その2
静かな物言いと同時、つっと伸びた手がクライス・フレイマの手首を跳ね上げた。
同時にコリンの肩が引かれて背中が誰かの固い胸に当たる。
それが誰だか容易く感じ取り、コリンはほっと小さく息をつくのと同時、自分の傍らに本来いるべき相手が居ない現実に寂しさを覚えた。
――言いましたよね、一人で出歩くような真似はやめて下さいと。
耳にまで口やかましい声が蘇った気がして、コリンは自らの内にあった寂しさを打ち消した。
途端に視界に映りこんだのは、クライスの驚愕に見開かれた瞳。
「まさかっ、カロウス・セアン?」
だが、突然クライスの口から出た言葉におどろいたのはコリンもそして――コリンをその腕の中に捕らえたウイセラも一緒だった。
一瞬身をこわばらせ、しかしすぐにウイセラは態度を変えた。普段の飄々としたものから、実質的な紳士然としたものへと。
「ああ、知り合いでしたかな? 失礼――彼女はこの後に用があるので、このまま引き取りますよ。では、年若い紳士、失礼?」
いつもの調子とがらりとかえ、声を低くし慇懃に丁寧に一礼し、そのままくるりと身を翻すようにしてウイセラはコリンを回収すると、怒りすらないほうさせ――支社の一室にコリンを連れ込むと眉間の皺をより一層きつくして指を突きつけた。
「最悪だ!」
「――」
「あれは絶対に駄目だ。コリン――あれはオレを、このオレをカロウスと呼んだぞ! そんな名前を知ってる人間はどんなに取り繕おうと人間の屑だ。判っているのか!?」
一息にまくし立てる叔父を見つめ、コリンはそっと息をついた。
ウイセラは明らかに動揺している。
しかもその反応は過ぎたるものだ。
突然突きつけられたものに心が動揺しているのかもしれないが、いかにもウイセラらしくない。
「それではまるきり叔父さままで最悪の部類のようです」
「最悪なんだよ。少なくともカロウス・セアンは最悪だ。
裏で賭博サロンを開いている胴元だからな! そんな人間を知っている人間などろくでもないねっ」
おそらくウイセラにしても真昼間の道端でそのように呼ばれることがあろうとは思っていなかったのだろう。珍しく激情のままに吐き出される声が上ずる。
「コリンっ」
「オジサマ」
ゆっくりとコリンは口にした。
その目は相手をきっちりと見据えて揺るがない。
「言ったはずです。これは戦争です――わたくしの」
「コリン……」
「判断はわたくしがいたします。あの方がどのような方であるのか、そしてこの婚姻がわたくしにとって、ひいてはヴィスヴァイヤにとって利となりうるのか。まだ序盤ですのよ? そのように心を乱すのは敗因となりますわよ」
自分とは正反対に淡々と語る娘の姿に、ウイセラは脱力したように肩から力を抜いて天井を仰ぎ見た。
コリンの持つ雰囲気が知らしめる。
彼の可愛い姪は、現状を物凄く楽しんでいる。
滅多にない程。
「見ていていらして」
コリンはゆっくりと唇に笑みを浮かべた。
「わたくし、負ける戦などいたしませんから」
「コリン……」
「あの方がどのような方であろうと。わたくしの利に、商会の利に、クローバイエの利に繋がるのであれば喜んで嫁ぎましょう。この婚姻が何も得られるものでないのであれば、きっぱりと拒絶いたします。それがわたくしの勝利です」
ウイセラはそっと首を振り、手を伸ばしてコリンの華奢な肩を引き寄せ、抱きしめた。
「愛しているよ、コリン」
そっと瞼に、眦に、頬に口付ける。
「――叔父さま」
唇の端、ぎりぎりに唇を触れさせ、触れさせたまま囁いた。
「君はオレのところにいればいい」
「叔父さまのところにいても何の利もありません」
単純な理由で拒絶され、ウイセラは顔をあげた。
その顔には笑みがある。
「命じればいい。コリン――このウイセラが。ヴィスヴァイヤの二番手にしてキドニカの伯爵、カロウス・セアンがおまえの戦いの為に奴隷のように使われてやろう」
ほんの少し逡巡し、コリンは告げた。
「では命じますわ。あの方があなたの名を口にできる訳を調べて下さいませ」
ウイセラは気取った様子で胸元に手を当てて一礼した。
「了承した――我が主。我が女王にしてヴィスヴァイヤの女神様」
丁寧に届けられる言葉に、さすがにコリンも冷たい眼差しを向けた。
「そうやってふざけてばかりいると、そのうちに叔母様に愛想をつかされてしまいましてよ?」
「……ハニーはべたべたするのが嫌いだからねぇ、遊んでくれないんだよ」
「私も叔母様と同意見です」
コリンは淡々と返し、先ほど口付けられた箇所を思い切りハンカチでぬぐった。
「コリンまでつめたい――ウィニシュでやったら顔面に一発くらったんだよ。
この先オレにどうしろっていうの?」
***
コリンは叔父にもう一度強く抱きしめられ、支社を後にした。
カロウスの名が出るのであればコリンが持つ正攻法では相手を追い詰めることは適わない。だから今回は素直に叔父の手を取ったのだが、多少胸にわだかまるものがある。
――父はそれを反則とみなさないだろうか。
せっかくの戦いに泥を塗りたくは無い。だが今更了承をとるというのも無駄に情報を開示してしまうことになる。
そう。この戦いはあの婚約者殿との戦いでは無い。
父との戦いなのだ。
父に示された戦い。
コリンはそっと自分の唇を中指の先でなぞった。
もしかしたら、この婚姻は意味があるかもしれない。
もっと大きな意味が。
相手が見たままの人物でないのであれば、ヴィスヴァイヤの利に繋がるのかもしれない。
隣国キドニカの伯爵位を所有するカロウス・セアンを知る人間。それは果たして、この国――ヒリトーシェの賭博サロンの所有者としてのカロウスなのだろうか。それとも、正真正銘キドニカの伯爵位のカロウス?
「人って……判らないものですわね」
小さな呟きに、唇の端が僅かに上がった。
優しい顔をして愛人を持っている。凡庸なふりをしてウイセラの裏の顔を知る。
それはある種、最良の婚姻相手かもしれない。
コリンは今まで欠片程も自分の婚約者自身に対して興味は無かったが、ほんの少しだけ興味が沸いた。
カロンっと音をさせて雑貨店の扉を開く。
そこにいた人物を前に、コリンは一旦瞳を見張り、やがて彼女にしては極上の微笑みを浮かべた。
「こんにちは」
自然と手提げ袋を強く抱きしめ、中にあるアルミの缶の感触に幸福すら覚える。
婚約者と遭遇した時に抱いたものでは無い感情が、じわりじわりとコリンの胸を満たし、先ほどやっと芽生えた婚約者への興味を薄れさせた。