも、きっとお父様を説得できると思っていたの」
アリーナは伯爵家の長女ではあるが、彼女の上に長男が存在する。当然爵位はその長男に相続されることとなるのだから、父親としては爵位の無い男に娘を嫁がせることは渋るだろう。
その話しだけで、この婚姻は困難なものであるだろうとアルファレスは納得できた。
「父親の強い反対にあったという訳か」
だがその程度でアリーナがあんな思いつめた様子でアルファレスを見ていたというのは腑に落ちない。
アルファレスは川の畔、作られた柵に腰を預けて、じっとアリーナのこわばる顔を見つめた。
「こっそりとあたし達は愛を育んで、ばれないように交際を深めたわ」
その深めた、の意味にアルファレスは眉を潜めた。
貴族の娘がそんな容易く交際を深めたなどと言うものではない。何事も評判がものを言う世界なのだから。
「……いつか許してもらえるものと思っていたから。子供ができても……構わなかった」
「それで、子供ができた途端に男に捨てられた?」
アルファレスは核心をつくように口にした。
「違うわ」
一瞬傷ついた顔をしたものの、アリーナは首を降った。
「子供のことは関係が無いの。ある女性が――あの人との婚姻を望んでいて、それで、あの人の父親がその話しに乗る気になってしまったのよ」
はき捨てるように告げられた言葉は震え、アリーナはそっと視線を逸らした。
「相手の女性は貴族ではないけれど、とても物凄い持参金がついているの。あの人は勿論断ってくれるように頼んだそうよ。そうしたら、お父様が勘当するって――月々のお手当も全て廃止するといわれてしまって」
爵位を持たない人間は飼い殺される。
父親や兄から月々の手当を受取り、それで生活をせざるを得ないのだ。嫡男であるということとそれ以外であるということには恐ろしい程大きな隔たりがある。
親や兄弟からの援助を失うということは、死ねというに等しい。
――勿論、自ら仕事をするという発想が無い訳では無いが、悲しいかな仕事を持つということは社交界では蔑みの対象となり、この世界から弾かれる。
どちらにしろ死ねと言われるようなものだ。
「あの人は……心配しないでと言っていたわ。
すぐに良くなるって」
乾いた笑いを浮かべるアリーナに、アルファレスは吐息を落とした。
「判っているの。仕方の無いことなんだって……あたし達のように中途半端に貴族の子として生まれた人間には、選択肢が少なくて、どうしようもないことなんだって」
アリーナは肩を震わせ、そして唇をゆがませた。
「でも――あたし、愛人として生きる自分を想像したら、耐えられなかった。相手の女性は商家の娘なのですって。ねえ、信じられる? あの人は商家の娘を本妻に、貴族の娘を愛人にするつもりなのっ」
貴族だから偉いとは思ってないわ。
でも、ねぇアルファレス。あたしには耐えられなかったの。
「男が憎いかい?」
穏やかに問いかけたアルファレスに、アリーナ引きつった笑いを浮かべ、涙を落とした。
「笑ってちょうだい、アルファレス。
あたし、それでもあの人を愛しているの。頬を叩いて別れを告げた今も――今も、あの人を愛しているのよ」
「笑ったりしないよ」
「あの人を欲しいと父親にねだった女が憎いの。あたし達の愛を更に困難なものにしたあの女が憎いの。こんなに人を憎むことができるなんて、ねぇっ、あたし知らなかったのよ。どうしようもないことだって理解しているの。でも、その女さえいなければと思ってしまうのは愚かしい?」
アルファレスは幼馴染が一人で身を固くして訴える言葉を耳に入れ、やがてゆっくりと問いかけた。
「赤ん坊ができたのだったね」
「……」
「――ぼくと結婚しようか? ぼくもそろそろ結婚しないといけないし、君とぼくの間には少なくとも友情が成立する。お腹の中の子が女であることを祈ろう。男であれば、さすがにぼくの跡取りとしての生活は望めないけれど、それなりの生活は保障できる」
淡々と告げた言葉に、アリーナはゆっくりと首をふり、辛そうに笑った。
「そんな気遣いは結構よ。
ああ、けど……もっと早く会いたかったわ、アルファレス。
あの子は、もう、いないの」
***
――ストレスで流産したのだと思っていた。
アルファレスは姉から向けられたアリーナの噂に苛立ちを深め、琥珀色の液体の入ったグラスを強く握り締めた。
アリーナは自ら川に入ったのだ。
元から子供だけを流すつもりだったのか、それとも死ぬつもりであったのか判らない。だが、それは……知らなかった。
いや、あくまでもそんなことは噂に過ぎない。
噂など悪意だけでどんどんと膨れ上がる。
一息に酒を喉の奥へと流し込むと、あいたグラスにすっと酒が注ぎ足された。
「この店で女性の給仕とは珍しい」
腰まである髪を三つ編みにし、男性用の従僕のお仕着せを着た華奢な姿に相手は柔らかな笑みを浮かべた。
「時折このサロンの手伝いをしております。アンリと申します」
「男?」
「このサロンは女人禁制の賭博サロンです。私の性別についてはご存知の通りとしか申し上げられません」
にっこりと微笑を浮かべ、相手は興味深い様子で囁いた。
「賭けの台帳に面白い賭けをお書きになったのは貴方様でいらっしゃいますか?」
「ああ、あの――男爵家の次男と商家の娘との婚約破棄のことかな。あまり人気のあるネタではないから、オッズは高くないよ」
つまらなそうに呟き、アルファレスはグラスの中の液体を揺らした。
「婚約破棄なんて滅多に台帳にのるものではないので目を引きました。よろしければその男爵家と商家の話しをしていただいても構いませんか?
私も一口のせて頂きたいと思いまして」