幸福な勇者の物語
それは、いつかどこかにあった忘れられた世界のお話。
そこには、ある一つの不幸な王国がありました。何年も、何年も、何度も、何度も、その王国は魔王からの攻撃を受けています。魔王の放ってくる攻撃は、その王国のどんなに高名な騎士でも、どんなに優れた魔術師でも、対抗できません。
長い間ただ苦しめられ続ける時代が続いた後に、王国で一つの魔法が生まれました。
どこから伝わったのか、だれが作り上げたのか分からないその魔法は、異世界から魔王に対抗する事の出来る勇者を召喚する魔法です。それまでその王国には異世界という概念は存在していませんでしたが、その魔法は即座に使われ、勇者が召喚されました。
そうして、何年も、何十年も、そして何百年もの時が流れました。
その間、異世界の勇者は絶えることなく王様の手によって召喚されました。何人も、何十人も、何百人も。
勇者たちは皆、勇敢に戦いました。けれど、どんなに勇敢な勇者も、どんなに頭の良い勇者も、魔王を倒す事だけはできませんでした。どんな勇者もただ王国を守り、時と共に老い、そして衰え、いつしか次の勇者が召喚されます。
そしてまた一人、それまでは普通に過ごしていただけの少年が、勇者として召喚されました。普通に生まれて、普通に育って、明日も普通に目が覚めるだけだと思っていた少年は、そうして勇者になりました。
特に何かに秀でているわけでもない、ただ、それまでの勇者よりもほんの少し若いだけの、普通の勇者でした。
その頃の王国に居たのは、虚無の王さまと、死ぬべき所を生きているお妃と、純真な王女でした。
普通の勇者はそれまで戦った事がありませんでした。体力も優れているわけではなく、彼が本当に戦う事が出来るのか一番不安に思っているのは、普通の勇者自身です。
しかし、普通の勇者には、ある一つの特別な力がありました。それは、この王国に召喚された全ての勇者が持っている力で、そしてこれまでの全ての勇者はその力によって魔王の力に対抗してきたのです。
普通の勇者自身も、その力については知っていました。彼がこの世界に召喚されたときに、どこの誰とも分からない謎の声が、普通の勇者にその事を教えてくれていたからです。
君は選ばれたたわけではない。
その声は言いました。
これから君が選ばなくてはならない。
その言葉の意味が、普通の勇者にはわかりません。もしかしたら、それは勇者として戦うかどうかなのかもしれません。あるいは、勇者の持っている力を使うかどうかに関してなのかもしれません。
勇者の持っている不思議な力は、思い出を原料にした奇跡です。
これまでの全ての勇者たちは、自分の思い出を犠牲にして、魔王の力に対抗してきました。魔王の力である、先触れの尖兵は、王国に居る兵士や騎士、魔法使いにとっても対抗できない存在でしたが、勇者の力があれば敵ではありません。
普通の勇者は召喚されてから、最初に先触れの尖兵がやってくるまでの間に純真な王女と仲良くなりました。純真な王女は、普通の勇者に異世界の話を乞いました。美しい純真な王女に頼まれた普通の勇者は、その事を喜んで話して聞かせました。
異世界の風習や、異世界の歴史。そして何よりも純真な王女が喜んだのは、普通の勇者の思い出話でした。風習の違っている二つの世界では、何よりも、築きあげてきた思い出が違ったのです。
そうして、王国の人間達と仲良くなったことで、普通の勇者にも戦う覚悟が決まりました。それまで居た世界の思い出を失ったとしても、それでも目の前にいる人たちを、そして純真な王女を守りたい。普通の勇者はそう思いました。
先触れの尖兵がやって来た時、普通の勇者は迷うことなく勇者の奇跡を使いました。彼の中から、元の世界に居た頃の思い出が一つ、失われました。普通の勇者には、その思い出が大切なものだったのかどうか、そんなことすら思い出す事が出来なくなりました。
普通の勇者がその力を使った事を聞いて、純真な王女は嘆き悲しみました。それまで平和な世界で暮らしていた普通の勇者に、そんな辛い事をさせてしまったのだと、純真な王女は思いました。
嘆き悲しんでいる純真な王女に、普通の勇者は言いました。
私はこれからも、思い出を忘れ続けることになるでしょう。ですから、その思い出をあなたが覚えていてください。
純真な王女は、普通の勇者がそう言った日から毎日、自分の日記を読み返すようになりました。そこには、普通の勇者が聞かせてくれたすべてのお話が記されています。純真な王女はそれを毎日読み返して、普通の勇者がその話を聞かせて欲しいと言った時には何時でも話をしてあげられるようになりました。
一年たって、二年たって、普通の勇者と純真な王女が大人になる時が来ました。普通の勇者はそれまでに何度も、何度も、何十回も先触れの尖兵と戦っていました。どんなに体調が悪い時も、どんな怪我を負っている時も、王国の住人達は普通の勇者に戦うように言いました。
そんなとき純真な王女は、ひどく悲しい気持ちになります。純真な王女は、普通の勇者と同じくらい王国の住人たちを愛していましたが、普通の勇者に対する彼らの態度はおかしいのではないかと感じていました。
その事を言うと、普通の勇者は笑ってこう言いました。
おかしなことなどありませんよ、純真な王女。私はそのためにここにいて、そして私もあなたと同じくこの王国の住人たちを愛しているのです。苦しくても、その先に誰かの笑顔があるのなら、私はいくらでも思い出を差し出しましょう。
幸い、大人になるまで勇者の大切な記憶は一つも消える事がありませんでした。それは、先触れの先兵と戦うのであれば、大切な記憶を代償にする必要が無かったからでした。
そして勇者が大人になった日に、魔王の使いが来てこう言いました。
そんなところに居ないで、魔王の城へと攻めてきたら良い。
勇者は旅立つことを決めました。
どんなに純真な王女が頼んでも、それを聞き入れる事はありません。
幸い、先触れの尖兵がやって来る道は決まっていて、その道を辿って行けば魔王の道へ行く事が出来、さらに、普通の勇者がいなくなった王国へ先触れの尖兵がやってくる事を防ぐこともできます。
旅立つことを決めた普通の勇者に、虚無の王さまが言いました。虚無の王さまは良き統治者でしたが、妃にも王女にも、愛情を注ごうとしない王様です。
普通の勇者よ、君は選ばれたわけではない。君がこれから選ぶのだ。そして、君が選ぼうとしている道は最も険しい道だ。魔王の城へと行き、そして魔王を倒すのならば、君は大切な思い出を全て失う事になるだろう。
王様の言葉に、普通の勇者は目を丸くしました。まるでそれは、普通の勇者がこの世界に召喚されたときに聞いた声の言っていた事のようだったからです。
しかし、勇者がその時に聞いた声と虚無の王さまの声は違っています。
普通の勇者は答えました。
迷いはありません、虚無の王さま。たとえ私が大切な思い出を失うのだとしても、それでも私にはこの世界へきてからの記憶があるのです。この世界へやって来て、それを出迎えてくれた純真な王女との出会いがあれば、私は魔王を倒して帰ってくる事が出来るでしょう。
すると今度は、死ぬべき所を生きている妃が、普通の勇者に言いました。
死ぬべき所を生きている妃は、いつも悲しい顔をして、虚無の王さまを恐れているようにも見えます。
ああ、普通の勇者。あなたが戦わなくてはならない理由など、どこにも無いのです。もしもあなたが望まないのなら、あなたは次の勇者を召喚して、この国の王になることもできます。もしも私達や純真な王女があなたを戦いに縛りつけているのなら、どうぞ私達の事など捨ててしまって構いません。純真な王女と二人で、どこかで静かに暮らしてください。
死ぬべき所を生きている妃の言葉にも、普通の勇者は驚きました。そして、もしかしたら虚無の王さまも自分と同じように勇者だったのかもしれないと思いました。
しかし、だとしたらなぜ、虚無の王さまと死ぬべき所を生きている妃はそんなにも悲しそうなのでしょうか。誰かのために戦って、その末に守ったものがあるのなら、それは不幸ではないと、普通の勇者は考えています。
そして、死ぬべき所を生きている妃に勇者は言いました。
私は何にも縛られておりません。ただ、このわたしを突き動かしているのは、愛なのです。この王国を愛し、そして純真な王女を愛しているからこそ、私は旅立たねばなりません。その末に、大切な思い出を失ってしまうのだとしても、愛を失う事に比べればどうという事も無いのです。
それを聞いた死ぬべき所を生きている妃は、黙って顔を伏せてしまいました。死ぬべき所を生きている妃は、それきり普通の勇者を止めようとはしませんでした。
そしてその話を聞いていた純真な王女は、普通の勇者に言いました。
この日記をお持ちください、普通の勇者様。あなたのお話してくれたすべての思い出を、私はこの日記に記しております。もしもあなたが大切な思い出を忘れてしまったなら、その時はこの日記をご覧になってください。
その日記には、普通の勇者が語った思い出だけではなく、純真な王女が綴った様々な思いがありましたが、純真な王女はそれを普通の勇者に手渡しました。
その厚い日記帳を受け取った普通の勇者は、大事に胸に抱くようにして純真な王女に言いました。
この日記をあなたにお返しすることを誓います。そして帰って来た時には、大切な思い出を失ったこのわたしがあなたを愛することを、許していただけますか?
純真な王女は瞳に涙をためて頷きました。純真な王女も本心では普通の勇者を止めたくて仕方がありませんでした。そして、死ぬべき所を生きている妃がそれを望んでいる事も知っていました。
もしかしたら、純真な王女が引きとめていたら、普通の勇者は魔王の城へ向かう事を辞めていたのかもしれません。
しかし、純真な王女は最後まで、普通の勇者を引きとめる事はしませんでした。言いたい事はたくさんありました。自分はもうその日記の中に書いてある普通の勇者の思い出を全部覚えてしまっていて、なので仮に普通の勇者がその日記を失っても、自分ならば普通の勇者に思い出を語って聞かせる事が出来ること。本当は、自分と一緒にどこかへ逃げて欲しい事。
しかし、そのどれひとつとして純真な王女は口に出しません。ただ純粋な王女は、普通の勇者の貴い決心を汚したくなかったのです。
そうして、普通の勇者は旅立ちました。
普通の勇者の旅路には、数々の困難が待ち構えています。これまで戦ってきた先触れの尖兵が比較にならないような困難を前にして、それでも普通の勇者は立ち止りませんでした。
病の茨の道。
老いと共に襲う砂漠。
迷う心の夕闇。
傾く月の魔女。
疑う心から生まれた鬼。
淫欲の蛇。
傲慢さから生まれた獣。
それら全ての困難に立ち向かった普通の勇者は、大切な思い出を一つ、また一つと失っていきました。普通の勇者は困難を乗り越えるたびに、純真な王女の日記を読みました。そうして、自分が失った思い出が何であったのか知り、その度に涙をこぼしました。
失われた思い出は、たとえ日記を読んでも戻る事はありません。
そうして、普通の勇者が忘却の魔王の元へたどり着いた時には、彼の中から元居た世界の思い出は全て失われてしまっていました。
玉座の前に立った普通の勇者を忘却の魔王はしげしげと眺めました。
忘却の魔王は普通の勇者に言います。
良くここまでやって来た、普通の勇者。しかし、ここまでたどり着いたのは君が初めてではない。
普通の勇者は疑問に思いました。
もしも本当にここまでやって来た勇者がいるのならば、なぜこの忘却の魔王は今も生きているのだろう、と。
このわたしを倒す事が出来ないわけではない。ただ、これまでの勇者にはそれが出来なかったか、選ぶ事が出来なかったかだ。
さらに普通の勇者は疑問に思います。
忘却の魔王を倒す事が出来るのなら、それを選ばない勇者はいないはずです。そして同時に、こうも思いました。倒す事が出来なかった勇者がいるのなら、もしかしたら自分もそうなのではないか、と。
心配はいらない、普通の勇者。幸い、君にはこのわたしを倒す資格がある。ただしそれは、君が私を倒す事を選ぶかどうかとは、別問題だ。
普通の勇者は言いました。
選ぶも何も無い。この私は、おまえを倒すためにここまでやって来たのだ。
忘却の魔王は笑います。
最早大切な思い出まで失ったと言うのに、これから先、君が犠牲にするものを知ってそれでも尚それが出来るのか。この世界へやって来てからの思い出を失ってまで、このわたしを倒さなければならないと思うのか?
確かに、すでに勇者の中から元の世界での思い出は失われています。忘却の魔王を倒すほどの奇跡ならば、普通の勇者の中に残っている最も大切な思い出を犠牲にしなくてはなりません。思い出が無くなっても、記憶が無くなったわけではありません。普通の勇者は自分がいた元の世界の事を覚えていますし、そこで学んだことも経験したことも覚えています。ただ、それが知識になって、温かみを失っています。
この世界へきてからの思い出は、すでに普通の勇者にとって元の世界での思い出よりも大切なものです。何よりも、純真な王女との思い出が失われる事に、普通の勇者は恐怖しました。
もしかしたら、自分の中の愛も、それに伴って暖かさを失ってしまうのではないか。
その愛が、勇者を支えているものでした。
君は選ばれたわけではない。
膝をついてしまった普通の勇者に、忘却の魔王は言います。
これから君が選ばなくてはならない。
その声は、普通の勇者がこの世界に召喚されたときに聞いた声と同じものです。忘却の魔王は、長い間そうして召喚される勇者たちを娯楽として生きていました。あまりに長い時間を生きた忘却の魔王は、異世界から召喚された勇者たちが何を選択するのか、それを観察することだけを楽しみに生きています。
かつて王国に勇者を召喚する魔法を伝えたのは、忘却の魔王です。
そして、忘却の魔王を前にして、思い出をこれ以上差し出す事の出来た勇者はこれまで一人もいませんでした。
ある臆病な勇者は旅に出る事も出来ず、ある勇敢な勇者は旅の途中で力尽き、ある優れた勇者は旅の途中で引き返し、ある幸運な勇者は忘却の魔王を前にして差し出す事の出来る大切な思い出を持っておらず、ある虚無の勇者は忘却の魔王を倒すための思い出を差し出す事が出来ずに引き返しました。それ以外にも多くの勇者を見て来て、忘却の魔王は飽きていました。
目の前にいる普通の勇者も、どうせまた普通の選択をするのだろう。忘却の魔王はそう考えていました。
蹲るようにして、苦しむようにして頭を抱えていた普通の勇者は、ようやく立ち上がり、そして忘却の魔王を真っ直ぐに見詰めて言いました。
分かった。お前の言う事は、きっと本当なのだろう。しかし、私はやはり、今日ここでお前を倒すのだ。これから先、王国が平和になり、そして私の純真な王女が穏やかに暮らすために。彼らを、そして彼女を愛する私は、おまえを倒さなくてはならない。
忘却の魔王は驚きました。
長い年月の中で、そもそも、そんな事を選ぶ事が出来る者はいないと思ったからこそ続けていた暇つぶしです。まさか、こんなにも普通の勇者がそんな事を選ぶ事が出来るとは考えていませんでした。
私を倒し、そして王国の城へ帰るためにはお前が失うものは最も大切な思い出だけではない。ここまで来るのに襲ってきたのと同じだけの苦難がお前を襲い、そしてお前は王国にたどり着くときにはこの世界へ召喚されてからの全ての思い出を失っているだろう。それでもこのわたしを倒すと言うのか、普通の勇者?
普通の勇者の中に、もはや迷いはありません。
その程度の事は、この城へ踏み込んだ時から承知済みなのだよ、忘却の魔王。
そう言って、普通の勇者は一番大きな奇跡を使いました。そしてそれと同時に、忘却の魔王の姿が薄れて行くのと同じく、自分の中から純真な王女と出会った時の思い出が薄れていくのを魔王を倒した勇者は感じました。
しかし薄れてゆく忘却の魔王は、往生際悪く、こう言います。
私は認めないぞ、魔王を倒した勇者よ。たとえ魔王がいなくなったとしてもお前は不幸になる。そんな結末でなにが勇者なものか。
薄れて行く忘却の魔王に、魔王を倒した勇者は穏やかに答えました。
思い出が失われるのならば、別のもので埋めれば良い。心配するな、忘却の魔王。この私は幸せになり、そしてきっと、皆幸せになるだろう。今、私が使った奇跡はお前を倒すためのものではない。皆が幸せになるための奇跡なのだから。
消え行く最後に、忘却の魔王は言いました。
ならば私は見守ろう。本当にそんな奇跡があると言うのなら、幸せになって見せるが良い。それを見とどけた時ようやく、お前は私に勝利するのだ。
魔王を倒した勇者はその声に頷いて、そしてそのままその場を後にしました。
普通の勇者が旅立ってから数年間、魔王を倒した勇者は王国へ帰ってきませんでした。純真な王女は毎日、勇者が無事に帰ってくる事を祈りました。この世界には神という概念はありませんでしたが、純真な王女は勇者から聞いた神頼みという話を実践していました。
千に近い太陽が沈み、同じ数の月が昇った後、ようやく魔王を倒した勇者は王国の城へと帰ってきました。既に王国には魔王が滅びた事が知れており、魔王を倒した勇者を王国の住民たちは歓迎しました。思い出を失った彼に王国に対する思い入れはありませんでしたが、魔王を倒した勇者はそれを受け入れ、そして住人たちと一緒に王国の平和を喜びました。
住民たちの歓迎を受けた後、魔王を倒した勇者は純真な王女の前に立ちました。
魔王を倒した勇者はまだ何も語ってはいませんでしたが、彼を愛する純真な王女にはそれだけで魔王を倒した勇者が多くのものを失ってしまったことが分かりました。何よりも、住民たちの歓迎を受け入れる魔王を倒した勇者の仕草一つ一つから、この世界へきてからの思い出を彼が失ってしまった事を、純真な王女は知っていました。
しかしそれは、純真な王女にとっても予想していた事でした。祈りをささげる毎日の中で、純真な王女の中の愛は色褪せることなく募るばかりで、純真な王女は魔王を倒した勇者が自分の想い出を失うことを覚悟出来ていました。
純真な王女よ、ただ今帰りました。これがお借りしていたあなたの日記です。
苦しい日々の中でボロボロになってしまった日記を受け取って、純真な王女は涙を流しました。血の跡すら滲んだその日記を見るだけで、魔王を倒した勇者がどんなに苦しい思いをしたのか、純真な王女には手に取るように分かります。
そして、全てのページがボロボロになるまでめくられている事にも気が付きました。それは、純真な王女が言った通り魔王を倒した勇者が何度も、何度も繰り返してそれを読んだ証拠です。
ああ、魔王を倒した勇者様。
涙ながらにそう言いかけた純真な王女を片手で制して、魔王を倒した勇者はほんの少しだけ恥ずかしそうにしながら言いました。
私の力不足から、この世界へ来てからの思い出も全て失ってしまいました。
この言葉は、純真な王女にとって、覚悟していても辛い事でした。純真な王女にとっても大切な初めて出会った時の思い出も、すでに魔王を倒した勇者の中からは失われ、愛をはぐくみ思い出を語り愛を語った毎日すら魔王を倒した勇者から失われています。
ですが純真な王女。このわたしの厳しい旅を支えてくれたその日記には、私を愛するあなたの心も綴ってありました。その愛を持って、私もまた失われてゆく思い出をあなたへの愛で埋めてきたつもりです。なので、思い出も持たぬ身で恥ずかしいのですが言わせていただきたい。大切な思い出を失ったこのわたしがあなたを愛する事を、許していただけますか?
そうして、純真な王女を魔王を倒した勇者が固く抱き締めました。思い出を失っても、思い出を共有することが出来なくなっても、そして愛の形が変わっているのだとしても、それでも二人はもう一度愛し合う事が出来ました。
二人の間を繋いだボロボロの日記は、王女の手の中で二人の間に挟まっています。やがてただ抱きしめられていた純真な王女の腕も魔王を倒した勇者を抱きしめるように彼の腰にまわり、星空の下、硬く抱擁する二人を見た住民たちはそれを見てさらに喝采を強めました。最早止める事も出来なくなったお祭り騒ぎの中で、数年間の空白と新しい愛を確かめ合う二人は誰にも邪魔することはできません。
そんな二人の姿を、離れた場所から虚無の王さまと死ぬべき所を生きている妃が見ていました。かつて忘却の魔王に挑んだ虚無の勇者と、そんな彼を愛した王女が居ました。思い出を捨てられず、忘却の魔王の眼前まで迫っておきながら引き返してしまった勇者。そんな彼を戦いの中に縛ってしまった事を嘆いた王女。
最早、二人の過去は取り返しがつきません。取り戻す事の出来る時間はどこにも無く、それなのに二人はお互いにわかれる事も無く、結婚して純真な王女を設けました。
それでもお互いに、相手がどんなに大切であっても、大切であるからこそ、裏切ってしまったのではないかという思いがぬぐえません。忘却の魔王の前で引き返してしまった虚無の勇者は帰りの旅路の中で多くの大切な思い出を失ってしまいました。思い出を失えば失うほどに、彼のなかにある裏切りへの自責が大きくなりました。そうして、そんな思いを抱えて帰って来た虚無の勇者の姿を見た王女は、その時自分がもっと早く死んでいれば彼をこんな運命に縛りつける事は無かったのではないかと思いました。愛されていたという実感があるほどに、その思いが彼女を縛ります。
結婚して、虚無の王さまと死ぬべき所を生きている妃となった時、二人はお互いに愛し合っていることを確認する事は出来なくなってしまいました。
遠く取り返しのつかない思い出に想いを馳せる二人に、姿の無い声が語りかけます。虚無の王さまにとってその声は、この世界に召喚されたときに聞いた声でした。
お前たちは、一体何をしているんだ。
呆れたように声は告げます。
こんなに幸せなお終いならば、そこに水を差すべきではないと語るように、水を差してしまう二人に告げます。
愛し合っているのなら、そのように振る舞えば良い。罪は水に流された、過去に積み重ねられた勇者たちの旅路は、ああして幸せに結実したのだ。虚無の王よ、お前の旅もまた、無駄ではない。ただそれがお終いでは無かっただけなのだから。そして、死ぬべき所を生きている妃。お前の想いに罪はない。あの純真な王女を見ろ。お前もああして、虚無の王を愛しているのだろうに。
二人が何か言うのを待つ事無く、声は消えました。
長い間すれ違った二人は、やがて見つめ合い、それまでの距離を捨てて、いつかそうしていたように寄り添います。
虚無の王さまは言います。
一番大切な思い出を捨てる事が出来なかった。その裏切りがあっても、私は君を愛していいのだろうか。
死ぬべき所を生きている妃は答えます。
あなたのやり残した事は、ああして彼がやり遂げてくれました。あなたをこんなにも長く戦いの運命に縛りつけたこのわたしこそ、あなたを愛しても良いですか?
円い月を向こうに、二つの影が一つに寄り添った時、同じく喝采の中心に居た二人も口付けをしています。それを見た住民たちは、彼らと同じくらい幸せになり、ようやく訪れた平和に再び喜びの叫びをあげました。
不幸だった国は、この夜幸せな国になりました。
そうして喜びと幸せは次の喜びを呼び、より多くの幸せを呼びます。
幸せな王様と、幸せな妃。二人の間に生まれた純真な王女。そして、魔王に幸せを見せた勇者。幸せを思い出した魔王は、それからしばらくの間彼らを見守っていました。忘却の魔王が居なくなった後も、彼らを苦難が襲います。
それでももう、彼らは勇者の奇跡を必要としていませんでした。奇跡は果たされて、彼らは苦難を乗り越えて行けるのです。そうして彼らは時間をかけて魔物たちとも分かり合い、共存するようになりました。広がった幸せの中で、小さな争いはあってもそれが大きくなる事はなく、穏やかな時間が過ぎて行きます。
やがて勇者と王女の間にも子供が生まれ、さらにその次の代へと彼らの命はつながっていきます。ただ、新しい勇者が召喚される事だけは、もう二度とありません。
それを見届けた幸せを思い出した魔王は、一人で静かに呟きました。
物語の終わりがこんなにも幸せに溢れているのなら、倒される魔王というのも悪くない。世界がこんなにも幸せに満ち満ちているのなら、倒された魔王も報われる。なぜなら、このわたしが倒されなければ、こんなにも幸せなお終いも、訪れる事が無かったのだ。
普通の勇者よ、君の選択に今こそ感謝しよう。君の奇跡は、こうしてこの魔王まで幸せにしたのだ。
そうして、今度こそ幸せになった魔王も幸せな気持ちを抱いて消えました。幸せな魔王の最後の呟きは、これからも続いて行く幸せな世界の中で、幸せな物語のお終いを告げたのでした。
おしまい。
異世界チートで書いてみようとした結果こうなりました。
ここまで読んでくださった人たちが思うチートがどんなものであるかはともかく、問答無用で幸せな結末に導くものはそうなのではないかと考えています。
主人公がチートである作品は、またいつか書いてみたいと思っています。そういった傾向のものに関心がある方には、またそこでお目にかかる事が出来れば嬉しい限りです。
最後に、感想なり評価なりつけていってくだされば、今後の活力になります。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。