その1
会員制の喫茶室を出て、ふとコリンはその足をいつもの雑貨店へと向ける気になった。
頼んでいた商品が届いたかもしれないという思いと同時、あのひょろりとした青年とまたあえるのでは無いかと思ったのだ。
手荷物の中には常に小さなアルミの缶がある。
中身は当然、あのお茶だった。
どろりとして粉っぽく、後味が劇的に悪く、これを口にするだけでお茶好きの喜びをくじき、せっかくのお茶の時間をあっという間に暗黒に叩き込む謎のあの粉末だ。
あの青年のことを、調べようと思えば相手の素性など簡単に調べることができるだろう。だがそうはしたくなかった。どうせまた会える。それはある種の直感であり、またコリンはこの手の直感を外したことがない。
整えられた石畳を人を避けつつゆっくりと歩きながら、コリンは自分の口元がほんの少しゆるんでいることには気づいていなかった。
喜怒哀楽の機微に乏しく、どちらかといえばぼんやりとして見られる彼女だが、今の表情は極普通の年頃の娘が、恋しい男でも思うようにさえ見える。
――実際は、どう考えても復讐の権化だが。
そもそも、あの男は何故コリンの名を知っていたのか? コリンがヴィスバイヤ貿易の総領の娘だと知っていて声をかけたのだろうか?
せんだっては、自分が漏らしたのではないかと思ったものだが、考えても考えてもその答えは引っかかりはしなかった。
もう長い付き合いの雑貨店の主人だとてコリンの素性など知らないというのに?
もとより、ヴィスヴァイヤの総領に娘がいるということはあまり知られていない。それは過去にあった出来事からの起因だが、公にはコリン・クローバイエは八つの年齢で病に臥し、今は生きているのか死んでいるのかすら判然としていないと言われている。
いくら普段はうっかりとしている自覚があるコリンといえど、そうそうそんな自分の素性を話したりはしないだろう。
――家人による誘拐により重症。
嘘であるとはいえ、当時の新聞にすら掲載された事案だ。いらいコリン・クローバイエはそのまま屋敷の奥深くで治療を続けられ公の場にでることはなく、もうすでにその存在など無視されている。
ヴィスヴァイヤの屋敷にすらコリンは住んでいないのだ。
ただし、勿論例外はいる。コリンが存在していることを知るものは確実に、いる。
それは――
「コリンさんっ」
突如背後から声をかけられ、コリンはぴたりと足を止めた。
先日の青年かと思ったが、石畳を歩いて来るのは自らの婚約者――候補だった。
途端に、ふっと浮き立つような気分が自然と冷静な部分に落ち着いた。
ほんのりと浮かんでいた微笑が、作り物の笑顔にあっさりとその場を明け渡す。
「ごきげんよう」
コリンは丁寧に頭を下げ、さようならと続きそうな言葉を呑みこんだ。
「一人で歩いているなんて、危ないですよ」
「何も危険はありません。わたくしは一介の庶民の娘ですから」
「でも……あなたは」
「わたくしがセヴァランの娘であると知るものなど少ないのですよ。セヴァランの娘が健康体ということすら知らぬものが多い。ですので、へたに人を連れるなど危険を増やすだけです」
コリンは淡々と説明し、ふと首をかしげた。
「何か御用でいらっしゃいますか?」
「いや、用と言うほどでは……ただ、あなたが歩いているのが見えたから、嬉しくて」
戸惑うように言われ、コリンはうなずいた。
――うれしい。
そんなものだろうか。
コリンは自分に照らし合わせて考えてみた。街中を歩いているこのひとを見かけた場合、自分は嬉しくて声を掛けるだろうか?
まず掛けない。嬉しいという感情も沸きはしないだろう。おそらく、いると認識するだけだ。いや、気づかない確立のほうが高い。
しげしげと相手の顔を見つめ、その特徴を掴もうとしたが、自分の中に入る特徴と言えば「目と鼻と口があって、軽薄な口元。平凡。凡庸。前歯から左側、二つ目の歯の間はもしかして虫歯ですか?」
むしろ今会いたいのは――
コリンは自らの手にある小さな小物入れの紐をぎゅっと掴んだ。
袋の中には銀のケースがひっそりと収められている。
いつなんどき、どんな拍子で顔を合わせても良いようにと。
「どちらに行かれるのですか? お送りしますよ」
「フレイマ様もお忙しいと存じます。わたくしは一人で平気ですから、お気になさらず」
「あの、ぼくがあなたと一緒に……いたいんですが」
戸惑うように言われ、コリンはじっと相手の瞳を覗き込んだ。
しばらく見つめ、
「では、支社にお送りいただけますか?」
「支社でよろしいんですか?」
ヴィスヴァイヤ貿易支社ならばこの先一区間にある。眉間に皺を寄せる相手に、コリンはこくりとうなずいた。
面倒事は嫌いだった。
こんな場で貴族の青年と会話を交わし続けるなど煩わしいこといがいのなにものでもない。おかしな噂などたてられては、この先の自分の行動に支障ができかねない。
コリン・クローバイエがそのへんを歩いているなどと知られて良いことではない。誘拐など二度もされれば十分だった。
「今日はどちらに行ってらしたんですか?」
コリンが喋らないことにじれるように相手が口を開く。コリンは問われたことにだけ淡々と返した。
「フレイマ様にお連れ頂いたあの喫茶室です」
――あなたの可愛らしいお人形と共に。
一瞬、あの愛らしい人形を褒め称えたくなったが、さすがにそぐわないだろうとコリンは口を噤んだ。
アレをモデルにして人形を作れば売れるのではないだろうか。それとも、ドレス――生きるマネキン人形として使い倒してしまいたい。
とても素敵だ。
「ああ、気に入っていただけたのでしょうか。とても嬉しいです」
「カカオのケーキはおいしゅうございました」
本心とはまったく違う無難な言葉を交わし、支社の入り口に立とうとすればふいにくんっと手を引かれた。
「あの、コリンさんっ」
「はい。何でしょうか」
「――また会っていただけますか」
「当然お会いする機会はあると思います」
コリンは端的にいった。自分と相手との関係を考えれば、会わないということはないだろう。だから正直にそう言ったのだが、相手は苦いものを噛むような顔をする。
自分は何か間違った返答をしただろうか?
コリンは自らの弟であったらもう少しそつのない対応ができるだろうにと、ほんの少し自分の対人関係のスキルの低さを呪った。
ぎゅっと更に強く手首をつかまれ、強く引かれれば、覚えるのは不快感だけ。
だがもとからその表情はあまり変わらない。
コリンの表情を読み解くことができるのは、自らの右腕とそして、
「離してやってくれないかな。うちのお姫様が痛がっている」
静かな物言いと同時、つっと伸びた手がクライス・フレイマの手首を跳ね上げた。