その4
やっと落ち着いた胸を一撫でして、フレリックは溜息を吐き出した。
まるで心臓が飛び出してしまいそうにドキドキと激しく鼓動していた。まかりまちがって口からうっかり飛び出してきやしないかと思う程、体がドクドクと脈打っていたのだ。
――遊戯。
ほんの遊戯。
けれど、気の弱いフレリックにはあまりにも消耗の激しい遊戯だった。
セイフェリング侯爵家の四兄妹は時折こういった遊びに興じる。
時に些細な賭け事であったり、時に他人すら巻き込む出来事であったり。
つまり、退屈が嫌いなのだ。
いつだって遊びの主導権を握るのは、嫡男であるアルファレス。姉や妹達の求めに応じて彼は色々な遊戯を思いつく。
だからこれもまた気まぐれ程度のことなのだろう。
ただ、やたらと質の悪い遊び。
フレリックは先ほどばったりと遭遇してしまったコリンを思った。
三度、接触している。
だがその三度とも彼女からはアルファレスが言うような、強欲な娘というイメージは覚えなかった。
どちらかといえば、強欲さでいえばあの二姉妹に適うものなどいないのでは無いかと思う。
咄嗟に付き合って下さいなどと言ってしまったが、彼女は――どう思ったろうか。
他人の色恋になど口出しできるような立場ではない。
自分の恋愛だとてままならないというのに。
しかも、婚姻の破談などという大それたことをしようとしているのだ。
――簡単じゃないか。
男より女の方が醜聞によって壊れやすい。多くの目の前で、あの女が品性の卑しい貴族社会に決してそぐわない女だと知らしめればいい。
「勿論責任など知らぬ存ぜぬで放置すればいい」
アルファレスは思案するフレリックに助言するように言っていた。
品性の卑しい――なんて、いったい誰のことだろう。
溜息をつきながら、それでもほぼ本能で愛するリファリアのいる屋敷へと立ち戻り、いつものように裏手から入ろうとしたフレリックだが、そこでばたりと一番苦手なセイフェリング侯爵家の長女、クロレアとかちあってしまった。
「あら、フレリック坊や」
まるで肉食の獣のように存在感のある美女だった。
アルファレスに似た色素の薄い金髪に、口元は意思表示の激しい紅。
ゆれる髪はきっちりと巻かれ、真昼間だというのに、胸元が大胆に示され、その豊満な盛り上がりがどうしても人目を浚う。
「く、クロレアさまっ」
「ふふふ、いつも通り冴えない顔ね? 溜まってるの? あたくしが慰めてさしあげましょうか?」
「くぇっ、こうですっ」
「リーファはあまりさせてくれないでしょう? あの子ってほら、淡白だから」
くすくすと赤い唇を歪めて笑う妖艶な美女を前に、フレリックの顔が真っ赤になってそのまま血管が切れてしまうのでは無いかとすら思った。
閨事の話など、夜と言えども軽々に話題にするものではないというのに。
今はまだ真昼間ではないか。
頭の中が混乱し、そんなことはありません。先週だって寝台に呼んでくれました! 咄嗟に言いそうになるのを辛うじて押さえ込む。
のけぞるようにして相手から逃れようとしたが、すぐに壁にぶつかり、つっとクロレアの優美な指先が頬をなぞった。
「あなた、今回の遊びにリーファとの結婚を持ち出そうとしているのですって? それなら早くしたほうがいいわよ? あの子だっていい年齢ですもの。そろそろアルファレスが結婚相手を見つけてしまうかも? ほら、あの子ってそういうところ容赦ないものね?」
かぁっと体温が上がった。
「あの子が乙女でないことなんて関係が無いのよ。侯爵家の娘だというだけで、引く手数多ですもの。まぁ、あなたは自分が一番リーファの夫に近いなんて思っているのでしょうけど?」
リファリアとはじめて関係を持とうとした時、フレリックは激しく結婚を意識した。身分も違う。何より自分は弟子でこんなことが良い筈はない。けれど彼女は自分を求めてくれた。承諾してくれた。
順番など関係なく、結婚しよう。
明日の朝になったらアルファレスにかけあって「リーファと結婚しなければいけない」と告げよう。彼女の処女を奪う名誉を勲章のように抱き、勝利を手にする筈だった。
しかし実際は違った。
「こんなものか」
と、リファリアはあふりと欠伸をした。「うん、そうか、わかった」とまで言った。フレリックには全然判らなかった。
「リーファ?」震える声で言えば、リファリアは乱れた髪をかきあげて「ああ、ごちそうさま? もう帰っていいよ?」とフレリックを追い出したのだ。
「結婚しよう」と幾度か口にしてみたが、彼女は少しも聞いてはくれなかった。その癖、自分が欲しくなればフレリックを寝室に招くのだ。
今ではいやでも理解している。
リファリアは、アルファレスに結婚しろと言われれば「まぁ、仕方ないわよねぇ」と軽く言いながら嫁に行く。そしてアルファレスは、自分の姉や妹を手駒程度にしか思っていないに違いない。
動揺するフレリックの様子にクロレアはククっと喉の奥を鳴らし、その唇を素早く奪った。
「ふふ、がんばりなさい。今、リファリアの部屋にいるわよ、アルファレス」
「っっっ」
ひらりと手をひらめかせて出て行く相手のことなど無視し、フレリックは大慌てでリファリアが昼間の間入り浸っている研究室へと駆け込んだ。
「アルファレスさま! ぼく、この遊戯やりぬきますから!」
愛するリファリアの為に、そして……あの少女が、あまり酷い事態に陥ったりしないように。
「意気込みは立派だね」
出窓の辺りに腰をあずけて湯気のたつカップを傾けていたアルファレスは瞳を瞬き微笑んだ。
男でも一瞬どきりとする程の美貌の持ち主は、人好きのする笑顔を惜しまない。
ただし、その笑顔はアルファレスの仮面のようなもので、決して信じていいものでは無いとフレリックは痛いほど知っている。
アルファレスはいっそう機嫌よさげに瞳を細めた。
「でも男の唇に口紅がついているのはなかなか笑える光景だと思わないかい、リーファ?」
クスリと続けられた言葉にフレリックはハっと息を飲み込み、部屋の中央にある作業台でフラスコを傾けていたリファリアを見てしまった。
リファリアはしっかりとフレリックを見つめ、まるきり興味なさそうにフラスコへと意識を戻して肩をすくめた。
「アルファレス、あんたも時々そんな馬鹿くさい顔してるわよ」
「それは失礼」
アルファレスはまるで共犯者であるかのようにフレリックへと視線を向け、肩をすくめて笑う。
――違う、ぼくはアルファレスさまとは違う!
フレリックはごしごしと自分の口元を拭いながら、もどかしさに叫びたくなった。
断じて違う!!